障子を開けてやれば、自然の心地よい風が肌を撫でていく。 軒下に吊された風鈴が、チリンチリンと涼やかな音をたてて風に揺れている。 神社の周辺には、鎮守の森というべき緑を茂らせた木々の森があり、その奥で蝉の合唱が行われていた。 私は棒アイスを片手に、賽銭箱に腰掛けるといういささか罰当たりな体制で、一昔前の夏景色をぼんやりと眺めていた。着ているのは、ここの宮司さんが涼しいだろうからと快く貸してくれた、緋色の袴が印象的な巫女装束。 Tシャツ+短パンというラフな格好の方が涼しいと思われるかも知れないが、着物をなめてはいけない。体型にピッタリ合った洋服よりも、着物は構造上風通りが良く、ゆったりとしているので、着ていて案外と楽なのだ。 日本独自の服装である着物は、日本の気候に一番合った服であるといっても相違ない。 かく言う私は、興味半分で着てみたこの装束の着心地が気に入って、夏休みに入ってからはずっとこの格好で過ごしていた。 それに建前上、御霊神社の宮司の親戚を称しているのだから、神職に連なる人間らしく巫女さんを装っていた方が怪しまれまい。そんな一種のカモフラージュの意味もあって、この装束を着るようにしていた。 「……おっそいなぁ、柊一のやつ……。」 こちらへ来ると電話があったのは、昨日の晩。 そのときの話では、明日の午後までには着くだろうという話だったのに、正午を回った今になっても、まだ彼の姿は現れない。 電車にでも乗り遅れた……? 一瞬そんな思いがよぎるが、すぐにその考えを打ち消した。 楠木さんならともかく(オイ)、あの几帳面な柊一に限ってそんなヘマはしないだろう。 待ち人来たらずな状態でやることもないので、棒アイスを食べることだけに意識を移す。ほんの少し考え事をしていただけなのに、見てみれば手に持った棒アイスはだいぶ溶けかかっていた。溶けたアイスが手にかからなかったのは、不幸中の幸いだ。 手や口の周りに溶けたアイスがくっつかないように工夫してなんとか食べ終えると、私は残った棒を本殿の廊下に置いてあったくずかごの中へ投げ入れる。 だが工夫して食べた割には、やけに手がベタベタする。両手のひらをまじまじと見てみれば、ところどころに溶けたアイスがくっついていた。 「あちゃぁ…、手を洗わないとなぁ……。」 私は賽銭箱から下りると、階段下に置いてあった草履を足につっかける。そして真夏の日差しを面積の広い袂で遮りながら、大小に関わらず神社ならどこにでも備え付けられている手水舎のところまで歩いた。石造りの棺桶にも似た長方形の石器は、上に設置された龍首の蛇口から流れ出す水をこんこんと湛え、わずかに水が溢れている。石器の上には竹製の柄杓置き場がきちんとあって、そこに四本の柄杓が置かれていた。 私はその常備されているうちの一つを取ると、迷わず手水で手を洗う。(罰当たりな行動その2) って、うわぁーーーっ。よく見ると柄杓も汚いし。 ええぃ、この際だ。柄杓もきれいに洗っちゃえ。 暇だったことも相まって、私は汚れた柄杓四本を一本一本丁寧に磨きだした。薄汚れていた柄杓も水で綺麗に洗えば、ほどなく銀光りする面が登場する。 柄杓を全て洗い終わると、柄杓四本を乾かす意を込めて(本当は乾かす必要もないだろうに)私はそれらを夏の日差しに翳して見せた。強烈な日光を照り返して、柄杓たちはキラキラと輝いている。 うん、やっぱり綺麗なのが一番良いね。 一人言って一人で頷いた後、私は柄杓を元の位置に戻した。 別にたいしたことをしたわけでもないのに、なぜか妙な達成感に包まれて。 気づけば額に浮いていた汗を袂でもって拭い落とす私だが、そんな折に声をかけられる。 「あの、すみません……」 ん?この声………、聞き覚えがあるような? 訝しげに思いながらも、私は後ろを振り返る。 すると、視線の先にいたのは私よりわずかに背丈のある小柄な青年だった。やや大きめの瞳は、鮮やかな漆黒。髪の色も大和民族特有の闇色だ。ただし前髪の一房だけが鮮やかな檸檬色に染まっている。いかにも穏やかな好青年といった印象を見る者に与える、やや童顔な顔立ちながらも整った容貌のその人はーーー。 「ぬえぇっ、楠木さんっ?!!」 「え…、ちゃんっ?!」 私は、まさかいるはずもない相手がここにいることに驚きながら。 楠木さんは、巫女さんだと思っていた人が私であった事に驚きながら。 お互いに相手の名前を叫んでいた。 **************** 「なんで楠木さんがこんなところにいるの?」 とりあえず炎天下の中で立ち話というのもなんだったので、私は楠木さんを社務所の方へと誘った。しかし彼は、この後すぐに行かなくてはならない場所があるとの事だったので、とりあえずさっきまで私が座っていた賽銭箱の近くーー拝殿前に場所を移した。 ちょうど空の真上、南中をほどよく過ぎた位置にある太陽の日差しは、拝殿の屋根に遮られて私たちのいる場所まで届かない。吹きゆく風は心地よく、ここでなら多少落ち着いて話も出来るというものだ。 「それは僕の台詞。僕はいつもの通り仕事で来たんだけど、ちゃんがここにいるなんて全然知らなかったよ。ホント、びっくりしたなぁ……」 炎天下の中を歩いてきたせいだろう。それほど汗っかきでもないはずなのに、楠木さんは額にびっしりと汗の粒を浮かべていた。間近で見れば、前髪も汗のせいで少しばかり湿っている。彼は額の汗を腕で拭いながら、はぁ…と大きく息を吐いた。 「エリ子さんから聞いてない? 今回は御霊部の仕事で、こっちに来てるんだけど」 私は装束の袂からハンカチを取り出すと、楠木さんの額を拭いてやる。当然の事ながらびっくりして身を退けようとする楠木さんだが、私は逃げようとする彼を睨みつけた。 (いいから黙っておとなしくしてなさいよ!) そんな私の心の声が通じたのか、はたまた“天の眼”の餌食になるのがいやだったのか(明らかに後者のような気もするが)。楠木さんは観念してじたばたしなくなる。じたばたしなくなった彼の額の汗をハンカチで拭い取ってやりながら、私は忍び笑いを漏らさずにはいられなかった。 本来の年齢は楠木さんの方が私よりも上なのだが、こうしておとなしくしている彼を見ていると、どうしようもなく世話を焼きたくなって仕方ない。なまじ付き合っている相手が可愛げの欠片もない男であるせいだろうか、一つ一つの行動にいちいち反応してくれるを楠木さんをいじくるのが、もう楽しくて楽しくてどうしようもない(阿呆)。 「ちゃんが御霊部の仕事を押しつけられた話は聞いてるよ。 でも仕事先が安内市だとは聞いてなかったんだ」 飼い主に毛のブラッシングをしてもらっている犬を彷彿とさせる雰囲気を纏ったままで、楠木さんが言葉を続ける。 「……それじゃあ、私がここで偽装高校生やってることも知らないの? 」 私が尋ねれば、楠木さんはパチクリと目を瞬かせる。 「偽装高校生……。じゃあちゃんは、今ここの高校に通ってるんだ」 「うん。あのサトリの化け物の陰謀でね……。 だいたい今更お姫さまの事件のこと、蒸し返さなくても良いと思わない? もうかれこれ一年以上経ってる話よ? おまけにこの仕事、御霊部への入団テストも兼ねてるらしいし」 「御霊部に入団?! それじゃあ、ヤミブンの方は……」 「勿論、続けるわよ。あそこの方がこっちの仕事よりも給料良いし。 二足のわらじを履くなんて、もう慣れっこだもの」 驚きに声を荒げる楠木さんだが、私の方はその反応をあらかじめ予想していたからそれほど驚くこともない。目を見開いてこちらを見てくる彼に、私は至ってあっさりと答えを返した。 というよりも、今までだってなんだかんだ言いつつ御霊部の仕事をタダで手伝わされていたのだから、たとえ御霊部に入団したところで、置かれている状況は今現在となんら変わっていないからなんだけど……。 「大変だなぁ……、ちゃん……。」 そういう彼自身もまた、半ば強引にヤミブンのバイトをさせられる羽目になってしまった立場であるというのに。楠木さんは私の言葉に、思いっきり人事宜しく相槌を打ってくれた。 彼の様子にいささかカチンと来た私は、当然しっかりと仕返しをさせてもらう。 「でしょ? だから楠木さんも、克也に苛められてもめげずに頑張ってよね★」 楠木さんが克也を苦手としていることを知っていて、私は敢えて口にした。 紆余曲折の末、かれこれ二年近く付き合っている私の交際相手・有田克也は、とかく気に入った相手をからかって遊ぶ事が好きである。いい年扱いた大人のすることではないような気もするが、ああ見えて妙に子供っぽい面もあるのだ。 そして何を隠そう楠木さんは、思いっきり克也に気に入られている。そのため二人は、ふとしたことでしょっちゅう言い合い…ならぬじゃれ合いを繰り返すのだ。 ヤミブンではもはや恒例となった日常光景の一つだが、その仲の良さと言ったらもう……(怒)。 あぁ、思い出すだけで腹が立つ。 その光景を目にする度に、幾度楠木さんに嫉妬したことかわからない。 挙げ句の果て、「いっそあんたたち二人がくっつけば?」と思った事も一度や二度ではない。無論、このことは楠木さんにも克也にも秘密だが。 「……いや、それとこれとは話が別で……。」 そして案の定。克也の名を出したそれだけで、彼はどことなくせわしげになる。 もしもこの場所に萌ちゃんがいたとしたならば。 間違いなく、楠木さんは彼女の妄想の餌食になっていたに違いない。 てか、ぶっちゃけた話。柊一と楠木さんのお二方を目にしたら、間違いなく萌ちゃんの妄想の触手が二人に迫るんだろうなぁ……(笑)。 「まあ、それはともかく…。その様子を見ると、相変わらず克也に遊ばれてるんだねぇ。ってことは、克也も息災……というか元気なわけね」 我ながらよくわからない生存確認方法(?)をする私に、楠木さんは苦虫を噛みつぶしたような表情で、ポロリと愚痴る。 「……ちゃんの趣味にケチをつけるつもりはないけどさ。どうして君みたいな良い子がアリなんかと付き合ってるのか、ホントわからないよ。付き合うなら、絶対溝口さんの方がいいと思うんだけどなあ……」 「お願いだから、それを言わないで。自分でもアレだと思うけど、好きになっちゃったんだからしょうがないじゃない。あばたもえくぼというか、恋は盲目というか……、まあとにかく私は現状に概ね満足してるんだから」 楠木さんの言葉は、実に正論だと思う。それに彼の言った事は私自身も時々思う事でもあったから、気づけば私は苦笑いを浮かべていた。 だけど。気づけば脳裏に浮かび上がるのは、嫌味なまでに整った克也の顔。 思い起こすだけで、胸の奥が火傷のようにじんわりとしたほろ苦い痛みに襲われる。情けないけれどほんの二ヶ月、顔を合わせていないそれだけだというのに、会いたくて。会いたくてたまらない。 あぁ…本当に、恋は盲目。この私がちゃんと恋する乙女してますよ。 「そういえば、楠木さん。今回目をつけてる品は、一体どんな物なの? 」 興味本位というか、正直気になることもあったから、私は楠木さんに尋ねた。 ヤミブンのメンバーとして彼がここへ来たということは、すなわちこの街にいわくつきの呪物が存在しているということに他ならない。もっとも御霊部が二十年に一度は現地調査に来るような土地だから、怪しげな力を秘めた呪物の一つや二つ、いやむしろ一ダースくらいあったとしても驚きはしないのだけれど。 「今回は、それほど危ない仕事でもないと思うよ。 夜中になると一人でに鳴り出す鈴を引き取りに来ただけだから。 ………あのね、ちゃん。 実を言うと、今回の獲物に関してはほとんど僕の独断なんだ」 「そうなの? 」 「鈴が勝手に鳴り出す話を聞く前から、それが強い霊力を秘めていることはわかってたんだ。だからこそ、僕がここに出向いてきた」 そうハッキリと宣言する楠木さんの姿は、珍しくも年相応に見える(失礼)。大抵は穏やかな…天然に近いおっとりした雰囲気を漂わせているのだが、こう見えて土壇場や本番に強い体質なのだ。過去に幾つかの事件を共にくぐり抜けてきた私だからこそ、こんなことが言えるのだが。 しかし最近では、ヤミブンのバイトをずっとこなしてきているせいか。時折、頼もしい年上の男の人らしい顔も見せてくれる。良きかな、良きかな。 「なるほど…。 強い霊力を秘めた呪物なら、霊感の鋭い楠木さんが一番の適任よね」 「ちゃんを御霊部に取られてなければ、君も一緒にここへ来る事になってただろうけどね。君の持つ“天の眼”は、僕のコレとはまた違った霊力があるから」 一房だけ色の違う前髪――聖痕というのだそうだーーを指で摘み上げながら、楠木さんは穏やかに微笑む。 いわくのある文化財を収集・管理し、手に負えないと判断した場合には破壊する事も辞さないヤミブン。仮にも文化庁に属する組織でありながら、時に文化財保護法を無視して物品破壊も厭わぬこともあって、公には公開されていない闇の組織だ。通称:ヤミブンと呼ばれるのも、闇の文化庁の意が大きい。 そして、職種上の関係で命の危険にも関わるほどの恐ろしい呪力を秘めた品物を扱う羽目になるこのヤミブンでは、所属メンバーたちは必ずなんらかの特殊能力を持っている。もちろんそれは、バイト員である楠木さんや私にも言えることで。私たちも世間一般では“異能”と呼ばれる特殊な力を持っていた。 楠木さんは、霊能力者としてその名を馳せたお祖母様譲りの強い霊能力――霊的な力を感じ取ることに長けた能力――と魂鎮めの歌紡ぎの力、敵の力を反射する特殊な力を。 私は生来まったき青の色彩を宿す瞳に、呪物から霊獣といった霊的なものを惹きつける力を。サリエルの邪眼とすら讃えられるこの瞳は、強い闇の力と魅縛の力を秘めている。その力は未だ未知数。ただ確かなのは、攻撃も特殊攻撃もそつなくこなせる万能系の能力である事だけだ。 もっともその“天の眼”が災いして、御霊部に目をつけられる羽目になったわけだが。 「この無駄に強い“サリエルの邪眼”とやらのせいで、御霊部との縁が一向に切れないんだけどね。 おかげでこっちに来る前に、どれだけ克也に嫌味を言われた事か……」 「まあ、人材不足はあっちも切実みたいだしね。 それに御霊部の能力者って、攻撃系の術者がいないって聞いてるから、ちゃんみたいな能力者は貴重なんだよ」 |