かなり年季の入った古い冷蔵庫の扉を開けてみれば、まず真っ先に目につくのは野菜でも肉でも魚でも、まして醤油や酢などの調味料類のビンの群れでもない。
 小さな限りあるスペースを最大限に生かしながら、ところ狭しとばかりにズラリと綺麗に並べられていたのは、赤と白の曲線模様が入ったコーラ缶と爽やかな白と青の水玉模様の描かれたソーダ缶たちだった。

「………………」
 そして冷蔵庫の扉を開けた張本人はといえば、まさかの光景に唖然としていた。

 真夏だというのに、いつも通り全身黒ずくめ。切れ長の瞳は混じりけのない漆黒で、端正と言っても差し支えのない容貌の主ではあるのだが、どこかストイックな印象は否めない。これで白い手袋と裏地が赤の黒マントを羽織らせてしまえば、その姿は完全に吸血鬼そのものだ。
 年の功というべきか、はたまた闇に潜った組織の一員の宿命か。笑顔で人を騙す演技ならお手の物であるから、案外どこぞやの劇団に所属しても充分にやっていけるのではないかと思っているのは、多分私だけはあるまい。

まあ、それはさておき。

 扉を開けた拍子に、不安定な姿勢でおさまっていたコーラ&ソーダ缶が何本か中からこぼれ落ちていくが。扉を開けた当人ーー多能雅行は、目の前に広がるありえない光景に気を取られているのか、足下に転がる缶たちに気づいている様子は全くない。
 とにかく高みの見物と面白いことが大好きで、滅多なことに動じないしたたかさをも持ち合わせている彼だが、さすがに冷蔵庫一面が炭酸飲料水の缶で埋まっているこの光景には驚かずにはいられなかったようだ。

 だから私は、再三にわたって忠告してあげたのにねぇ……。

「ほら言ったでしょ? いくら人間外の心臓の雅行でも、これにはさすがに驚くって」
 未だ硬直状態の雅行の背中をポンポンと叩きながら、私は大きく溜息をついた。

「……どうでもいいが、他の食材は一体どうしてるんだ? 」
 男性にしてはやけに細くしなやかな指で顎をさすりながら、雅行は実に素朴な疑問をぶつけてきた。

ひょっとして今まで硬直してたのは、そのことをずっと考えてたせいだったりするのだろうか…?

 そんな疑問を覚えつつ、私はその場でひょいと両肩をすくめてみせた。

「その日に買ってきて、その日で使い切るのよ。
どうしても残った場合には、賞味期限の一番長い缶を引っこ抜いてそこにぶち込むの」

「……つまり毎日食材の買い出しに行くわけか。大変だな、
 完全人事口調で返してきた雅行に対して、今すぐに目の前の男をぶん殴りたいという衝動に駆られてしまうのは、無理もない事だと思われる。だが私はその破壊衝動を必死でこらえ、やや引きつりながらも出来るだけ普通の笑顔らしい笑顔を浮かべた。

「全くもって大変よ。そう思うなら、夕方にでも買い物に付き合って欲しいんだけどね」
 そう何気なく愚痴をこぼしながらも、私の両手は雅行の腕をしっかりと掴んでいた。

 あいにくだが、捕獲範囲内に入ってきた獲物を逃がしてやるほど私も甘くないのだよ。

「仕方ない、付き合おう。海よりも深く、山よりも高く感謝するように」
 てっきりうまいことはぐらかされて終わるかと思いきや。意外にも雅行は、食材買い出しの同行をいともあっさりとOKしてくれた。
 その割に、台詞のところどこに皮肉っぽい響きが込められているのは言うまでもないが。

「……他人の仕事をひやかしに来てるだけの居候の分際で、そういう口聞くか? 普通」

「あまり細かい事を気にするな。悩みは女性の肌の大敵だろう? 」

「いいけどね、別に。そんなことより、さっさと飲むものとって冷蔵庫を閉めてよね。
電気代だって馬鹿にはならないんだから」
 別に自分が電気代を払うわけではないのだが、なんとはなしに気になってしまうのが、悲しい貧乏人の性というやつか。
 雅行はそんな私を一瞥すると、口元に苦笑いを浮かべて冷蔵庫の扉を閉めた。

「あるのは、コーラとソーダと麦茶だけか……。他に何か無いのか? 」

「アイスコーヒーでいいなら、煎れてあげるけど? 」
 柊一がソーダ派、楠木さんがコーラ派なら、私はさしずめコーヒー派といったところで。
炭酸飲料水が好きではないという好き嫌いも関係しているのだろうが、私はもっぱらコーヒーや紅茶、緑茶などのお茶類を好んで飲む。
 それゆえに、ここにはインスタントコーヒーの瓶を必ず常備してある。本来なら豆を碾いた粉を用いて、ゆっくりと時間をかけて抽出してやるのが一番いいのだが。あいにくと宮司さんの家には、コーヒードリッパーなるものが置いてなかったのだから仕方ない。

「頼む」
 そして雅行は、私の予測通りの答えを返してきた。

「はいはい。もちろん、ブラックでしょ? 」

「わかってるなら、わざわざ聞く必要もないだろうに」
 ごもっともな雅行の言葉に納得しつつ、確認の為よ、と私が言葉を返したのは言うまでもない。






 鮮やかな黒褐色の液体をかき混ぜれば、コーヒー豆の香ばしい香りが空気に溶け込んで鼻へと運ばれてくる。中身がかき混ぜられた事で、中に入っていた氷同士はぶつかりあって何とも涼しげな音を立てる。
 先ほどコップの中に開けたガムシロップは、きちんとかき混ぜないと上の部分が苦く、下の部分が甘甘という最悪かつ悲惨な状態を形作ってくれるのだ。さすがにそんなアイスコーヒーを飲みたいとは思わない。ので、私はたびたび中身をストローでかき混ぜていた。

 だが、真向かいに座っている雅行は全くそんな素振りを見せない。
 それもそのはず、彼はガムシロップもミルクも使わず、ブラック+無糖のままで飲んでいるから当然である。ブラック+無糖のコーヒーの苦さは、しつこい眠気もふっとぶほどに強烈だ。それにも関わらず、平然として飲んでいられるのはさすが年の功(なんか間違ってる)。


「………雅行。僕の顔に何かついてるのか? 」
 私の隣に座っていた柊一は、同僚の向けてくる視線に気づいたのか。訝しげな表情を浮かべてみせた。彼が飲んでいるのは、当然のことながら「ソーダ」。最初の頃は、ソーダ味のアイスバーに『子供じゃあるまいし』と抵抗感を覚えていた彼も、今やすっかりと人工甘味料の虜となってしまったのか。最近ではソーダ味のアイスバーも度々買い込んできている始末だ。

 見た目はミステリアス美少年の誉れ高い柊一だけど、味覚はまだまだお子様ね。ふっ。

 心の中で妙な悟りを開いてしまった私は、こっそりと柊一の方を見ながら溜息を吐いた。

。お前、今僕の悪口を言わなかったか? 心の中で」
 ソーダ缶の中身を一口飲み干し、柊一はめざとく私の方へと視線を向けてくる。

 心の中で行っただけなのに、何で気づくのよっ!!
 この地獄耳が!!!

 内心では驚愕ものだが、その動揺を悟られまいと極力平静を装いながら。
私は柊一に愛想良く笑いかけると、右手をパタパタと振ってみせる。


「やあねぇ、柊一。私がそんなこと思うわけないでしょ」

「……どうだか」

 ちっ、まるっきりばれてやがる。

「拗ねるなよ、飛鳥井。この中ではお前が一番年下なんだから、仕方ないだろ? 」
 そして。この中でただ一人、御霊部に籍を置かない(とはいえ、私だって仮に置いてるだけの単なる助っ人その一だが)羨ましい人であり、いかにも好青年と言った印象のある彼――楠木さんは、赤と白のコントラストが鮮やかな缶の中身を飲み干すと、缶をちゃぶ台の上に置いた。そうして台の上に片肘を乗せ、手の平に自分の顎を乗せると、不機嫌色を顔面露わにした柊一の方へと視線を移す。

「やかましい、居候。お前は黙ってろ」
 対する柊一はと言えば、先ほどよりもさらに険悪度の増した表情でもって、楠木さんを力いっぱい睨みつける。もとから機嫌が悪かった事もあるが、何より彼の所属する御霊部と楠木さんの所属するヤミブンは非常に仲が悪い。それが柊一の怒りにさらに拍車をかけてしまっているというわけだ。

「仲裁してやろうってのに、その態度はないだろ」
 だが楠木さんも慣れたもので、年下の柊一の態度に目くじらを立てる事もなく、さらりと受け流した。以前の彼ならここで「売り言葉に買い言葉」な状態からそのまま喧嘩に発展してもおかしくはないのだが。どうやら、ヤミブンの女王様や天上天下唯我独尊我が儘大王辺りに常日頃遊ばれているその経験が実を結んだようである。

 確かに。先ほど挙げた二人に比べれば柊一の癇癪程度、目ではない。

「ふん。ヤミブンごときに仲裁される謂われはないね」

「……ったく、これだから御霊部は……」
 諦めにも近い嘆息を吐く楠木さんの態度に、柊一の表情がさらに激化する。
柊一の怒りのボルテージが上がっていく様は、手に取るようにわかる。

 これは、いい加減に仲裁しないとマズイな…。
 このままだと、楠木さんの方はともかく。柊一の方から喧嘩を吹っ掛けかねない。


「やめんか、そこの二人組。どうせ柊一も楠木さんも五十歩百歩なんだから」

「「はぁ? 」」
 柊一と楠木さんの声がものの見事に重なる。
ヤミブンとか御霊部という肩書きさえなければ、二人の相性は基本的に悪くない。

 予想もしない言葉を投げかけられ、怒りも忘れて呆ける柊一。
 そんな彼の姿を愉快そうに眺めていた雅行は、無造作にストローでコップの中身をかき回しながら口元へ笑みを浮かべる。

「奇遇だな、。俺も全く同じことを考えてたんだ。
年はともかく、炭酸飲料を好んで飲んでる辺りはどちらも同じお子様だしな」

「誰がお子様だ、誰が!!! 」
 途端、烈火の勢いで雅行にくってかかる柊一。知っててわざとそういうことを言う雅行も雅行だが、柊一もいちいち真面目に反応してやるから悪いのだ。

 しかし、それも仕方のない事なのかもしれない。なにせ柊一は人一倍プライドが高い上に、自尊心も高い。だが御霊部内で唯一の未成年であるがゆえに、他のメンバーのサポートを必要とすることも度々ある。仕事に絶対の誇りを持つ彼からすれば、自分の仕事を他人にサポートしてもらう事自体が気に入らないのだろう。そのせいだろうか、どうも柊一は必要以上の年齢コンプレックスを持っている節がある。
そんな彼にしてみれば、今の雅行の言葉はまさに怒髪天を衝く発言だったのだろう。


「でもそういうちゃんだって、
カフェ・オレとかコーヒー牛乳とか甘い飲み物が好きじゃなかったっけ? 」
 激昂する柊一とそれを愉快そうに眺める雅行たちは視界の端に置いておいて、楠木さんは私の方へと視線を向け、納得がいかないと言わんばかりに首を傾げた。

「前はね。今はすっかりブラック加糖派よ」

「へぇ……。……でもそういえば、アリも確かブラック派じゃなかった? 」
 アルバイト員の悲しい性か。私も楠木さんはヤミブン内でのお茶汲み回数が圧倒的に多い。万来課長とヤミブンの女王さまであるエリ子さんはお茶汲み免除されてるし、耕作さんや克也は出張やらなんやらで仕事場にいない時も多いからだ。
 そのおかげか、私たちは同じヤミブンメンバーの嗜好をほぼ完全に理解していた。

 だって、万来課長や耕作さんはともかく、エリ子さんや克也はいちいち注文が多い上に、ちょっとでも味覚に合わないとすぐにケチをつけてくるからね…。

 それでも最初のうちこそ、克也に皮肉を言われまくり、エリ子さんにグチグチと文句を言われていた私たちも、今では彼らの嗜好にきちんと合った飲み物を出す事が出来るまでに成長していた。やはり何事も経験がものを言うらしい。

「そうだけど、それが何か? 」

「いや、やっぱり一緒にいる時間が多いと、味覚もおのずと似てくるのかなと思って…」

「…………………」




+++ 次へ +++