魂だけが、まるで浮遊しているような。
感覚すらない、全てが知覚できるものですらない、不可思議な空間。
「……ここは、どこ? 」
瞬き一つで、世界の質そのものが変わってしまう空間。
枯れ木だけが幹を連ねる冬の山にいたかと思えば、次の瞬間には艶やかな花々が咲き誇る春の庭園へと足を降ろしていた。かと思えば、足下があるのか、ないのかすらわからない月光の雲海へと投げ出されている。
瞬き一つで景色の変わるこの世界。それだけでも摩訶不思議なこと極まりないというのに、視覚だけでなく、聴覚・嗅覚・触覚といった味覚を除く五感が、きちんと再現されていた。
こんな空間は、たとえ現代日本…いや世界最先端と言われるあらゆる技術を駆使したところで、全く同じ空間を生み出す事はおそらく不可能だ。
とりあえず命拾いした事に、代わりはないだろう。
だが。どうせなら、もうちょっと普通に命拾いをしてみたかったと思う上総だった。
(……私、これからどうなっちゃうの……?)
心細さと先の不安とで、知らぬ間に上総の目に涙が溜まりだしたちょうどその時。
何もかもが不安定な空間の中で、唯一彼女が知りうるものが確かに見つかった。
(笛、の音………?)
上総の耳に届いたのは、横笛…のような楽器の音だった。
小さい頃から“天才的な音感音痴”だの“絶対音痴”などと言われ続けた彼女だが、音質の違いを聞き分ける事に関しては人並みの感覚を持っていた。
だからこそ、彼女の耳がキャッチした音色は、多分笛の音で間違いないだろう。
何もかもが不安定な空間。
一瞬で世界が構築されていく、摩訶不思議な空間で。
ただ唯一、その笛の音だけが普通であり。上総が理解出来るものだった。
だからこそ、彼女は躊躇いもなく、その音に向かって歩き出した。
*********************
何がどうしたと、言われてしまえば説明し難いことなのだが。
わかるのは、降ってきたのが彩雲国の人間ではないことくらいーーー。
そこまで考えて、ふと青年は口元に笑みを浮かべた。
そんな彼の視線は、突然降ってきた人間の下敷きになった碧珀明を助け出そうと悪戦苦闘している少年少女たちへと向けられていた。
予想のついていた事とはいえども。三人の少年少女たちの反応は、やはり常人のそれといささか違っていた。普通ならばもっと驚いてもおかしくもない状況下に置かれながらも、彼らの反応は実に彼ららしい、個性的な反応ばかりだった。
(……さすが、我が親愛なる心の友たちとその他一名だ)
自分の行動を計りきれないながらも、けして逃げるのではなく、その他諸々の人々に接するのと同じ態度を示してくれたーーー始めて見つけた対等たりえる存在。兄たちが無言で与えてくれた長い自由時間を使ってようやく見つけた、この世界と彼とを繋ぐ唯一の楔たる彼らはどこまでも寛大で優しい。
まあそれ以外の人間も約一名含まれているが、彼もまた心の友とまではいかなくても十二分に信頼に値する人間である事は間違いない。散々に文句を言いながらも、結局こうして自分と向き合って会話をするくらいの度量は持ち合わせているのだから。
ゆえに。珀明を“心の友”と素直に呼べないのは、単に相性の問題だろう。
「ちょっと、龍蓮! 貴方もそこでボウッとしてないで手伝いなさいよ!!
あれだけぴ~ひょろ笛吹く体力があるんだから、少しは世のため人のために使ってみたらどうなのっっ!!! 」
ほぼ蚊帳の外からの傍観姿勢を貫く龍蓮に気づいたのか。
肩で息をする秀麗が、怒りで顔を紅潮させたままで怒号を叩きつけてくる。
怒鳴られているのに嬉しいと思ってしまうのは、怒鳴っている相手が彼女だから。
性別すら越えた深い友愛の情で結ばれた、まぎれもない“心の友”だからだ。
ただしこの状況下で笑顔を浮かべてしまえば、間違いなく秀麗の怒りは怒髪天を衝くことだろう。怒鳴られるのは構わないが、さすがに嫌われる要素を作るのは嫌だったから。敢えて龍蓮は、自身の感情を制御して、心の内を悟られないように無表情を作った。
そうして彼は見苦しくない所作でーーはたから見れば実に流麗な所作でーー着物の裾を払うと、その場に立ち上がった。この時点で、先ほどまで持っていた龍笛は邪魔になるとわかっていたから、すでに懐に大切にしまってある。
しかし、ふと龍蓮の目がある一点に止まった。
彼の視線が止まったのは、珀明の上に落ちてきた謎の女性の左腕だ。この彩雲国では見た事もない形状の服、その二の腕の辺りは赤黒く染まっていた。もしかしたらああいうデザインの服なのかもしれないと、一瞬思考するものの。彼女が右手で左腕を庇うように抱えていたことから、それが出血によるものだと確信する。
だが、秀麗たちはそのことに気づいているのか。いないのか。
彼女たちの性格からすれば、怪我をしていることに気づけばそれなりの対応をするだろう。だがそれが全くないという事は、案外と二人はそのことに気づいていないのかもしれない。
そこで龍蓮は、さりげなく忠告してみる。
「ほかならぬ我が心の友其の一の頼みとあらば、黙って見ているわけにもいくまい。
しかし、我が心の友たちよ。一つ言わせてもらえまいか。いかに人助けのためとはいえ、手傷を負った女性に対してそのように乱雑な扱いをするのは、いかがなものかと思うぞ」
すると。ぷっちん、とどこからか音が響いたような錯覚を覚えた。
その音の出所は、途端に表情を仁王のそれに変えた秀麗の所だ。
「そう思ってるなら、さっさと手伝いなさいよっ!!!!」
怒りも頂点を越えたらしく、今にも龍蓮に掴みかからん勢いの秀麗を後ろから影月が必死で抑えている。そんな二人のやり取りを見ながら、下敷きにされた珀明がまた何事かを叫んでいた。
(………本当に、面白い)
彼らのやり取りを心底興味深く拝見しながら足を進めた龍蓮は、目的の場所へと辿り着くと、珀明の上に覆い被さっていた女性をこともなげに抱き上げた。
端から見ると華奢に見える龍蓮だが、実は腕っ節も相当強い。
ゆえに女性一人を抱き上げる事など、造作なくやってのける。
「この孔雀!! 最初からお前が来れば、僕はこんなに長い間潰されずに済んだんだぞ!」
解放されるやいなや速攻で食ってかかってきた珀明を綺麗さっぱりと無視したままで、龍蓮は自分が抱き上げた女性を改めて見下ろした。
纏うのは、彩雲国で普及しているものとは全く形状の違う着物。
ほのかに香るのは、この国ではまず使われない不思議な芳香。
そして何よりも彼女を異様な存在として見せるのは、肩につくかつかないかで切り揃えられた癖のない漆黒の髪だ。
彩雲国はもちろんのこと、この国の外にある諸国でも「髪の短い女性」はまこともって珍しい存在であった。長い髪は美人の象徴であり、同時に高貴な女性の身だしなみの一種でもあった。艶のある麗しい髪を保ち続けることこそ、女性が美しくあるための必須項目。
例外として、出家した女性は俗世との縁を切る意味を込めて髪を切るらしいが、それでも肩を越える位の長さは残して切るという。
だのに彼女の髪は、肩につくかつかないかの長さで綺麗に切り揃えられている。
「……僕、こんなに髪の短い女の人、初めて見ました」
感嘆の溜息と共に口をついて出た影月の言葉こそ、まさに皆が思っていることそのものだった。
「当たり前だ。
上からいきなり降ってきて僕を押しつぶすような人間が、ただの人間のはずがない」
一方の珀明は、先ほど下敷きにされたことを根に持っているのか。結構言ってることが容赦ない。だが半ば感情的に叫んだ台詞でありながらも、きちんと現実を踏まえているところはいかにも優等生な彼らしい。
「今はそんなことどうでもいいでしょ。それよりも怪我の手当をしなくちゃ!
私は医務室に行って清潔な布と包帯をもらってくるから、影月君はお湯沸かしておいて」
ぴしゃりと言い放つ秀麗の言葉は、いかにも彼女らしい。というよりも、目の前の女性が怪我人だと知っていて、全然関係ないところで感心している男性陣の方がおかしい。
「はい、それじゃあそっちはお願いしますね。僕は珀さんと一緒に、お湯を沸かしておきます」
とはいえ、元は医者志望だった影月である。すぐに持ち直すと、隣にいた珀明の腕を取って早速お湯を沸かしに行こうとする。
一瞬されるがままになりかけていた珀明だが、はたと我に返ると影月の手を無理矢理に振り払った。
「こら、お前らちょっと待て! というか小動物、さも当たり前のように僕まで一緒に巻き込むな! 僕はそんなことをしていられるほど暇人じゃないんだ!! 」
曲がった事が嫌いな珀明にしては、ずいぶんな言葉である。
まさか彼の口からそんな言葉が出てくるとは、想像だにしていなかった秀麗は目を瞠った。
「何言ってるのよ! 怪我人を放っておけとでも言うの?! 」
「怪我人は怪我人でも、これは人外魔境だぞ! その上、僕を押しつぶした奴だぞ!
そんな人外魔境を世話してやる義理は、僕にはない! 」
要するに珀明は、さっき押しつぶされたことを未だに根に持っているのだ。
「……なるほど。道理で、そなたが我が心の友候補にならなかったはずだ。
いかに人外であろうとも、怪我をしている者を捨て置くなどまっとうな人間のする事ではないぞ。今からでもまだ遅くはなかろう。俗世の全てを捨て、そなたも自分探しの旅に出てみればどうだ。 そうすれば間違いなく、この先の人生が変わるぞ 」
「孔雀は、黙ってろっっ!! 」
額に青筋を浮き上がらせて、珀明は場違いな台詞を吐いてきた龍蓮を怒鳴りつける。
「本当にちょっとだけお手伝いして頂ければいいんですよ~。
だからお願いします、珀さん」
影月はちょっと困ったような表情を浮かべて、珀明の顔を覗き込む。もとより根が正直な珀明のことだ。天秤にかけてみれば、怪我人に対する怒りよりも影月や秀麗を困らせているという罪悪感の方に比重がくるのは、ある意味当然の成り行きである。
「……お湯を沸かすだけ、だぞ。それ以上は絶対に手伝わんからな!! 」
最大限の譲歩…もとい、なんとか機嫌を直した珀明の言葉に、影月はニッコリと頷いた。
そうして彼は、続いて龍蓮の方へと顔を向ける。
「はい、お願いします。龍蓮さんは、その人を寝台の上に寝かせてあげて下さい」
「うむ、他ならぬ我が心の友其の二の頼みだ。承知した」
奇妙奇天烈な行動ばかりが目につく龍蓮だが、彼はけして言葉に出した約束を違える事はない。そのことを何とはなしに知っていた影月は、それじゃあお願いしますとだけ言い置くと、珀明の腕を引いて厨房同然となっている部屋へとお湯を沸かしに行った。
秀麗はと言えば、医務室に必要な物を取りに行ったのか、すでに姿はない。
「………異郷から来た者、か………」
一言そう呟くと、龍蓮もまた成すべきことをするために、その場を離れた。
腕の中にいる女性はまだ、意識を取り戻す様子はない。
******************
(なんで、途切れるのよ……)
笛の音が聞こえなくなってから、もうだいぶ時間が経過していた。
一時は笛の音に導かれるように歩き続けた上総だったが、それが聞こえなくなるとまたどこへ行って良いのかわからなくなってしまう。
もとよりここに、道という道が存在するのか。それすらも定かではない。
道標も道も存在しない、無の空間。その景色は先ほどのように千変万化の変化を見せる事はなかったが、歩いても歩いても視線の先に広がっているのは無音の闇だけだった。
何もない闇の中をひたすらに歩いても、何も変わらない。ただむやみやたらと不安や恐怖が心の中に押し寄せてくるだけで、事態が暗転することあれ好転はする様子もない。
いっそこれなら、ひと思いに殺されていた方が良かったのだろうか。
どこともしれぬ闇の中を歩き続けるのと、通り魔に突き殺されるのと。
どちらも大差ないように思えるのは、けして上総の気のせいではあるまい。
(生に対して、それほど執着していたつもりもなかったのにね……)
家賃と自分の生活費と、学費とを稼ぐためだけに奔走していた毎日。学生なのだから学業が本業であるのだろうに、最近ではすっかりバイトの方がメインにすらなっていた。
なんのために大学へ行ったのだろう。
法律を勉強して、法律家になりたかったから?
それともただ面白半分で?
今となっては、それすらもあやふやになっていた。
皆が大学に行くから、だから大学を受験したのか。
それとももっと確固たる意志があって大学への進路を選んだのか。
周りを取り巻く闇は、より一層上総の心の奥にあった闇を押し広げていく。
だが………。
(……考えても仕方ない事を、どうして考える必要があるの?)
今一番に考えるべきは、これから先のこと。この空間をどうやって抜けるか、空間を抜けた先には一体何があるのか。抜けた先でどうやって生活していけばいいのか。
過去を悔やみ、己を責める事などいつでもできるのだから。
闇に捕らわれかけていた上総の意識が、わずかに浮上した。
過去の闇など振り返る暇はない。今見据えるべきは、行く先に滞る未来の闇だけだ。
ふと。闇の中に、新たな旋律が生まれた。
一体誰が詠っているのかはわからないが、透明感のある中性的な声で紡がれる詩。
それは深い深い闇の中に、澱みを生み出すかのように朗々と響き渡る。
「………ちゅ、中国の詩………かしらね、これ……? 」
文系も理系もそつなくこなす上総だが、こと漢文のみは彼女の許容範囲を超えていた。
古文は読めるし、近現代の文書に書かれた文語体の文章もそれなりに読める。
しかし……。どういうわけか、漢文や漢詩、唐詩はまるで駄目だったのだ。
ついでに言うなれば、第二外国語でとっている中国語の成績も散々たるものであったから、もとより彼女は中国関係の物とは徹底的に相性が悪いのだろう。
唯一平気なのは、三国志や水滸伝、封神演義や西遊記といった中国文学くらいなものだ。
だが、全く意味のわからない彼女でも、絶対音感音痴の異名をとる彼女でも。
この詩の詠い手の持つ芸術的センスが、並はずれたレベルであること位は理解できた。
まるで意味が取れないのに、耳に届く単語の羅列はたちまちに流れを作り出す。
それらの単語が奏でる調べは、美しく流麗なる響き。
澄み切った澱みのないテノールヴォイスは、清冽な水の流れのごとし。
美しい沢の光景すら脳裏に映し出す、その旋律は清廉にして典雅。
(これは……、さっきの笛の音と同じ人……?)
疑問は尽きない。
それでも。 ささいな疑問を押し流してくれるほどに、この歌声は美しかったから。
上総は耳に届く心地よい詩の調べに、全てを任せて目を閉じた。
********************
途端に、左腕に鈍い痛みが走る。
(………あぁ、そうか。あの時、刺されて……)
視界はまだはっきりとしないが、とりあえずこのまま傷口を放置しておくのはよくない。とにかく応急処置くらいはしておこうと思い、上総はなんとか上体を起こそうとする。
と。
「………起きるのか? 」
思いがけないほど近くで、誰かの声がする。まだ視界がハッキリしていないだけに驚く上総だが、あいにくと彼女の驚きはそれだけでは終わらなかった。
つい先ほどまでは重くて思うように起こせなかった身体が、いきなり楽に起き上がったからだ。
ふと鼻先を掠めたのは、清楚で甘やかな。それでいて爽やかな香り。
(お香か何かの香り、かしらね………)
とりあえず上総は未だうっすらしている視界を改善するため、目元を両目で軽く擦るとパチパチ何度もまばたきをを繰り返す。その甲斐あってようやく視界のぼやけがおさまってきたところで、彼女はお礼を言おうと思って、俯き加減になっていた顔を上げた。
そうして。
上総は驚きのあまり、まさに文字通り言葉をなくしたのだった。
(……えーーーーっっと………)
黒という色がこれほど人の美しさを引き立てる色だとは、正直上総は思っていなかった。
一般に『黒は女を綺麗に見せる』と言うが、黒が似合うのは何も女性に限った事ではない。
そう、今上総の目の前にいる名も知らぬ青年の例があるように。
切れ長の瞳に宿るのは、混じりけのない漆黒の色彩。目元にかかる艶やかな髪は、どこまでも深い闇色だ。象牙色の肌は見るからに滑らかで、全くもって女性からすれば羨ましい限りである。
どこか不可思議な雰囲気を宿すその容貌は、まさに眉目秀麗と呼ぶにふさわしい。
これほどの美貌を持つ人間にお目にかかったのは、上総は初めてだった。
だが彼女が言葉をなくしたのは、それだけが原因ではない。生まれて初めて見る美青年に抱きかかえられているという状況が、さらに彼女の頭を混乱状態に追い込んでいたのだ。
(……ハッ、いけない! 助けてもらって、お礼を言わないのは最低だわ……!)
だが思考回路がぶっとんでいたのも、最初の数秒間のことで。
はすぐに本来の思考回路を運転させると、とりあえず目の前の青年に”上体を起こすのを手伝ってもらったこと”にお礼の言葉を述べる。
「………あ、ありがとうございます………」
多少かすれた声ではあったものの。なんとか口が動いたのは、奇跡である。
「気にする事はない。当然の事をしたまでだ」
対する青年は、こともなげに答えを返してくる。
低くもなく、高すぎもせず。どことなく中性的な響きのある、綺麗なテノール。
その声音はどことなく、先ほどの詩を詠っていた声によく似ていた。
そう思った瞬間、上総は思わず青年の着物の裾を掴んで訊ねていた。
「あ、あの……会って早々いきなり変な事聞いてしまって申し訳ないと思うんですが、先ほどの漢詩を朗詠していたのは、貴方ですか? 」
突然まくしたてられるように訊ねられて、彼は驚きの表情を隠せないようだった。
だが。何らかの心当たりがあったのか、彼はすぐに表情を和らげた。
「そなたの言うことは正しい。確かにあの時漢詩を朗詠していたのは、私だ。
それがどうかしたのか? 」
(やっぱり………)
世界であるようでない、狭間のような領域。
その中で彷徨う自分を導いてくれたのは、この声だった。
本来、人であるならそんな事が出来るとは思えないし、出来ないだろう。
だが。目の前の人物には、なぜかそれが出来てしまうように思えたのだ。彼が纏う雰囲気は、どことなく人とは違ったものを思わせる。その纏う雰囲気然り、美貌然りだ。
「助けて頂いてありがとうございました。おかげでなんとか助かりました。
まさか仙人様に助けて頂くなんて…………なんと畏れ多い」
ぺこりと頭を下げる上総に、相手は驚きを隠せない。
そりゃあそうだろう。いきなり仙人呼ばわりされたのだ、誰だって普通は驚く。
だがあいにくと、上総はしごく真面目に本気でそう言ったのだ。
殺される、その瀬戸際に。上総は確かに“苦しい時の神頼み”をした。
いちかばちか、到底叶えてくれるとは思わなかったその願いを、神様…あるいは菩薩様が聞き届けたのだろう。次に目覚めた場所は、異空間としか言いようのない場所だった。この時点で、上総はすでにここが自分の本来あるべき世界でない事は薄々と感じていた。
出口もない、誰もいない、文字通りの無の空間で彷徨うしかなかった上総。その彼女を出口へと誘ったのは、不思議な笛の音と目の前の青年の詩声であった。
そして、彼女が無事に目覚めた先に、この人はいたのだ。
その身に纏う雰囲気もさることながら、謎の異空間に干渉し、上総を導いてくれたーー少なくとも彼女はそう思っているーー彼がまさか一般人であるなどと誰が思えようか。
明らかに人外の存在としか思えない。
となれば彼は、神か精霊か。はたまた菩薩か、仏か、仙人か。
とりあえずいくつか候補を挙げてはみたものの、その中から答えを一つに絞る方法がなくて悩んでいた上総だが。迷いにった挙げ句、青年の着ているやたらど派手な服が“大陸の着物”に酷似していることに気づき、ここを仮に“中国っぽい土地”と想定。中国で不思議な力を持った人=仙人という公式の元に、ようやく彼女はこの発言を実現させるに至ったのである。
「……あいにくだが、私はまだ仙人ではないぞ? 」
普通ならここで“私は仙人ではない”と答えるところなのだが。あっさりとこんな答えを返してしまうところが、この青年の彼らしさであろう。
ここにもしも他の人間がいたのなら、『まだって言うのは何だ!』とでも突っ込みを入れていたに違いない。
だけれども悲しいかな、ここにいるのは彼一人だった。
「あらまあ、じゃあまだ修行中なんですね」
一方の上総は上総で、“彼=人外の存在”という公式を脳内で確定していたから。まるっきり彼の言葉を疑うことなく、真顔でそう切り返した。
「うむ。そのうち修行して、八仙顔負けの立派な伝説を作ろうと思っている」
「目標があるなら、きっとなれますよ。頑張って下さいね」
まるでとんちんかんな青年の言葉に、上総は上総で彼に負けず劣らず意味不明な言葉を返す。
この光景を他の人間が見たら、一体どう思う事だろうか。少なくとも突っ込みどころ満載である事は、まずまず間違いはないだろう。
「ところで、ここはどこですか? 」
仙人界だったら、崑崙山かはたまた蓬莱山か。人間界だとしても、おそらくは人里からずっと離れた山の奥なのだろう。
すでに上総の脳内は、封神演義的世界へと突入していた。彼女の中で“仙人”ときたら、封神演義にしか直結しないのだ。
「ここは王宮内の牢屋だ」
対する青年はといえば、やはりこちらも顔色一つ変えぬままあっさりと言い放つ。
「なるほど王宮内の牢屋………………って、は…………? 」
自称修行中の仙人もどき美青年の口から出てきた意外すぎる言葉に、上総は情けないことに開いた口が塞がらなかった。
(修行中の仙人様が、なんで牢屋に……???)
彼女の疑問が完全に解決するのは、一体いつになることやら。
*後書き…
・ようやく続きをupしました。な、長かった……。
なかなかヒロインを目覚めさせるまでが全然進みませんでした。
ここまで書くのに、もう大変で大変でした。はう~~~。
随分と難産だったお話ですが、なんだか微妙な仕上がりになりました。
後半でようやくヒロインと龍蓮が出会ったわけですが、なんだかものすごくとんちんかんな会話をしてます。
断っておきますが、ヒロインはごく一般の思考を持つ現代人です。
ですが、ここへ来るまでにありえない体験を立て続けにしているので、半ば脳内思考が行かれている様子。
龍蓮のことを仙人呼ばわりしてる辺りで、もうすでに末期か…?
ずれているはずの龍蓮と会話を成立させるには、やはり最初が肝心かな…と考えに考えた挙げ句、こんなんになりました………(涙)。その割には結構ウケは良いようで、安心してみる。ホッ。