ここへ来て、もう何年になるだろう………。 ここには、自動車も飛行機も電話も電気もない。 足になるのは、馬や俥。遠くの人と話をするなら、手紙を書くしかない。 主流となる武器は、拳銃ではなく、両刃の剣。 皆が着る服は、何百年も前の中国を彷彿とさせる裾の長いヒラヒラとした着物。 都を出れば、まわりは人手の入っていない自然の山々や大地が広がっている。 だけど、ここの人はとてもあたたかい。どこから来たかもわからない、見ず知らずの私を助けてくれたばかりでなく、皆が優しくしてくれた。 …もっとも最初のうちは、帰るべき場所を失った幼い子供に対する哀れみや同情の心も幾ばくかあったように思うのだけれど。 彩雲国の王族でありながら、心を壊した私に親身になってくれた劉輝。 私がこの国で暮らしていけるよう、様々な配慮をしてくれた霄太師や茶家のおじい様。 心を鍛えろ、と半ば強引に剣術を教えてくれた宋太傅。 そして、王宮内で客人同然の扱いにあった私に、家を与えてくれた…黎深おじ様。 私が生まれた国は、数多くある世界の国々の中でも先進国に属していた。 自動車や携帯電話、テレビやラジオといった便利な機械が誰でも持てた国。 だけど豊かさと繁栄の代償に、人々の優しい心が奪われてしまった国でもあった。 私の父は仕事に忙しくて子供を顧みない人だったし、母はそんな父に愛想を尽かして出ていった。唯一家族らしい家族だった兄は、こともあろうに妹の私を自分のモノにしようとしたおかしい人で、私が心を壊すきっかけを作った張本人だった。 だけど。この国の人たちは……。 愛情とかぬくもりと無縁だった私に、それらを惜しげなく与えてくれた。 私は…………、私に優しくしてくれた人たちに恩返しはできないだろうか。 恩返しの方法が、今は見つからないから。 だから私は、強くあろう。 これ以上みんなに心配をかけずにすむように。 誰にも傷つけられないくらい、大切な人を守れるように強く………。 ***************** 風を、大気を裂いて迫るのは、一条の銀閃。 銀閃が狙う先は、人間の急所の一つである首筋――頸動脈の辺りだ。 しかし狙われた相手――は、急所を狙った一撃をあっさりとかわす。 女性という性別に生まれてしまった以上、純粋な力の強さでは男性に劣るとはいえ。 速さや技量といったその他の才は、男性に勝るとも劣らない力量を持つ彼女のこと、当然といえば当然の結果である。 それどころか。 一撃をかわしたは、右手に持っていた剣を相手に向かって斬り上げた。 だが相手も心得たもので、死角からの剣の攻撃をあっさりと自身の獲物で受け止める。 ギウンッ。 剣と剣がぶつかって、耳障りな音を立てる。 互いにどちらも退かず、結果おのずから勝負は鍔迫り合いへと持ち越された。 だが、刃と刃の勝負である鍔迫り合いは、純粋な力勝負の場と言っても過言ではない。加えて自身から斬り上げた状況である上、相手の方が上背もあるものだから、当然相手の剣に上から押さえられる形になるわけで。 上から斬り下ろすのと、下から斬り上げる行為。どちらにより大きな負荷がかかるかは、重力を味方にしたか否かで、すでに一目瞭然だ。 すると。がふっと力を抜き、剣を下ろした。 鍔迫り合いの最中に片方が剣を下ろせば、もう片方の相手の獲物は剣を下ろした相手に牙を剥く。それを知っていながら、彼女は剣を下ろしたのだ。 風を斬り、唸る剛剣が振り下ろされる。 が、相手の手に人を斬った手応えはない。 それどころか、相手の持つ剣にかかる重圧は、唐突に倍増した。 先ほどの一撃を紙一重で避けたが、あろうことか振り下ろされた相手の剣の上に載っていたからだ。 「……甘いわ!!」 普通の剣士ならありえない状況に困惑し、剣を取り落とさずにはおれないだろう。 もしくは、そのままの双剣で喉笛を切り裂かれるのがおちであったろう。 だが、おしくも彼女が対峙する相手は、国一番の猛将と謳われる老将――宋太傅その人だ。人一人の重みがかかったことで、構えた剣は自然に大地へ引き寄せられるのだが、彼は咄嗟に剣を両手に構えると、一歩退いて獲物をも引く。 そして退いた方の足を大きく蹴り出すと、バランスを崩したに向かって剣を水平に突き出したのだ。 しかし、とて伊達に「虎姫」と異名をとっているわけではない。 そのあだ名の通り、彼女の身のこなしは実に身軽で柔軟。たとえ高い屋根の上から落ちたところで、彼女は猫の如く器用に身体をひねり、完全無傷で綺麗に着地を決める。 その持ち前の柔らかさを生かし、彼女は空中で身体を器用にひねると、宋太傅の繰り出した突きをよけてみせる。そうして彼女は、さらに間髪入れずに襲い来る宋太傅の剛剣を紙一重で綺麗にかわし続ける。 が、ふとの足が石の床に無造作に置かれた赤い紐を踏み越えた。 赤い紐をどちらかが踏み越えた時点で、打ち合いは終了。 事前にそう決めていたから、宋太傅は自身の剣を腰の鞘に収める。 「勝負あったな、…………と言いたいところだが。 逃げ回ってばかりでどうするか、この馬鹿者が!!!」 齢六十はとうに越えているであろうに、を叱責するその声は張りがあって強い。とてもご老人が出している声には思えないほどの勢いがあった。 「そんなこと言われても。バランス崩して体勢もロクに整わないところで、あれだけ執拗に攻撃されたら、誰だって逃げるわよ!!!」 一方、かれこれ六年近く彼の教えを乞うているにしてみれば、実によくあることだったので、驚きもしない。どころか、口ごたえをする余裕すら持ち合わせていた。 彼女は自分の思ったことを包み隠さず宋太傅に言い返すと、乱れた前髪を整えて双剣を腰の鞘へ収める。 「バランスを崩しやすい体勢を自らとったのは、お前だろうが!!」 「仕方ないじゃないの!腕がしびれて、限界だったんだから!!!」 双方互いに睨み合い、一向に退こうとする気配はない。 それこそ火花でも飛び散りそうな勢いで、相手をギリリと睨みつけている。 まるで目の前にいるのが、親の仇であるかのように。 放っておけば延々と睨み会い続けていそうな二人の間に水を差したのは、声を殺そうとしつつも殺しきれてない、若い男の笑い声だった。 二人が声の方を振り向くと、武官の装いに身を包んだ青年の姿がある。 笑いのあまり口元がだいぶ緩んではいるものの、それでもなお本来の美貌はまるで見劣りすることを知らない。涼やかでありながらも華のある稀有な容貌の持ち主にして、眉目秀麗な美男子――藍楸瑛その人は、宋太傅と目が合うと、実に自然な動作で頭を垂れた。 「誰かと思えば、藍家の若造か。ずいぶんと暇そうだな。」 先に睨み合いに決着をつけたのは、宋太傅の方だった。 「……宋太傅も知っての通り、どこかの誰かさんがロクに仕事をしてくれないおかげで、私の仕事はないも同然ですからねぇ…。 ずっと書庫にいてもよかったんですけど、絳攸に追い出されてしまいましたから。 こうして散歩がてら、の様子を見に来たんですよ。」 「藍将軍……、見せ物じゃないんですからそんなに笑わないでもらえませんか?」 依然として口元に浮かべた笑みを消さない楸瑛に、は鋭い視線を向ける。 だが、向けた視線や腕組みするのはともかく、頬をふくらませて抗議するその姿はあまり格好がついていない。 「あぁ、これはすまなかった。」 ギロリと自分を睨んでくる年下の少女の姿を微笑ましく思いながら、楸瑛はそう言ってようやく笑うことをやめる。 「仕事がない、か……。ったく、あの馬鹿弟子が………。」 心底情けないといった表情で、宋太傅が呟けば。 「劉輝ったら……。ほどほどにしないと、後が怖いのにね。」 もで、溜息をつきつつポツリと言葉を漏らした。 「その通りだよ、。だから君からうまく言ってもらえないかな? 今のままの状態がずっと続けば、私も絳攸もそのうち書庫で日干しになってしまうよ。」 「………と言われましても、私は別にご意見板じゃないですからねぇ…。」 「おや、そうかな。私はあまりそうは思わないけれどね。 王の側近に任命された私や絳攸が、あの王の手つかずでいられてるのは、てっきりが彼に忠告してくれているおかげだと思ってたんだけど。」 なんでもないようにさらりと言う楸瑛の言葉に、宋太傅は思いっきり吹き出した。 確かに普通なら、不思議に思うだろう。 王の側近に任命された藍楸瑛と李絳攸。ここにいる藍楸瑛はもちろんのこと、李絳攸とて楸瑛と並んで歩いても見劣りしないほどの容貌の持ち主だ。 王の側に侍る美男二人と男色家の王。 これらの好カードが揃えば、彼らの関係を邪推する者があってもおかしくはない。 しかし、残念なことに側近とは名ばかりで、楸瑛も絳攸も王に目通りしたことは一度もなく。ゆえに、人が邪推するような深い関係どころか、主従関係すらなっているのかわからない微妙な状況にあるのであった。 一方のは、一瞬だけその様子を想像してしまい、げんなりとした表情を浮かべる。 「………変な想像させないで下さいよ、藍将軍。」 「別に言ってみただけで、想像したのはの自由意志だよ。」 飄々としている楸瑛の姿を見ながら、は思った。 百歩譲って王が彼を誘ったとしても、この人なら即行で拒絶するに決まっている。 何せ楸瑛は、光源氏よろしく浮き名を流す遊び人の一面も持っているのだ。 もっとも女性に誘われた場合はどうなのか知らないが……。 「それは確かにそうですけど……。あれはいろいろと諸事情があって……」 そこまで言いかけて、はハッと口を噤む。 これ以上は、言えない。言ってはいけないことだ。 なぜならは、このことを他言しないと約束していたのだから。 「王の私的な諸事情を知ってるなら、なぜ彼が政務を執ろうとしないのか。 その理由も知ってるんじゃないかと思うんだよ、私は。」 「……………。」 ぐうの音も出ない。 は、まさにそんな言葉がしっくりくる状況へと追いやられていた。 「まあ、私はそれでも構わないけれど、絳攸はここ一ヶ月ロクに仕事が回ってこないものだから、ずいぶんとイライラしていたなぁ……。が王が政務を執らない事情を知っていることがバレたら、どんなことになるだろうね。考えるだけで恐ろしいよ。」 「あうぅ………。」 言葉巧みな楸瑛の扇動に、みるみるうちにはまっていく。 もともと彼女自身が単純なせいもあるだろうが、楸瑛が“李絳攸”という切り札を持っている以上、彼女にこの扇動を逃れる術はない。 (そろそろいいかな……?) 楸瑛は、自身の仕掛けた罠にがかかったことを確信する。 悶々と思考に耽るの表情は、まさしく罠にかかった虎の子そのもの。 この分なら、口を割るのも時間の問題だろう。 しかし。あいにくと勝利の女神が微笑んでいたのは、の方だった。 「ところで、。お前、霄のやつに呼ばれてるんじゃなかったのか?」 (霄太師に?呼ばれてたっけ?) 宋太傅の唐突な言葉に、は一瞬考え込むが……。 すぐにその言葉が自身に向かって出された宋太傅の助け舟であることに気づき、ありがたく助け舟に乗らせてもらうことにする。 「……あ、そうだった!! 宋師、今日もご指導ありがとうございました!! それじゃあ、私はここで失礼しますねっ!」 あたかも約束があり、それを今の今まで失念していたという風を装って、彼女は早々にそそくさとその場を走り去っていった。 「……宋太傅。なぜを逃がしたんですか?」 裾の長い着物を着ているにも関わらず、あっという間に走り去って見えなくなるの後ろ姿へと視線をやりながら。楸瑛は答えが返ってくることはまるで期待しないまま、それでも朝廷三師の一人である老将に訊ねた。 「逃がした……?何を言っておるのか、まるでわからぬな。 霄のやつがに話がある、と言っていたのは本当のことだぞ。」 すると宋太傅は、楸瑛の言葉に肩をすくめて見せる。 だがその口元に浮かんでいるのは、確信犯の笑みだった。 「ですが、“約束”をしていたわけではないのでしょう? わざわざを逃がしたのは、彼女に余計なことを話させないためですよね。」 「余計なこと、か。さてどうだかな。 なにせ今回の貴妃騒動は、全て霄の思惑で話が進んでるんだ。 本当のところを知ってるのは、せいぜい霄と茶のやつくらいだろうさ。」 宋太傅は腰の剣を無造作に引き抜くと、取り出した布で刃の表面を丁寧にぬぐってやる。先ほどの練習稽古の際に汚れたところを、綺麗に拭き取っているのだ。 「なるほど……。とすると、近いうちに一波乱、起きそうですね。」 呟く楸瑛の声に応えるように、春風が辺りを吹き過ぎる。 その風に遊ばれて、花を咲かせた桜の木々が幾枚もの桃色の花びらを散らしていく。 桃色の花びらがまるで吹雪のようにハラハラと宙を舞い、辺りを優しいパステルカラーに彩っていた。 *後書き… ・原作沿いがいいなと言いながら、見事にオリジナルばかりになりました(汗)。 「彩雲国物語第一巻〜始まりの風は紅く」の話に沿った連載、いよいよ幕開けです。 とはいいつつも、この話。ヒロインは裏事情を知っている設定なので、いかんせん、秀麗サイドの裏側を覗いた形のお話になっていくかと思われます……。 相も変わらず贔屓キャラばかり出張りそうで怖いのですが、なんとか頑張っていきたいと思ってます。 次こそ秀麗を出さないとなぁ……。 |