長い回廊から庭へと視線をやれば、回廊に沿って一本一本植えられた桜たちが、可愛らしい星形の花を枝いっぱいに咲かせている。この回廊から見える桜並木は、無駄に広い敷地を持つ王城の中でも一、二を争う美しさを誇っている。均等な間隔に植えられた桜たちは、各々思い思いに花を咲かせ、美しさを競い合っているのだろうか。 並木を形作る桜は、どれもが清楚で可憐かつ儚げな美しさをも兼ね備えていた。 そして、風に乗って虚空を舞う桜の花弁たちもまた、木々の枝に咲き誇る時とはまた違った趣を醸し出している。はらりはらりと空を泳ぐ桃色の花弁は、風に誘われて踊る花の精霊そのもの。 だがその姿は同時にどこか儚くて。 色とりどりの花が咲き乱れる春の光景のなかでも、特に桜の花弁が舞い散る様は、深い趣と風情を感じさせてくれる。人々が桜という花を好むのは、華やかさと同時に儚さをも持ち合わせている点にも理由があるのかもしれない。 桜の花弁が風に乗って流れるーーさながら桜花の川を形作っている最中、はその桜花回廊を脇目もふらずにひたすら走っていた。 それもそのはず、美しい桜花の姿も彼女の目には全く映っていない。 (…当分、藍将軍には近づかないようにしなくちゃ……) 故あって、劉輝とは兄妹同然の間柄であるは、彼が政務を執ろうとしない理由を知っていた。 しかしその一方で、王付きの武官に任命された楸瑛や、吏部から引き抜かれて王の側近となった絳攸は、政務を執らない王のおかげでいろいろと迷惑を被っている。 もっとも、仕事がなくてイライラしているのは、専ら絳攸の方ではあるが。 結果として劉輝のわがままで迷惑を被っているこの二人には、その理由を知っておく権利はあるような気はしないでもない。 ただその理由というのが、劉輝自身の出生や生い立ちにも関わることでもあったので、話すに話せなかったのである。 おそらくは勘の鋭い楸瑛のこと、その辺りの事情も何となく察してはいるのだろうが。 やはり気になる事は気になるらしい。 いや、むしろ彼が気にしているのは一緒にいる親友の様子の方だろう。 引き抜かれて王の側近になるまでは、吏部の最前線で仕事に忙殺されていた絳攸だったが、引き抜かれて以来、かれこれ一ヶ月ほどずっと仕事らしい仕事を何もしていないのだ。才知溢れる“朝廷随一の才人”が窓際官吏のような生活を余儀なくされているこの状況は、たまらなく屈辱であり、たまらなく腹立たしいことなのだろう。 現にここしばらく、絳攸はずっと不機嫌であった。黙っていれば楸瑛とも並ぶ美形であるにも関わらず、常にしかめっ面をしているのは非常に勿体ないような気もするし、怒りを溜め込むのは健康にもよろしくない。 そのため楸瑛もも、絳攸と一緒にいる機会さえあれば彼の怒りを外に拡散させてやるようにし向けてはいるのだが、やはりそれにも限界がある。 だからこそ楸瑛は、劉輝が政務を執らない理由を知りたがっていたし、自身もこのままの状況をずっと維持していくのは難しいと思っていたのだ。 しかし、劉輝の事情も知っているとしては、あまり強く出る事も出来ない。 とはいえ、このまま見過ごすわけにもいかなかった。 劉輝が大事な人であるように、絳攸もまたにとっては大事な人である。殊に彼は、彼女にとっての家族であり、仲の良い友人でもありながら、ひそかな想い人でもあるのだから尚更だ。 だが。二兎を得んとする者、一兎も得ず。 二人とも大事だからと何もしないでいては、何も変わらない。ただ時間が経つのに任せていても、状況は悪くなりこそすれ、けして良くはならないだろう。 だからこそは、霄太師に相談したのだ。 劉輝と絳攸、二人を助けてやるにはどうしたらいいのだろうか、と。 そうして数日後、王に妻を与えて政務を執らせようという計画が国の重臣たちの間で可決された。 選ばれたのは、紅家唯一の直系の姫である紅秀麗という娘。 彩雲国きっての大貴族である紅一族の正統な次期後継者たる邵可の娘ではあるのだが、ゆえあって彼が当主の座を退いたーー否、退かされたともいうーーために、大貴族の姫君らしくもなく下町の娘同様の生活を送ってきたのだそうだ。 王族に嫁いでもおかしくないだけの位を持つ貴族の姫であり、国を牛耳ろうとするような親族もおらず。市井を知り、知識と教養高く、行動力もあり、なお王の事だけを考えてくれるような娘――というとんでもない条件を全てクリアした彼女は、霄太師の必死の懇願に頷いて、つい二日ほど前から後宮で“紅貴妃”としての生活を余儀なくされているのだとか。 (紅秀麗……、一度会ってみたいわね……その子。) 現紅家当主に引き取られて、娘同然に世話を焼いてもらっているとしては、是非とも一度会ってみたいと思わずにはいられなかった。彼女にとってみれば、秀麗はけして接点の全くない相手ではない。むしろ接点がありすぎて困るくらいにある相手だ。 その上、彼女の義父にあたる紅黎深は、殊の外この姪っ子を溺愛している節があった。冷酷無比・氷の微笑と畏れられる彼が、兄家族のこととなると途端に豹変するのだ。それはもう、恐ろしいくらいの変わり様で、初めて目にした時は驚きを通り越して失神しそうになったくらいである。 そんなわけで、あの黎深がそこまで溺愛しまくる姪っ子が一体どんな人なのか、気になって仕方なかったのだ。むしろこの場合、気にならない方がおかしいだろう。 はいつの間にか、自分の思考に没頭しながら歩いていた。 おそらくはそのせいで、目に映る景色を認識するための神経が、いささか鈍っていたのだろう。らしくもなく、彼女は向かい側からやって来る人に気づかず、ぶつかってしまう。 「……珍しい事もあるものだな。お前が避けられないとは。」 聞き覚えのある声に顔を上げれば、見覚えのある人物だった。 まるで何もかも見通しているかのような錯覚を覚えさせるのは、切れ長の瞳が宿す漆黒の闇が底知れぬ輝きを宿しているからだろうか。彫りの深い端正な容貌の持ち主で、高貴な家柄にある者だけが宿せる独特の雰囲気を纏っている男性だ。 がよく知る彼は、大抵余裕のある表情をしていたり、不敵な表情を浮かべていることの方が多い。にも関わらず、今回は珍しくも驚きの表情を浮かべていた。 「叔父さま!!」 貴族の中でも特に強い権力を持つ、七家。さらにその中でも藍紅両家は、王家に次ぐ権力を持つ大貴族中の大貴族だ。その一つである紅家を束ねる当主にして、次期宰相候補と名高い吏部の長――紅黎深その人は、自身を見上げてくるの頭をくしゃりと乱した。 「何をそんなに急ぐ。あれならいつものように、府庫にでもいるはずだが」 「いえ、別に絳攸を捜していたわけではないんですけど……」 「ますますもって珍しいこともあるものだ。が絳攸に用事がないというのは、な」 それは裏を返せば、彼女が頻繁に絳攸と接触しているということに他ならない。事実、彼が王の側近に任命されて以来、が絳攸を訪ねる回数は格段に増えている。 向こうは向こうで暇を持てあましているから、訪ねてきたを邪険に扱う事もない。 どころか、むしろあちらとしては愚痴る相手が来てくれるのだから、邪険にする理由があるはずもなく。結果としては、ここ最近はずっと絳攸の愚痴に付き合わされていた。 そうでなくとも、宋太傅との朝稽古やら霄太師の小間使いやらで、朝廷内をあちこちちょろちょろと走り回っているは、広い朝廷内で迷っている絳攸とよく鉢合わせしていた。そんな事態はもはや日常茶飯事も同然で、いつの間にやら=絳攸専用のナビゲーターというわけのわからない公式まで成り立ってしまっているほどだ。 周りから見れば、彼らは兄妹同然に見えるほどだったし、事実仲は良い。 「そういう叔父さまこそ、珍しいですね。こんな時間に廊下を歩いているなんて。 いつもなら丁度、仕事に忙殺されている時間じゃありませんか?」 「たまの息抜きくらい、したところで構わないだろう」 息抜き、と彼は称したが、この場合はおそらく息抜き程度の話ではなく、純粋にサボってきたのだろう。政務を。 実際にその気になれば、一刻もせぬうちに終わらせるだけの力量はありながらも、黎深は時折仕事を放棄することがあった。たいていは腐れ縁の戸部尚書の所へ入り浸っていたりするのだが、吏部の役人からしてみればひたすらはた迷惑な事この上ない。 そして多分、入り浸られている戸部省も、きっと迷惑していることだろう。 「確かに、仰る通りですね」 これが戸部尚書辺りなら、「いいからさっさと帰って、仕事しろ!! 」と怒鳴りつけているところなのだろうが。あいにくと彼女では、反論することはできない。何せ一言返せば、返答がその何倍にもなって帰ってくるのだ。 それが単なる文句の倍返しならば、まだ救いはあるのだが。あいにくと黎深は、いろんな意味で癖のある聡明な曲者だ。返答は、当然一筋縄でいくようなものではない。あの戸部尚書でさえやりこめられるほどだから、ではとても対抗できないだろう。本人もそのことを十分に理解しているから、敢えて何も言おうとはしなかった。 「……で、上のじじい共がなにやら企んでいるようだが、その企みとやらは上手くいきそうか?」 「さあ……。今のところは変化らしい変化もありませんけど。」 が肩をすくめれば、なぜか黎深は勝ち誇ったような笑みを浮かべてみせた。 まるで、私にはこうなることがわかっていたとでも言わんばかりに。もっともこの人の事だから、案外と予測していたのかもしれない。 「ふん…。別に王がどうなろうが知った事ではないが、そうなるとあれを引き抜かせてやった意味もなくなるというわけか。それはそれで面白くない………」 最初こそにも聞こえるように喋っていたのだが、そのうちにだんだんと声が聞き取りづらくなっていき、最終的には彼の独白同然の声量まで落ちてしまった。 さらにその声量の減少に比例するように、段々と黎深の顔つきが変わっていく。先ほどまではごく普通の叔父さんといっても通用するような表情であったのに、徐々に無表情にも近い冷笑すら浮かぶ色が浮かんできていたのだ。 の前ではそんな素振りは見せないが、吏部で「氷の微笑」と称されている黎深は丁度こんな感じなのだろうか。 「あの……、叔父さま?」 おそるおそるが声をかけると、黎深はすぐに顔色を一変させる。 「まあ癪だが、今回は敢えて部外者扱いされてやる事にしようか……」 「??? 」 勝手に一人で自己完結する黎深。 だが一方のには、何が何だかわからない。 「は確か、甘い物が好きだったな? 」 「へ? は、はい……」 「吏部省の私の机の上に、お茶の箱がある。 私は甘いお茶は飲まないから、お前に箱ごとやろう。 好きな時に持っていきなさい」 「あ、ありがとうございます、叔父さま」 腰から頭を90度に折り曲げて、顔を上げると。 なぜかこちらを見ている黎深の表情が、ひどく楽しげに見えた。 黒漆の瞳に浮かんでいる光は、間違いなく愉悦のそれだ。 「…どうせ王が仕事もしてないなら、あれも暇だろう。 桜も丁度見頃だし、お茶と桜を肴に花見でもしてみたらどうだ? こんな時でもなければ、絳攸を花見に誘う事など出来ないだろうしな」 「………叔父さまに言われなくても、そのつもりです……」 黎深にしっかりと魂胆を見抜かれていたことで、は恥ずかしさとやるせなさとで顔を真っ赤に染めてしまった。それでもきちんと返事をするのは、立派といえよう。 黎深はそんなの正直な表情を見て、口元に緩い笑みを浮かべる。 もっともそれは一瞬のことだったので、彼女には見えなかった。 そして彼はの頭を軽く叩くと、まるで何事もなかったかのようにまた、廊下を歩き出したのだった。 同じようにもまた、小走りでその場を離れた。 ***************************** 鮮やかにして、華やかな装飾はまさに絢爛豪華と呼ぶにふさわしい。 そんな豪奢な装飾が部屋全体に施された一室は、王の妃である高貴な女性が住まう後宮の一室であった。 その部屋の中で、一人の少女が黙々と文机に向かっていた。握られた筆はすらすらと白い紙の上を滑っていくーーーーが、その流れは唐突に止まってしまう。 そして、長く大きな溜息が漏らされる。 溜息の主は、文机に向かっていた少女のもの。 だが少女と言っても、色とりどりの装飾品や美しい着物に彩られたその姿は、ただの少女という雰囲気ではなかった。 それもそのはず、彼女は仮とはいえ“王の妃”なのだから。 「いかがなさいました、秀麗様」 そんな彼女に対して声をかけたのは、彼女に頼まれて硯や紙を持ってきた女官であった。 艶やかな髪を綺麗に頭の上に結い上げ、美しいながらも動きやすさも考えて作られた女官服に身を包んでいるのは、見るからに貴婦人といった印象を受ける麗しい女性――ここ後宮の女官たちを束ねる筆頭女官である珠翠だ。 「……ねえ、珠翠。 さっき私が主上について聞いてた時、妙なことを言ってなかった? 」 「妙な事、ですか? 」 問いかけられた言葉に、珠翠はわずかに首を傾げる。 王のことを知っている範囲内で教えてくれと乞われて、彼女は知っている限りの情報を目の前の少女――紅貴妃に教えた。 しかし彼女が覚えている限り、別に妙なことを言った記憶はないのだが……。 すると珠翠の困惑を払いのけるかのように、紅貴妃は先の言葉を紡ぎ出す。 「うちの王様って、男色家なのよね。 でも珠翠の話の中で、王様お気に入りのお姫さまの話が出てきたじゃない」 「あぁ……、“桜花の虎姫”のことですね」 “桜花の虎姫”―――、いわずとしれたのことである。 その由来は、虎や熊といった猛獣たちと心が通わせられることともう一つ。剣を握った時に彼女が見せる瞳のそれが、虎の目によく似ていることにある。ただ一説によれば、彼女の敏捷さが虎のようだからだとか、仕草がどことなく虎の子を彷彿とさせるからなどと、実に多岐に渡る。そのため、本当の由来はあまりはっきりしていない。 桜花というのは、彼女がこよなく桜を愛することに由来すると思われる。 「そうその人。 王様のお気に入りだったなら、きっと私たちよりも王様についていろいろ知ってるはずよね? 」 珠翠は一瞬目をしばたかせるが、同時に彼女の記憶力と洞察力に舌を巻いた。 「そうですね。 私たちが知る王とは、あくまで噂や人づてに聞いた王像でしかありませんし。 王の身近で暮らしていた“桜花の虎姫”の方が詳しいとは思いますが……。 秀麗様、いかがなさるおつもりですか? 」 「ここでじっとしてても仕方ないでしょ。まずはなんとかして王様に会わないと。 でも王様の事を知らない私じゃ、とても捕まえられそうにないから。 だから助っ人を頼もうと思って」 本来、貴妃と呼ばれる位にある人は、こんなことは言い出さない。高貴な血筋の姫君とは、たいてい部屋の奥でじっとしているものだ。 だが目の前の少女は違う。自分が思い立ったことをすぐさま実行に移すだけの実行力と動力とを兼ね備えている。異色といえば異色だが、珠翠はそんな彼女をとても好ましく思っていた。 「そういうことでしたら、私も賛成です。 “桜花の虎姫”は、さる高貴なお方に引き取られたと聞いています。 ですが、王宮内にもよくいるらしいので、運が良ければ会えるかも知れないですね」 「運ねぇ……。なんとか連絡は取れないの? 」 秀麗の声は、やや渋ったものだった。 貴妃という立場上、王宮の中をほいほいとたやすく散策することはできない。 にも関わらず、運任せにして相手を捜すというのは、この広い王宮内では不可能にも近かった。 「連絡を取るのも宜しいですが、直接会われてみてはいかがですか? 基本的に神出鬼没な方ですが、彼女がよく出現する場所に行ってみれば会えるかもしれませんし」 「教えて、珠翠」 「でしたら、吏部侍郎の李絳攸様のところをお訪ね下さい。 “桜花の虎姫”はたいてい、あの方の近くにいるとのことですので」 間髪入れず返ってきた秀麗の言葉に、珠翠は穏やかに微笑みながら答える。 時が、運命という名の歯車が、ゆっくりと動き始めていたーーーーー。 *後書き… ・書き上げるのも、お話が進むのも愚鈍なペースで申し訳ないです。 ようやっと彩雲国物語連載の第2弾をお届け致します〜(汗)。 今回は黎深様独断場ですね…。兄家族馬鹿になっていない黎深様は、とっても非常に書きづらいです。聡明な人の会話というのは、一言一言考えるのにごっつう時間がかかります。 微妙に偽な黎深様で申し訳ない。日々精進して、今度はもちっと本物近く目指します。 後半は秀麗と珠翠メインの会話。つか、珠翠の方がメインだろ、これ。 ヒロインと秀麗が会うのも、もう近いです。 にしてもどう転んでも、絳攸が絡んでくるのは……お約束です(笑)。 |