それは、ちょうどが人差し指ほどの厚さがある事典を本棚の一番上へ戻そうと、悪戦苦闘している時のことだった。


「ふん、いい気味だ」
 書翰に筆を走らせる手を止めぬまま、視線は机に向けたままでふと呟いたのは、この部屋の主である劉輝その人だ。

 てっきりその呟きが、自分の手が本棚の上に届かないことを言っていると思ったは、戻そうとしていた事典を利き手に構え直すと、気配を殺してそっと劉輝の背後に忍び寄った。

 何をするのかーー当然、劉輝の頭を事典で殴るのだ。
人が一生懸命頑張っているところに、あんな台詞を吐かれたら、どれほど温厚な人間でも思わず声の相手を殴り飛ばしたくなると言うものではないか。
 加えては、どちらかといえば短気な方だ。当然、黙っていられるはずがない。
本当なら即座に抜剣して、劉輝の首元へ突きつけてやりたい気分だったのだが、一見すれば穏和そうに見える彼の剣の技量は、相当なものがある。
 なにせ楸瑛ですら、彼の本気の剣筋は見切れなかったほどである。楸瑛にも敵わぬがとても敵う相手ではないし、あいにくとそんな相手に冗談で剣を突きつけられるほど肝は据わっていない。

 そこで仕方なく、事典攻撃で穏便に済ませようとしたのである。
ちなみに、劉輝同様この部屋にいる楸瑛や絳攸は、二人とも机に向かって書翰整理をしているため、彼女の行動には一切気づいていない。


 気配一つ乱さぬまま、はその手にした事典を大きくふりかぶった。
 そして、今にも事典が劉輝の頭に振り下ろされようとしたその時。

「あのくそじじいも少しは困ればいいんだ。ざまーみろ。」
 紛らわしいことに、さっきの台詞の続きなのだろう。劉輝は相変わらず書翰を整理する手を休めぬままで呟くと、口の端を歪めて不敵な笑いを浮かべた。


(って、あんたが犯人かぁっー!!!!あの超梅干しの噂の出所!!!!)

 心の中で絶叫しつつ、はこの部屋の雑用を割り当てられたときのことを思い出していた。


****************


 の毎日の日課は、宋太傅に稽古をつけてもらう他にもう一つある。
各六部省の執務室で雑用やら掃除やらをこなす、いわばお掃除おばさん的な仕事。
この仕事は、やることがないとぼやくに霄太師が提案した特別なもので、給金は出ないが、六部省の官吏と顔見知りになれる・彼女が自由に王宮内に出入りできる建前ができる、という二つの利点があった。
 もともとこちらの世界へ来る前は、いない母親の代わりに家事全般・家計の全てを肩に担いつつ、小学生をやっていたである。自分の時間がないくらい忙しいのがもはや当たり前になっていた彼女にとって、一日の大半を暇をもてあまして過ごすなんて、とてもじゃないが出来ない。

 給金が出ようが出まいが、霄太師の発案は、にとって非常に魅力で。
やってみないか、と言われると彼女は二言もなく飛びついたのであった。



、本日の割り当てじゃ」

 宋太傅に稽古をつけてもらったあと、いつものように霄太師の執務室に足を伸ばしたに、部屋の主は早速仕事の割り当てを渡してくれた。

「は〜い。最近は戸部の方が大変らしいって聞いてますから、今日は戸部ですか?」

「それはどうかの。まあ、とにかくそれを見てみなさい。」

 言われては、手渡された割り当て表に目を落とす。

…………。

…………………。

「あのぉ……、霄太師?私の目が悪くなったのでなければ、今日の割り当て…“国王の執務室”って見えるんですけど………?」

「うむ、その通りじゃ。安心せい、お前の目は十分に正常じゃよ」


 本日が雑用を割り当てられた場所は、なんと……“国王の執務室”。

 確かに国王をはじめ、その部屋で執務をしているであろう側近たちとは、顔馴染み…いやそれ以上に親しい間柄であるだが、いくらなんでもお掃除おばさん(注:自身のこと)が国王の執務室のお掃除なんてしていいものなんだろうか。

 そう思ったは、霄太師に向かって聞いたのだが。

 霄太師はといえば、長い髭をいじりながら
「別に構わんじゃろぅ。互いにそう知らぬ仲でもあるまい。
…それに、ちぃ〜と確認したいことがあってな。さりげなく彼らから聞き出してはくれんかの」
と、実にあっさりと答えてくれた。

「なるほど、あの“超梅干し”の噂の出所のことですね………」


 今年の彩雲国は例年にない記録的な猛暑で、超廷内では体力不足の文官たちをはじめとする官吏たちが次々と倒れていく、という大事件が発生していた。
そこへ突然降って湧いたように流れ始めたのが、“超梅干し”の噂。
その噂の内容というのは、なんでも霄太師が死者蘇生もできる“超梅干し”を所持している、というものだった。

 普段なら絶対“怪しい”の一言で終わってしまい、噂にもならなそうなしょうもない話なのだが、噂の出所が高官の方であったこともあったのか。この猛暑のせいで頭がいかれた官吏たちは、この雲を掴むような噂をまともに信じてしまったのである。

 …まあ、その原因の一つには、噂の霄太師が怪しげな壺を後生大事に持ち歩いていたせいもあるのだが。

 こんなわけで霄太師は、今朝もまた“超梅干し”を求めて幽鬼の如く近づいてくる官吏たちから必死こいて逃げ回っていたのである。


 宋太傅からそのことを事前に聞いていたこともあるが、実際に官吏たちと追いかけっこをしている霄太師本人を見ていたにとって、彼の思惑を理解することは実にたやすいことであった。

「了解しました、霄太師。
雑用しつつ、“超梅干し”の出所をそれとなくさぐってきます!」

「うむ。頼んだぞ、


********************


(あ〜あ。調べる間もなく、自ら名乗ってくれちゃいましたよ……)

 思いもかけない事態に、は呆気にとられるしかなかった。



「……?そこで何をしているのだ? 」

 その声に我に返ってみれば、劉輝とばったり目が合った。
すっかり別の思念に囚われていたためか、はうっかり気配を消すのを忘れていた。
おそらく劉輝は、そのせいで後ろにいる彼女に気づいたのだろう。

「え、あ、いやぁ………。この本をね、一番上の棚に入れようと思ったんだけど、届かないの。だから踏み台になりそうなものを探そうと思って」
 内心しどろもどろになりながら、は今にも彼の頭に振り下ろそうとしていた事典を慌てて背の後ろに隠した。そして悪あがきと承知の上で、苦しすぎる言い訳を並べ立てる。

「なんだ、そんなことか」
 だが、劉輝はすんなりと苦しい言い訳を信じた。
しかもそればかりではなく、彼はの手から事典を取り、席を立ったかと思えば、棚の上に事典を戻したのである。

「…………あ、ありがとう。別にそう言うつもりで言ったじゃなかったんだけど」
 あまりのことに呆然としていただが、劉輝がこちらを振り返った気配に気づくと、礼を述べる。

 それにしても、お掃除おばさんとしてここへ来ているというのに、まさか部屋の主に仕事を手伝ってもらう羽目になってしまうとは……、何とも情けない。

 自身の情けなさに溜息を漏らすだが、ふと視線を感じて顔を上げた。
すると、誰かの腕にいきなり引き寄せられる。

「っ、劉輝? なに、どうしたの?」
 いきなり抱き寄せられても、は別段いつもと変わった様子はない。これが全く面識のない人間であったなら、即座に相手を双剣の餌食にしていただろうが。
劉輝は、まだが彩雲国に来て間もない――精神的に不安定だった頃、彼女を支えてくれたいわば兄同然の存在だ。ゆえに彼女は特に抵抗するまでもなく、そのままなすがままだ。

「…の髪は、秀麗の髪みたいにいい香りがするのだな…」
 劉輝は半ば夢心地で呟くと、無造作に結い上げられたの柔らかい黒髪に顔を埋めた。
さらに彼女を抱く腕に心なしか、より力がこもる。


「…………………………はぁ?」

 いきなり突拍子もないことを口走る劉輝に、は本日三度目の呆れモードに入った。

「あー、一応忠告しておくけど、今の主上には注意した方がいいよ。
秀麗殿に会えなくて、ささくれ立つのを通り越して禁断症状まで出てるから」
 その声に振り向けば、書翰に目を通す手を止めたらしい楸瑛がこちらを見て苦笑いを浮かべていた。彼もおそらく、劉輝の言葉に唖然としたクチなのだろう。
口の端がわずかに歪みを帯びている。それもおそらく、笑いによるものだ。

「そんなになるまで監禁しておかないでくださいよ、藍将軍。
せめて一度だけでも遠目にでも、会わせてあげるくらいのことはしましょうよぉ」

「でもこれが、他ならぬ彼女たっての希望だからね」
 すでに禁断症状まで出ている劉輝に、間違っても聞かせる台詞ではない。
にも関わらず、笑顔であっさりとバラしてくれた楸瑛は、おそらく今の状況を楽しんでいるのだろう。

 だがとしては、これ以上の状況悪化は避けたいところだ。

「………あー、気を落とさないでね、劉輝。
今度秀麗ちゃんに私からそれとなく頼んでみるから、ね?」
 灰になりかけた劉輝の背をあやすように優しく叩きつつ、なんとか茫然自失の世界から生還したはとりあえずフォローをしてみる。

「優しいな、は。それに抱き心地もいい…。
それに、秀麗よりちょっとだけの方が柔らかいな」
 まるで動物のように顔をすり寄せてくる劉輝の腕に、いっそう力がこもる。
夢心地でうっとりと囁かれたその言葉は、とても柔らかで蠱惑的だったのだが。

 あいにくとを怒らせるのには、十分すぎる言葉でもあった。

「そんなこと、比べんでいいっっ!!!」

 ごげしっ。

 ほぼ反射的に放ったの膝蹴りが、劉輝の顎にまともに決まる。

 そして。

 ごめすっ。

 のけぞったところへ追い打ちをかけるように、辞典クラスの分厚い本が飛んできたかと思うと、劉輝の顔面にクリーンヒットしたのだった。