東京はまだ梅雨真っ盛りと天気予報で言っていたが、ぼんやりと窓の外を眺めれば、空はすっきりと晴れ渡っていた。
 空の色は抜けるような青色で、その空を彩る飾りのようにところどころ浮かぶ雲は真っ白。外を吹き行く風は、明らかに遙か南の海上から渡ってきたような、湿り気を帯びた夏の風だ。
 とても鬼の居ぬ間に洗濯ならぬ、梅雨の合間に晴れ間といったふうではない。窓の外を見る限り、梅雨明けしてすでに夏を迎えているようにしか見えなかった。
 それもそのはず、ここは東京ではない。
 
 某県安内市。東京よりも南に位置し、市内を二つの河が流れている他はこれといって特徴のない、どこにでもありそうな地方都市の一角である。加えて、どういうわけか二十年に一度、御霊部がひそかに現地調査にあたるという、何やらきな臭い(コラ)曰くありげな都市でもあった。


(そう……、そして今年がちょうど二十年目…………)


 せめて学校にいる間はごく普通の一般生徒でいようと思ったはずなのに、ふと思考を巡らせればすぐに『御霊部』を思い出してしまう。
 そんな自分が情けなくて、思わず自嘲の溜息が漏れる。

 だがそれも仕方ないことなのかも知れない。
 本来私が所属するのは、御霊部と犬猿の仲にある文化庁のとある組織。
 にも関わらず、私がこうして御霊部の管轄であるはずの安内市に関わっているーーしかもあろうことか、年齢詐称までして市内の高校に通っているーーのは、他ならぬ御霊部からの要請あってのことなのだから。

(やれ歴史が浅いだの、骨董品収集係だのと、散々うちのこと馬鹿にしてるくせに……。かと思えば、人材が少ないのを盾にして私をこき使うなんて、つくづくやな組織。)

 心の中で毒づきながら、私は再び溜息を漏らした。
今度は自嘲のそれではない。自身の境遇を嘆いての、悲嘆なる溜息だった。



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 霞ヶ関から電車に乗って少し行ったところにあるオフィス街。
そのなかでも、滅多に人の入ってこないような裏路地の一角に、まるで存在そのものを世間から隠したいと言わんばかりにひっそりと。古い古い建物が建っていた。その古さといったら、目にした誰もが一体何十年経ってるんだ、と思わずつっこまずにはいられないくらいだ。
 年季の入った建物の一角、「財団法人・日本民俗学調査研究協会」と書かれた古ぼけた看板の掲げられた部屋をチラリと見上げ、私は深く深く溜息をついた。


 正直言えば、行きたくない。

 行かずにこのままUターンしてしまえたら、どんなにいいだろう。
 本来なら、あるいは同じヤミブンの他のメンバーならば「部署が違う」の一言でつっぱねられるのだろうが。
 あいにくと、日頃から能力訓練の為に、御霊部の部長にいろいろと世話になっている私としては、“借りを返せ”と言われてしまえば、断るに断れないのである。

 くっそ、人の足下見おってからに………!!!!

 憂鬱・億劫・面倒くさい、三拍子揃った溜息を漏らし、私はなんとか歩き出す。
歩きだしては見るものの、私の感じている鬱・三拍子を反映したのだろうか。目的の部屋へと進む足取りが、自然と重くなってくる。

 ……イヤ、本当に。わざとやってるわけじゃないんだよ。

病は気からとは、昔の人はよく言ったものだ。
行きたくないと思っているだけなのに、足が重い。本当に、重い…。
まるで足枷と重りがつけられているような、腹にくる重さ。
一歩一歩足を踏み出すことが、ひどく億劫で辛い。

 一歩足を出しかけては、また戻し。一歩出しかけては、また戻す。
私は情けないことながら、しばらくずっとその動きを繰り返していた。
はたから見れば怪しいことこの上ないが、どうしても思い切れないでいたのだ。

 そんなときだった。後ろから、呆れたような声が寄越されたのは。


「……そこでなにやってるんだ、。」


 振り向けば、薄鼠色のブレザー姿の少年がすぐ近くに立っていた。
鮮やかにして暗く澄み切った印象を与える漆黒の髪と、同色の双眸が宿す色彩は研ぎ澄まされた黒曜石のそれ。彫りは深くないものの、東洋独特の神秘的な雰囲気を持つ顔立ちは整っている。美少年といって差し支えない容貌の持ち主である彼には、どことなく育ちの良さそうなーー言ってしまえば貴族的というのだろうかーー雰囲気があった。ブレザーの制服もよく似合っているが、むしろ古風な装束でも着せてみたくなってしまう(できれば、十二単とか振り袖希望!)のは、彼自身の家柄に関係があるのか否か。

 彼の名は飛鳥井柊一。古代より千年以上も続く名門飛鳥井家の末裔にして、旧陰陽寮の流れを受け継ぐ外郭団体――御霊部の正規メンバーの一人だ。

 さらにもう一つ付け加えるならば、彼は御霊部のメンバーでありながらも、比較的私に対して好意的な態度を見せてくれる。他のメンバーはそれなりに年季が入っているせいか、どこか掴み所のない部分が多いのだが、柊一は若さゆえか。非常にわかりやすい反応を示してくれるので、正直からかいがあって楽しい。
 以上の理由ゆえに、所属する部署自体が仲が悪いとはいえ、私と柊一はそれなりに友好的な関係を築いていた。


「なにって、入ろっかどうしよっか考え中〜♪なんだけど。」

「なんだそれ。」

「なんでもない。とりあえず、入るかどうか迷ってる最中。」

 本当のところは、迷っているのではなく、『入りたくないから』なのだが。
 そのことを言ってしまうと、柊一にいろいろと言われそうなので、私は敢えて適当な言葉で質問をはぐらかした。

「今更何を迷う必要があるんだよ。」
 柊一は私の答えに対して、怪訝そうな表情をしてみせた。
 かと思えば彼は、いきなり私の腕を掴み寄せる。

「ちょっ…、何?!」

「どうせ部長にでも呼ばれたんだろ。さっさと嫌なことは終わらせた方が楽だぞ。」

 げ。ばれてるし、おもいっきし。

「柊一…。あなた、いつからサトリの能力が使えるようになったの?」

「部長でなくても、お前の顔を見れば誰だってわかる。
グダグダ言ってないで、さっさとついてこい。」

「……年下のくせに、生意気な……。」

「二つ年上なくらいで、年長風を吹かすなよ!」

「二つだって立派に、と・し・う・え。私の方がお姉様でしょうが♪」

 言いながら私は、掴まれていない方の腕でもって後ろから柊一に抱きついた。
すると、傍目からでもはっきりわかるほどに、柊一の顔が真っ赤に染まる。

「っ……、離れろ!!!」

「照れちゃって、柊一ってば可愛いなぁ〜♪」
 
 年下いびりって、癖になるとなかなかやめられないわ〜♥

 柊一に言ったら、烈火の如く怒られそうなことを考えつつ、私はほくそ笑む。
そして、私を引きずりながら建物の中へ入っていく柊一を眺めていて、改めて思った。
 バイト先で同期の楠木さんは、克也に理由もなく苛められていると零していたけれど。あれは苛めているんじゃなくて、ひねくれた克也なりの愛情表現なんだろうな、と。

 ……ってことは、柊一苛めて楽しんでる私は、克也と同類か?!

 こうして私は、顔を真っ赤にした柊一に半ば引きずられながら、なんとも複雑な心境のままで「財団法人・日本民俗学調査研究協会」の本部とも言うべき事務室へと入っていったのだった。





 立て付けの悪い安普請な戸を、柊一が手慣れた様子でこじ開ける。すると、耳障りな音を立てて、戸が内側へ向かってあっさりと開いた。
 柊一はひっついている私を力づくで引きはがし、未だ私の腕を掴んだそのままで、中へと入っていった。中にいたメンバーは、戸の開く音で来客の訪れを知ったのだろう、こちらの方へと視線を向けてくる。

「一緒に入ってくるとは、ずいぶんと仲睦まじいことだな。」
 からかいの響きを帯びた言葉を発したのは、デスクの上でノートパソコンを開いていた若い男の方だ。彼は切れ長で細い闇色の瞳に愉悦の光を浮かべ、机の上に頬杖をついた傍観姿勢のままで私たちの方を見ている。
 艶のある黒髪には、一筋の乱れもない。鼻梁が高く、それなりに整った顔立ちをしてはいるのだが、青白い肌色のせいかどことなく陰鬱とした印象を受ける。吸血鬼のコスプレでもさせたなら、間違いなくはまり役。ストイックな雰囲気を醸し出した、どちらかといえばマニア受けするタイプの青年である。
 しかしてその実体は、御霊部の正規メンバーが一人にして、千年以上も前から今まで続く名門多能家の末裔ーー世が世ならお公家さんである家柄の人間である。
 名は多能雅行。容姿はともかく、れっきとした日本人(人間)だ。
ひそかなあだ名は、吸血鬼ならぬ和風吸血鬼。

「下でたまたま会っただけだ!!!!」
 ムキになるのは相手の思うつぼであるとわかっているだろうに。にも関わらず柊一はいちいち雅行の言葉に反応し、烈火の勢いで弁解する。
 別にやましいこともないんだから、堂々としていればいいのに。
どうも彼は、人の言うことにつっこまずにはいられない体質らしい。

「はいはい。そういうことにしておいてあげよう。」
 一方の雅行の方は、明らかに柊一をからかって楽しんでいた。
 はたから見ていても、わかるほどに、それはもうあからさまに。
 常日頃、淡々とした口調の彼と会話をし合っている柊一ならば、この微妙な変化に気づかぬはずがないのだが。あいにくと頭に血が上っていて、そこまで思考を巡らすに至っていないらしい。


「雅行!!!!」


「すまんが、柊一。これから重要な話をせねばならん。少々黙っていてくれないか。」
 今にも雅行に飛びかからんばかりの気迫をみなぎらせている柊一に、部屋の奥にある無数の書架棚にもっとも近いデスクに座った老人が水を差す。
 年はどう見ても、六十〜七十代だろう。神経質そうな面立ちだが、顔面の至る所に生きてきた時代の苦労を忍ばせる皺が刻まれている。頭に残されている髪は、見事なまでにまっさらな白髪。瞳の上に装備されている眉も見事な白銀だ。
 一見しただけではただの偏屈老人にしか見えないが、強い意志の光を宿す細長の瞳に一瞥されれば、思わず身を正さずにいられまい。年を重ねたゆえに持てる貫禄とどこまでも不可思議な雰囲気を持つその人――篭目善衛は、ここ御霊部を総括する部長の肩書きを持ったご老人だ。


「……できれば、手短に済ませて頂けると嬉しいんですけど。」
 柊一や雅行はともかく、私はこの篭目善衛という人が苦手だった。別に、彼が他人の心の中を読めるサトリであるからではない。ただなんとなく、苦手なのだ。
 多分私と篭目老人の相性を計ったとしたら、限りなく最悪に近い悪いに違いない。
 普通なら私は、極力そういう相手とは接触を避けるのだが、いかんせんこのご老体に関しては避けることができないのだ。なにせこの方こそ、私の能力訓練を見てくれている師同然の御方なのだから。

 はぁ………、世間って厳しい……。

 私がそう進言すると、篭目老人は私の方へと視線を向けた。そうしたかと思えば、まるで値踏みするような目で、私の頭の先から足先までを眺め回す。

 そんな無遠慮な老人の視線に晒されて、私の怒りボルテージが上がらないはずがない。だが、敢えて何かをしようとはしなかった。私がしたことと言えば、ただ怒りをこらえるために、グッと拳を握りしめたことくらいだ。


「……雅行。お前はどう思う?」

「そうですね。大丈夫だと思いますよ、多分。
背格好だって、柊一とそう変わらないし、心配はないかと。」

 私と柊一にはまるでワケのわからない会話を一通り終えると、篭目老人はデスクの上に置いてあった銀色の大きな箱を指差し、
「話の前に、まずはこの中にある服を着てみなさい。」
と言ってきた。


「服、ですか???」
 当然のことながら、私は訝しんだ。隣にいる柊一も同様だ。

「早くここを出て行きたいと思うなら、言う通りにすることだ。」
 ここを出て行きたいという心の声を読みとったのだろう。
篭目老人は、私に対して厳しい視線を向けてきた。

「……わかりました。それから一応言っておきますけど……」

「誰もお前の着替えなど覗いたりしない。
そんなことを気にする暇があるなら、さっさと着替えてきなさい。」

 先に心を読みやがったな、このサトリめ。

 にしても、もうちょっと言い様ってものはあるだろうに。高校生の年齢は卒業したとはいえ、私はまだ二十歳にもなってない年頃の乙女なんだから。

「…………。」
 私の心の声を読みとれないはずもないだろうに、篭目老人はなぜか先読みしてこようとはしなかった。ただ私の方に呆れ果てたと言わんばかりの視線を投げてくるだけだ。

「わかりましたよ〜。着てくればいいんでしょ、着てくれば。」
 篭目老人の視線を避けるようにして、銀色の箱を持ち上げると。私は机の後ろに広がっている書架棚の森の中へと入っていった。



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