自分がこの世界に来て、まだそんなに日は経っていない。
だから、きっと。
今目の前で自分を見下ろしているこの人を、『ヘンな人?』の一言で終わらせてはいけないんだ。
そう。
自分が知らないだけで、この世界では『当たり前のこと』がまだまだ沢山ある―――かも知れない訳だし。
(でも……これって………?)
は尻餅をついたまま、たっぷり10秒ほどまばたきもせずに目の前の人物の顔を見つめ続けた。
仮面だ。
どこをどう見ても、仮面である。
しかも、赤やら青やら黄色やらで目元口元に妙に凝らした模様が描いてある。
一瞬、まだ普通の鉄仮面の方がいいんじゃあ?と考えたが、のっぺらっとした仮面に目元だけ穴が開いているものを想像してしまって、それくらいだったらこの仮面の方がいいかもしれないなぁ。と考え直してみた。
そう思うと、その凝らした模様が芸術に見えてくる。
うん、この方が良いような気がする。
いや、絶対良い。きっと良い。
だってほら、ちゃんと鼻も口もあるじゃないか、この仮面。
既に仮面自体の存在を認め始めていることに気付かず、どう見ても妙な仮面なのにその出来映えに思わず感心してしまったことにも気付かずに、はようやく一つ、まばたきをした。
「…………いつまでそこに座り込んでいるつもりだ?」
くぐもった、感情を感じさせない声が、上から降ってきた。
その声にはきょとんとした後、失礼にも目の前の人物をまじまじと見つめていた事に気付いて一瞬で頬を紅潮させる。
「す、すすすすすすすみませんっ!!! えと、お怪我はなかったですか?!」
「私は大丈夫だが…」
恥ずかしさを隠すように大きな声を上げたに、目の前の人物は――仮面でちっとも判らないが――呆れたように溜息をついて。意外にも、やんわりとの腕を取って立ち上がらせてくれた。
僅かに屈んでくれたその人物のさらさらの髪が、の視界に映る。
仮面にばかり目が行っていて気付かなかった。けれどこれは、女なら誰もが羨むくらいに綺麗な髪だ。うらやましい。
さらさらと絹のように流れるその髪に目を奪われながら、はゆっくりと目の前の人物を見上げた。
「えっと・・・ありがとうございます」
さっきはあんなに気になった仮面だが、認めてしまえばそこまで気にならない………ような気がしてきた。
むしろ、助け起こしてくれた良い人だ。
髪も綺麗だし、くぐもっていて判りにくいけれど、声も良いような気がする。
それに午前中、『悪鬼巣窟の吏部』でさんざんコキ使われてヘトヘトになったところへの親切は、本当に身にしみてくる。
さっきの楸瑛しかり。今のこの人しかり。
思わずふにゃりと笑ったに、目の前の人物はおや?というように僅かに首を傾けた。は気づかなかったが。
「お前は……」
「あっ、ぼ、僕、って言います。今日から吏部で雑用係として働いているんです」
とりあえず、男装ということで絳攸と楸瑛が決めてくれた名前を口に出す。
はじめは本名のままでとも思ったが、この国でなじみの無い名前が、かえって目立つかもしれないからと、二人が頭を捻りながら決めてくれた。
もっとも頭を捻っていたのは専ら絳攸で、楸瑛は真面目に悩んでいた絳攸をからかってばかりいたような気がするが。
「吏部だと……?」
目の前の人の声に、微妙に含みを感じたのは気のせいだろうか。
なんというかこう、憐れみというか?
「あ、あの?」
「いや。とにかく、今度からはちゃんと前を見て歩け」
「は、はい。本当にすみませんでした」
「わかればいい。ところで―――」
「いたいた、鳳珠っ」
幾分か慌てたような第三者の声は、目の前の人物の後ろから聞こえてきた。
僅かに体を後ろにずらした彼の体の向こう側から、歳の頃は40に届かない位だろうか? きっと、邵可様と同じように穏やかな人なのだろう……性格が顔に滲み出ているような優しい、おっとりとした感じの官吏が小走りにこちらにやってくる。
その人物は今やっとの存在に気付いたらしく、一瞬バツが悪そうに眉を寄せて。ゆっくりと歩みを止めると小さくセキをした。
「コホン……黄尚書、そろそろ出かけないと間に合わなくなりますよ?」
「ああ、今行く」
(……………………コウ…ショウショ?)
今この人は、なんと言っただろうか? ショウショ? それって、尚書?
尚書って確か、吏部とか戸部とかの一番偉い人の役職ではなかっただろうか。
ちなみに、今日から働き始めた吏部で一番偉いはずの吏部尚書には、まだお目通りがかなっていない。
挨拶をせずに大丈夫なのかと絳攸に聞いたが、「気にするな」と何故か視線をそらされてしまった。
何が大丈夫なのかわからなかったけれど、妙にそわそわしていた――というより、何か諦めが入っていたような――絳攸にあれ以上聞くことも出来ず。
ついでに、周りの官吏たちに一成に用事を頼まれて現在に至っていたりする。
どちらにしても、吏部尚書は午前中、吏部にいらっしゃらなかったみたいだが―――。
「コウ……尚書?」
自分がぶつかってしまった人がどれだけえらい人なのかわかり始めて。
はさっきまで紅かった顔を、真っ青にして呟いた。
そんなの様子に、黄尚書が……そして、今来たばかりの官吏が目を向けてくる。
「……こんな可愛い子を真っ青にさせて、あなた一体何したんですか?」
「人聞きが悪い事を言うな、柚梨」
「ただでさえ貴方の存在は怖がられているんですから、気をつけてくださいね」
「怖がられてて悪かったな。大体、私は何もしていない」
「そうですか? 君、大丈夫ですか? 本当に顔色悪いですよ?」
本気で心配してくれているのだろう。柚梨と呼ばれた官吏はの肩に手をおいて、そっとの目線まで屈みこんでくれる。
そんな彼の優しく穏やかな瞳に、癒されたような気がして。
そして、更に仮面の尚書に迷惑をかけるわけには行かないと気付いて。
は、なんとか官吏に笑いかけて軽く頷くと…そのまま視線を仮面の尚書へと向ける。
「本当に、失礼しました。知らなかったとはいえ、数々の無作法、申し訳ありません」
「……もう良いと言っただろう?」
深々と頭を下げたの耳に、幾分か苦笑を含んだ声が聞こえて。はおずおずと顔を上げた。
「ところで、昼の休憩時間はもうすぐ終わるが……いいのか?」
「え?」
「そういえば君……まだ昼食を取ってないんじゃないですか?」
「え?」
二人の言葉に、は一瞬きょとんとして。二人の視線が注がれている自分の胸元へと視線を向けた。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………………………ああっ!!!!」
しっかりと両手に持った昼食を忘れていた。
ついさっきまで「ご飯も食べずにあのハードな仕事を午後いっぱい続けるだなんて絶対に不可能だ」と思っていたのに、すっかりさっぱり綺麗に忘れていたことと、黄尚書の言うとおり休憩時間の終わりがすぐそこまで迫ってきている事に愕然として。
自分の大声にぎょっとしたままの高官二人に、は勢いよく頭を下げた。
「すみませんっ! わた…ぼ、僕っ、これで失礼します!!!」
そのまま駿馬のように廊下を駆け抜けていくの後姿を、官吏はいささか驚いたように見つめて、何度かまばたきを繰り返した後、隣に立つ自分の上司にチラリと視線を向けた。
「……元気な子でしたねぇ」
「そうだな」
(おや? 妙に機嫌が良い?)
伊達に10年以上も一緒にいるわけではない。仮面の奥に隠れた上司の感情を読み取って、副官は瞳を細めた。
「何か良いことでもあったんですか? 鳳珠」
「その名で呼ぶなと言っているだろう」
「いやですよ。……そういえば、あなたのその仮面をはじめて見たにしては、真っ直ぐな瞳であなたをみてましたね、あの子」
相変わらず感のいい副官に、黄尚書は視線を向けることなく、短く息を吐く。
「初めはまじまじと見られたが―――愛想笑いでもなく笑いかけられたのは久しぶりだな」
「ほう? 貴重な子ですねぇ。一体どこの侍僮でしょう?」
「今日から、吏部で働き始めたそうだ」
「ええっ?! ……それはまた―――」
気の毒そうに眉を寄せて。
癒し系官吏、景柚梨はが消えていった廊下の先を見つめたのだった。
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*後書き...
誰を登場させるか色んな意味で悩んだ今回ですが…やっぱり王道で(笑)
この二人、大好きなので楽しく書かせていただきました。
話は進まないまま莉香様にバトンタッチ。よろしくお願いします。
→ 「紅くなったり青くなったり」 Written by 林檎