はらはらと、風に流される花弁はほんのりと優しい香りをも一緒に運んでくれる。
 時期の花を愛でたいと感じる心の前には、身分や家柄といった人間たちのしがらみなどそれこそ春の霞の如く消え散るものなのか。この広い王宮でも、そこかしこに桜の木が植えられていた。

 人々の目を楽しませてくれる桜だが、その花の寿命はまこと短い。それは大地に足を下ろして数年も経たない若木であろうと、数十年の歳月を経てなお生き続ける老木であろうとも変わらない。
 一年のうちで桜が艶やかな姿を見せるのは、極寒の季節を耐え抜いた大地が再生を始める頃。草木が新しい命を芽吹かせ、色とりどりの花々が咲き誇る生命の息吹を間近に感じることのできる始まりの季節―――それもそのわずかにしか満たない時期だけだ。
 一年のうち数日間しかないその時期のために、桜は寒い冬を懸命に生き永らえる。そうしてやっと訪れた暖かな春の日差しに導かれるように、彼女たちは薄紅色の、あるいは薄桃色の花弁を綻ばせて咲き誇る。

 木々がすっかり葉を落とし、細い枝と幹が野ざらしになる冬将軍の天下たる冬。彼らが好んで降らせる白雪は、一瞬で熱を奪うほどに冷たい。だが雪に閉ざされ、銀色一色に染められた世界の中でも、椿は鮮やかな深紅の色を纏い続ける。吹き付ける木枯らしに立ち向かうように花開くのは白と紅の梅花、冷たい風の中にかすかな春の訪れを予感して綻ぶ濃淡な桃花。
 そして。それらの花々の季節を経てようやく春を迎えた時、桜花はいよいよ花開く。その姿は、生命の息吹が吹き荒れる春を象徴するにふさわしく、冬に咲く花々のどれよりも艶やかで華やかだ。花弁を綻ばせる一つ一つの花は可愛らしくも、可憐。にも関わらず、それらの花々は木々の枝を埋め尽くすような勢いで咲き誇る。生命の力強さと新たな命の輝きとを象徴する桜花の美しさは、他の春の花々の追随を許さないだろう。

 だが同時に、桜は命の儚さの象徴でもある。

 豪華絢爛に咲き誇る花にも必ず終わりは来る。どれほど人が栄華を極めようと、この世界に生を受けたそのときに定められた”死”の到来から逃れることは出来ない。


 祇園精舎の鐘の音  諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色  盛者必衰の理を表す
 おごれる者も久しからず  ただ春の夜の夢の如し



 風に乗って舞い散る花弁は、美しくもありながら同時に儚い。


「…………今年も、綺麗に咲いたわね……」
 淡雪のように舞い散る淡紅色の花びらが、綺麗に結い上げられた秀麗の黒い髪に落ちていく。美しい着物に身を包み、手には彼女手製の饅頭を乗せた盆を持って。秀麗はその場に佇んでいた。

 だが彼女の浮かべる表情は、けして明るいものではなく。
哀しみに彩られた、静かなーーー無表情だった。

 穏やかに咲き誇る桜は、春と平穏の象徴。

 だが同時に、秀麗にとっては………


 過去に心に抱えた心の傷と、哀しみ………涙の象徴でもあった。



 しばらくの間、何を言うでもなく桜を眺めていた秀麗だったが、そのうちふと我に返る。

(私は……、ここに感傷に浸るために来たわけじゃない………)



 ただ自分に、出来ることを。
 かつて失ってしまったものを、二度と失わないために。


 望むのは、ただそれだけ。




***************************



 桜川といっても過言ではない様相の回廊を、一人の少女が歩いていた。その足取りは、とても軽い。軽やかな足取りにつられるように、高い位置で一つに括った漆黒の髪が揺れる。髪を括るすぐそばに挿した銀細工の簪も、しゃらしゃらと高い声で歌っていた。
 舞踊でも踊っているような軽やかな足取りと着ている着物が桜花色であることも相まって、その姿は桜の精霊が気まぐれに人の姿を取ったかのような錯覚すら覚えさせる。
 だが彼女の腰に差された双剣を目にすれば、人は錯覚を錯覚と感じられる事だろう。

 剣を形作るは、“金”。かたや木である桜の属性は“木”だ。
金剋木――鋼で作られた斧が木を切り倒すように、金は木に剋つとされる。桜の精霊は、木に連なる者。けして己を脅かす宿敵たる金属性の物を身につけるはずがない。

 そんな彼女が手に持つ盆の上に乗っているのは、桜を形取った淡い真珠色の茶器と綺麗な長方形の形をした見慣れないお菓子。桜を形取った茶器の中から溢れてくる優しい香りは、昨日黎深から譲り受けた甘いお茶――桃花番茶のそれだ。


 鼻歌混じりに歩いていた少女――の足が、ふと止まる。
視界の先に、ちょうど捜していた目的の人物を見つけたからだ。

 彼女は足早に、目標人物へ向かって気配もなく進む。
その様は、まるで獲物を捕獲しようとする肉食動物を彷彿とさせる。


「絳攸、みっけ♪」

 快活な声に呼び止められて、同じく回廊を歩いていた二人の青年のうち一人が後ろを振り返った。

か、どうした」
 やや癖のある硬めの髪は、仄かに銀色を含む淡い水色の色彩。一見すると猫を彷彿とさせる切れ長の瞳に宿るのは、深い知性の輝き。双眸を彩るのは、初夏に蝶型の花を実らせて人々の目を楽しませる藤花の如く淡い紫の色彩だ。理知的で端正な面差しは、眉目秀麗。だが無表情に彩られたその表情は、磨き上げられた宝玉のように美しくも、どこか硬い印象を見る者に与えることだろう。
 だが、既知の少女に向けられた表情を見る限り、そんな雰囲気はどこにも見当たらない。

「叔父様から美味しいお茶を頂いたから、桜を見ながらのんびりお茶でもしようかと思うんだけど……。絳攸も、一緒にお茶飲まない? 」
 そう言っては、ごくごく自然に笑顔を浮かべる。

 絳攸はそんな彼女の頬に手を伸ばし、頬にかかった後れ髪を指で払ってやる。
けして珍しくもない彼の行動だったが、は知らぬうちに頬を赤く染めていた。
 もっともそのことに気づいたのは、絳攸の隣にいた青年――藍楸瑛だけであって。絳攸も当の本人であるも、まるでそのことに気づいてはいなかった。

「桜か…。そういえば、ここ最近まともに花見をしたこともなかったな…」
 の言葉に、ふと思い起こしたかのように、絳攸は視線を外へと向ける。そうして、回廊に沿って枝を伸ばし、美しく咲き輝く桜並木――その美しさをしばし目を止めて。
春を彩る桜の艶やかさに魅了されたかのように、感慨深く呟いた。

「でしょ、でしょ? 天気も良いし、まさに絶好のお花見日和よね。
折角のお花見だからと思って、わざわざお菓子まで作って来ちゃった」

「とすると、その見慣れないお菓子はの元いた世界のお菓子かい? 」
 そんな声がするなり、の持つ盆に乗った長方形の一つが宙を浮いた。そして、長方形のお菓子をつまんだしなやかな指の持ち主は、彼女の了解も得る前にお菓子をつまみ食いしてしまう。

「あーーっ!!! 」

「………相変わらず、懲りない奴だな…」

 二種二様の声が返ってくるなかでも、楸瑛は笑みを浮かべるのをやめようともしない。
表面上を取り繕うだけのものではない、心の底からのものだとわかるその笑顔は、掛け値なしに麗しい。彼のその笑顔を偶然見かけた女官がいたとすれば、たちまち虜になってしまうに違いない。

「今のなら手が塞がっているから、抜刀する事は出来ないだろうしね。
それより君も食べてみるといい。折角が君のために作ったお菓子だ。
食べないのは、彼女に失礼というものだよ」
いかにも貴公子らしい風情の秀麗な美貌を持つ青年――藍楸瑛は、浮き名を流しまくっているその経験が物を言うのか、女性の機微にひどく敏感な一面も持つ。

そして楸瑛の予想に漏れず、図星をつかれたは、耳まで真っ赤になった。

(なんでいちいちそういうことをばらすんですかっ!!!)

 本当は彼の胸ぐら掴んで怒鳴ってやりたいところなのだが、そんなことをすれば楸瑛の言葉を肯定しているも同然。それゆえには、仕方なくも楸瑛を下から睨み上げるだけで済ませるしかなかった。

「……一つ、もらうぞ」
 楸瑛とのやり取りを見ていただろうに、それでも絳攸は表情を変えていない。
というよりも、意図的に表情を隠していたとも十分に考えられるのだが。
 何はともあれ絳攸は、が作ってきた見た事もないお菓子を一つつまむと、躊躇うことなく一口囓った。

「……どう? 美味しい? 」
 おそるおそる訊ねるだが、その言葉に返る絳攸の言葉はない。
特に何の言葉も返さぬまま、彼は黙って長方形のお菓子をもう一口囓った。

「何も言わないのは、何も言う必要がないくらいに美味しいからだよね、絳攸? 」
 さりげなくの視線を避けるようにそっぽを剥いている絳攸に向かって、楸瑛はにこにこと笑っている。その笑顔に含まれるのが、ほぼ十割が面白いという感情であることなど、絳攸にもにもお見通しである。
 人事のようにーー事実人事なのだがーー面白がる楸瑛の手が、ごく自然な動きで長方形のお菓子へと伸びてくると、は軽く身を翻してその手を避けた。

「あ、藍将軍。一つは許しましたけど、これ以上は食べないで下さいね」
 さらに、そこへしっかりと釘を差しておく事ももちろん忘れていない。

「……。昨日の事を怒ってるのかい? 」

「昨日の事? さてなんのことでしょう?
でも藍将軍がそう思うのなら、そうかもしれないですね」
 伸ばした手を引っ込めることが出来ずにいる楸瑛がさりげなく聞いてみると、はニッコリと笑顔を浮かべてそれを撃退する。

「お前、また何かやらかしたのか」
 絳攸はと言えば、楸瑛の味方をしてやるまでもなく傍観の姿勢に徹している。
もとより彼がの味方につくことはあっても、楸瑛の味方につくことは皆無に等しい。

「……べ、別に何もやましい事はないつもりなんだけどねぇ……」

「へ〜、そうですか。
それならご自分の胸に手を当てて、よぉ〜く考えてみてはいかがです? 」
 ニコニコと笑顔を浮かべるだが、語りかけるその声は全くの棒読みだ。

「……………」

「そんなに劉輝の事が知りたいのなら、直接御自身で聞きにいけば宜しいんじゃないですか? だって藍将軍、一応武官ですものね? 万が一襲われそうになったとしても、御自身でどうにでもできるでしょう? それを私から直接聞きだそうだなんて、ずいぶんと姑息な手段をお取りになるんですね。藍将軍? 」
 とどめとばかりに極上の笑みをもって、楸瑛に微笑みかける。だがその背後にある花は、桜や藤といった美しい花々ではなく。おどろおどろしい印象が拭えないウツボカヅラなどの食虫植物や毒々しい朱色の花を咲かせた巨大なラフレシアだった。
 言葉の背後に黒いオーラを漂わせるの姿に、楸瑛はふと氷の微笑と畏れられる某尚書の姿を思い起こした。



「………絳攸。君はと二人で花見を楽しんでくると良いよ。
私は……その、なんだ……ちょっと上司に呼ばれててね………」
 言外にとっとと向こうへ行けと言われている事を悟った楸瑛は、隣に立つ絳攸の肩を軽く叩く。
 いつもならその手を払いのける絳攸だったが、妙に彼の口調に覇気がなかったので、そちらに気を取られて、されるがままになっていた。

「……どうした、楸瑛? 」
 訝しむ絳攸に、まさか事実を語れるはずもなく。
彼は片手を挙げて、友人の問いになんでもないと応える。

 しかし、何気なく横をすり抜けたそのわずかな瞬間を狙って、楸瑛は素早く絳攸に耳打ちした。

『…それと、余計なお世話かも知れないけど。
が君の上司みたいにならないように、祈っていた方がいいかもしれないよ』


が、黎深様みたいに……???)

 かたや単純明快、思いこんだらひたすら猪突猛進型の
 かたや人より遙か先を見据える、冷静沈着・聡明にして英知なる非凡の才格者たる黎深。

 どちらかといえば、限りなく対極に近い性質を持つこの二人。
一体その二人がどうすれば『似る』というのだろうか。

 絳攸は、腐れ縁の同僚の言葉に首を傾げずにはいられなかった。

 しかし、いくら彼が頭をひねって考えたところで、その答えは出るはずもなかった。
なぜならは、絳攸の前ではけしてそんな一面を見せる事はないのだから。



「………

「なあに、絳攸? 」

 呼ばれて上目遣いに視線を上げてくるを、絳攸はしばし眺めていたが。

「いや……なんでもない」
 ふと視線を逸らし、苦笑いを浮かべた。

「……だからなんだったの? ねえ? 」
 するとたちまち頬をふくらませて、はしつこく答えを迫ってくる。
その姿は、まるで構って欲しい猫が拗ねているような様子を彷彿とさせた。
基本的にどこまでも気まぐれで、甘える時はとことん甘えてくるこの虎姫は、知謀や策略といった頭脳戦とは全くに対照的で。ひたすら感情のままに動き、行動する。

 そんな彼女を可愛いと思う反面、目が離せないのが現状。

 絳攸は頬をふくらませるの頭を優しく撫でてやる。
そうして、彼の行動の意味が全くわからずキョトンとしている少女と、目線を合わせて
「……なんでもないって言ってるだろうが。
その代わりに、今日一日はお前にとことん付き合ってやる。それでいいか? 」

「いっ、一日?! え、ホント? 嬉しい!! 」
 途端に表情を輝かせたは、喜色満面の様相で喜びを露わにする。もしも彼女の両手が塞がっていなければ、迷わず絳攸に抱きついていたことだろう。


(あぁっ、叔父様、ありがとうございますっっ!!!!叔父様の言う通りにしたら、藍将軍はいなくなったし、デートまで出来ちゃうなんて最高!!!
その御礼に、今度は一緒に黄尚書のお宅訪問しますから!!!)


 吏部の尚書室にあるというお茶をもらいに、これより更に早い時間に黎深の所を訪ねたは、お茶を貰い受けて部屋を後にしようとした時に部屋の主から声をかけられた。

『昨日、回廊で私にぶつかるまで、一体何を考えていた? 』

 さすがのも黎深に隠し事をすることは出来ず、楸瑛にあやうく誘導尋問されかけたことをありのままに話した(やや感情的な描写も含まれていたが)。
そこで黎深が彼女に授けたのが、楸瑛をいともあっさりと退けた例の台詞の作り方である。

『見返してやりたいと思ったなら、本当は怒ってやりたいところを抑えるといい。
笑顔のままで、回りくどく。
それでも相手が後ろめたく感じるような言い回しにするのが、コツだ。
後ろめたいことのある相手は、たいていその時点で逃げ出すなりする。
もしそれがうまくいけば、あれと一日中二人きりでいられるぞ』

 まさかここまでうまくいくとは思っていなかったは、心の中でほんのわずかでも彼の言葉を疑ってしまった事を黎深に深く深く詫びた。
 そうして、黄尚書…もとい鳳珠から『くれぐれも黎深の奴と一緒に私の屋敷には来ないで欲しい』と懇願されていたにも関わらず。鳳珠をからかう目的でもって同伴の屋敷訪問をしたがる黎深のお誘いに、今度だけは付き合ってもいいかと思うのであった。



**********************



 珠翠に”桜花の虎姫”が出現しそうな場所を聞いたはよかった。
よかったのだが、秀麗にはまるでその場所の検討がつかなかった。

それもそのはず、珠翠が告げた場所のヒントは実に抽象的なものだったからだ。

 李絳攸という名に聞き覚えはある。だがそれは、彼が吏部侍郎の役職についているとか、朝廷随一の才人と噂されているらしいとか、あくまで耳にかじった程度に知っている情報によるものであった。当然、会ったことなど一度もない。

(会う機会があるんだったら、是非いろいろと教わってみたいものだけど…)

 全く面識がないのもさることながら、相手は吏部前線で働く多忙な方なのだ。そんな夢のようなことが実現するはずもないことは、秀麗とて重々承知していた。


 そんなことはさておき。
 一度も会ったことのない人がよく行く場所など、知っているはずもない。
 だがそれをなんとかして突き止めない限り、”桜花の虎姫”に会うことは難しい。
 どうしたものかと困り果てた秀麗に、珠翠は笑いながら言ったのだった。

『秀麗様、貴女様のお父上にお聞きしてみてはいかがでしょう。
同じ朝廷で働いていらっしゃるんです。
もしかしたら絳攸様のよくいらっしゃる場所を知っているかもしれませんよ? 』





「父様、いる? 」

 珠翠の助言に従って府書を訪れた秀麗は、朝早い今の時間ならここには父・邵可しかいないことを知っていたから、まるで住み慣れた家の玄関を通るような感覚で扉を開いた。
 だがいつもならすぐに姿の見える父の姿はない。辺りを見回してみるものの、気配すら感じられなかった。

「……父様ったら、どっかの個室にでもいるのかしら? 」
 軽い溜息を漏らすと、秀麗は近くにあった卓子の上にお盆を置いた。
 そうして改めて、府書の中をグルリと見渡してみる。

 ……広い。
 さすがは天下の外朝。後宮もずいぶんと広かったが、ここはそれに輪をかけて広い。そして仮にも外朝の一部であるここ、府書もまた広かった。しかもここにはこの広いスペースの他にも、幾つか個室があるのだ。一室一室調べていく程度の時間の余裕は持ち合わせている秀麗だが、万が一個室に邵可以外の人がいたとしたら洒落にならない。
 秀麗の今の格好ではとても女官と言っても通用しないし、そもそも女官はこんなところまで入ってこないだろう。

(……こっちに来てから、考え事ばかりしてるわね私)

 思わず腕組みして考え込む秀麗。
だがすぐに彼女の顔には、自嘲の笑みが浮かんだ。


「………おや、秀麗。どうしたんだい、こんなところまで」
 声に振り向けば、両手に分厚い本を抱えたままで個室から顔を出す男性の姿があった。どこか捉えようのない、柔らかく穏やかな笑みを浮かべた彼――邵可は突然現れた秀麗の姿に驚く様子もなく、本を抱えたそのままで個室から出てきた。

「なんだ、よかった。父様、いたんじゃない」

「いたけれど、私に何か用かい?」

「うん、ちょっと。聞きたいことがあって」
 秀麗がそう答えると、邵可は彼女の持ってきた盆と饅頭が置かれた卓子の上に抱えていた本を下ろした。そうして自分もまた、椅子を引き出して腰を下ろす。だから秀麗も、それにならって、卓子に備え付けられた椅子に腰を下ろした。

「あのね、父様。李絳攸様って、知ってる? もしかしてお知り合いだったりする? 」

「絳攸殿とは確かにお知り合いだけど……、彼に用事があるのかい? 」

「実は………」

 秀麗はかいつまんで邵可に事情を話した。
 未だ王に会っていないこと、なんとかして王に会おうと思っていること。
でも会いたいと思っても王のことをよく知らない自分では良い案が浮かばなくて、王のお気に入りである”桜花の虎姫”に会おうと考えたこと。彼女に会うには”李絳攸”のいるであろう場所を捜すのが近道だと、女官長の珠翠に教えてもらったことなど。

 秀麗の話を聞き終わると、邵可は娘が饅頭と一緒に持ってきてくれたお茶を一口啜る。そして湯飲みを卓子の上に置くと、答えを待っている秀麗に目線を向けた。

「なら、しばらくここで待っているといい。
今はまだ来ていないけど、彼はいつも府書に来ているからね。
それに……多分だけれど、”桜花の虎姫”もきっとここへ来るんじゃないかな」
 邵可がそう答えると、秀麗はキョトンと目を瞬かせた。

「……もしかして父様。
絳攸様だけじゃなくて、”桜花の虎姫”ともお知り合いだったりするの? 」

「うん、そうだけど」
 今度キョトンとするのは、邵可の方だった。


「…………(思ってた以上に顔が広いのね、父様って)」
 秀麗は言葉に出すことなく、こっそりと心の中で呟いた。
単なる府書の主――図書室の管理長で府書に埋もれていると思っていた父だが、なかなかどうしてやたらに凄い人たちとお知り合いだったりするのだ。意外や意外。

 秀麗は無意識に胸を撫で下ろすと、ぬるくなったであろうお茶に口をつける。向かいに座る邵可はといえば、秀麗が暇つぶしと思考を巡らす暇に作った饅頭を実に美味しそうに口に入れていた。

 会話は途切れてしまったものの、父娘の間になんとはなしに穏やかな雰囲気が漂う。


 そんな折に。

「おや、これは珍しい方がいらっしゃいますね」
 そう言って府書に入ってきたのは、涼しげな目元に微笑を浮かべた端正な面立ちの青年だった。彼は府書の中にいた少女の姿を見て、ほんの一瞬だけ目を見張ったが、それも一時の事ですぐにそれは微笑へと変わってしまう。

 彼――藍楸瑛のわずかな表情の違いに気づいたのは、邵可だけ。秀麗は全くそのことに気づいてはいなかった。


「今日は藍将軍お一人ですか? 絳攸殿はご一緒では……」

「途中までは一緒だったんですけどね。すぐそこでに横取りされてしまったんです」
 言いながら、楸瑛は肩をすくめた。

「横取り? 」

「なんでも先日吏部尚書から頂いたお茶で、お花見でもしたいとの事だったんですけどね。私も是非ご一緒したいと思ってたんですけど、言うより前に却下されてしまいましたよ。昨日、ちょっと苛め過ぎちゃいまして………」

……? 」
 聞き覚えのない名前が出てきたことに、秀麗は首を傾げた。
朝廷内にいる官吏の中に女性は一人もいないはずだ。なのに、楸瑛が苦笑いと共に告げた名前は、明らかに女性の名前だった。

「ああ、秀麗殿は知らなくて当然ですね。
“桜花の虎姫”と異名をとる、彩雲国きっての双剣の使い手である少女のことですよ」

“桜花の虎姫”。

 その言葉に、秀麗はほとんど反射的に反応していた。

「その人は、今どこに?! 」
 卓子から身を乗り出すようにして聞いてくる秀麗の姿に、楸瑛は疑問を覚えつつも、敢えてそんな素振りは見せないままで答える。

なら、絳攸との逢瀬を楽しんでる真っ最中ですけど。
それでも行くつもりですか、秀麗殿? 」

「お……、逢瀬???
絳攸様と“桜花の虎姫”って、恋人同士だったの?! 」
 てっきり王の恋人だと思っていた人物が、全く別の人物と恋仲だったと知らされて(楸瑛のあの物言いなら、そうとられても無理はないだろう)驚きを隠せない秀麗。

「…………」
 一方、絳攸ともとも面識のある邵可は、秀麗の見当違いな発言を特に正すわけでもなく、のんびりと秀麗特製のお饅頭をほおばっていた。

「で、どうしますか、秀麗殿。行くのなら、途中までは案内しますけど」
 ちなみに“途中まで”と断りを入れたのは、昨日の事もあって、多少に対して後ろめたい部分があるからだ。再びあの、某尚書を彷彿とさせる笑顔で同じことを言われる事だけは、なんとかして避けたかった。


「………行くわ。案内してもらえますか、藍将軍」

 ほんの一瞬、迷いが生じたものの。
 顔を上げた秀麗の心には、全くの迷いもなかった。


(恋人同士の逢瀬を邪魔するのは悪いと思うけど……。
それ以上にこっちも大切なことだから、きっと許してくれるわよね……)


 心を決めた秀麗の瞳には、一寸の曇りもない。
 そんな瞳をした少女に対して、邪険に出来る人間がいるのなら是非ともお目にかかってみたい物だ。

「多分、貴女の心配しているようなことにはならないと思いますよ。きっと」
 気合いを入れている秀麗に、聞こえそうで聞こえないくらいの声で楸瑛は呟く。


 彼女の真っ直ぐさは、どことなくを彷彿とさせる。
 が虎のような力強い真っ直ぐな意志の持ち主なら、秀麗の持つそれは野に咲く花のように、忍耐強く。辛抱強い力強さを持った真っ直ぐな意志だ。

 絳攸が女性嫌いに陥る原因となった、花よ蝶よと愛でられ続けて育った箱入り娘や奥底に暗い野望を秘めた女たちとはまるで正反対。力強く、確固たる自分の意見と意志を持つひたすら真っ直ぐな秀麗の気質は、いかな絳攸とて反感を抱くはずもない。


(……本当に、彼女なら変えられるかも知れないな………)


 政務も執らないで、侍官と室に籠もる男色家の王。
 だがその王には、何やらの思惑があるのは違いない。

 何せ、あのが絳攸と同等の愛情をもって兄と慕う人物だ。

 絳攸が怠惰な王に対して怒りを露わにしていたように、もまた彼に対して憂いていた部分がある。その時点で楸瑛は、王の噂に対して違和感を感じていた。



(新たなる王の治世、それが始まる幕開けの時期はーーーー

 きっとそう、遠い日の事ではない………… )





*後書き…
・結局、また会えませんでした。秀麗とヒロイン。
一向に話の進まない連載で、誠に申し訳がないです(自覚はあるんです一応)。
そんでもって、ヒロインに何やらいろいろと教え込んでいるらしい黎深様。
彼は一体どんな意図を持って、絳攸とヒロインの仲を取り持とうとしているのか。
そんでもって、ヒロインを鳳珠をからかうダシにするというのは、どういうこと?
いろいろと謎なことが出てくる連載ですが、あんまり気にしないで下さい。
そのうちにポッと解決しますから。きっと。
そんでもって、微妙な役回りな藍将軍ですが、実は連載中で一番出番が多いのも彼です。
損な役回りで出番が多い…ってのもなんですから、と。
最後の方で、実はいろいろ気づいてる人っぽくしてみたんですけど。
つ、付け焼き刃……でしょうかね………?
そして絳攸とヒロインの仲って、はたから見るとどう見えるんでしょう(謎)。