夏も近づく頃にもなれば、ムッとしたくなるほどに生暖かい風が空を支配する。 湿った空気に誘われたて集まってきた雨雲たちは、空から尽きることのない大量の水を振りおとしていく季節。それを人は雨期と呼ぶ。 そしてこの時期の雨雲たちは、しばしば天と地を繋ぐ光のかけ橋――凶悪なまでの殺傷力と威力を秘めた人外の力である雷もまた、一緒に連れてくる。 雨期に降る大雨こそ、農家で働く人々にとっては、天の恵み。 作物や穀物を潤おすため、それらをたくさん収穫するため。 雨期にまとまって降る大量の雨は、欠かせない自然の恵みだ。 ……だけど、雨は嫌い。 耳元で唸る風の音。 身体を打ち砕かんばかりに叩きつける、どしゃぶりの雨。 ごうごうとすさまじい音を立てながら、うねりたゆたう川。 それらの音を聞く度に、思い出さずにはいられないから。 二度と思い出すまいと誓ったはずの、 本来在るべき世界での忌まわしい記憶を…。 ********************* さっきまでかんかんに晴れていたというのに、空はいつの間にか分厚い雲たちで覆われてしまっていた。 そうしてあっという間に集まってきた雲たちは、皆が集まるやいなや、寸分の時間も惜しむかのように、溜めていた水を一斉放出し始めた。 「ひゃあぁぁ〜、やっぱり降って来たかぁ……。」 屋敷からそう離れていない市場で買い物をするから…。 そう思って傘を持ってこなかったのが、今更ながら悔やまれた。 …まあ、仮に持ってきていたとしても。 両手が荷物で塞がっていては、傘を差したくても差せる状況ではないのだが。 とにかくさっさと屋敷へたどり着けばこっちのものと、は誰もいない通りを必死で駆けていた。 ひたすら駆ける、駆ける、駆ける。 だがあいにくと、着ている着物の裾が長いので全力疾走には至っていない。 その上、必死で動かす足に着物の裾がまとわりつくのだからたまらない。 足にべったりくっつく裾は、濡れているからひどく気持ち悪いのだ。 さらに、何も遮る物もないまま濡れ放題に濡れた頭からは、水滴が顔へと流れ落ちてくる。眉毛でひっかかるおかげで水滴が目に入ることはないが、それでも気持ち悪いことに変わりはない。 だが、手で水滴を払いのけたくても、荷物で塞がった両手ではどうすることもできない。 (……こういうとき、千手観音が羨ましいと心底思うよ。) なんともぶっとんだ思考を巡らせながら、はひたすらに走った。 だが悲しいかな、雨足は収まるどころか強くなる一方だ。 「しっかたないなぁ……、どっかの軒先でも借りよぉっと…。」 ******************* 手頃な軒先を見つけると、は一言断ってその軒先を借りることにした。 まずは両手に抱えていた重い荷物を下ろし、軽く肩の関節をグルグル回す。 それから顔に流れ落ちてきた水滴を払うと、びしょぬれになった着物の裾をぞうきん絞りの要領で絞って、取れるだけ水気を取った。 「やまないなぁ……、雨……。」 屋敷まではまだ距離がある。その上、雨脚は強く、雨粒も大きい。 このまま走っていったとすれば、屋敷についた頃には全身ずぶ濡れ。 間違いなく濡れ鼠だ。 そんなことになれば皆に迷惑がかかるし、絳攸に何を言われるかわかったものではない。 そこまで考えては、黙っていれば文句なしの美形、そのくせやたらと口うるさい青年――李絳攸のことを思い出し、知らぬうちに微笑を浮かべていた。 が世話になっているのは、彩雲国の大貴族――紅家当主の家である。 そしてもとを正せば、はこの彩雲国の生まれではない。 彩雲国とは全く別の、いわば異世界で生まれ育ち、10才の頃、ふとした拍子にこの国へ迷い込んだーーいうなれば“異邦人”であった。 諸々の事情から、しばらくの間、現国王の劉輝や宋太傅の世話になっていただったが。ふとしたことから紅家当主である紅黎深に気に入られ、半ば強制的にお世話されることになり、現在に至っている。 その縁で知り合った、史上最年少の状元及第――弱冠二十二才で吏部の副官にまで昇りつめ、朝廷随一の才人と誉れ高い青年――李絳攸とは、いわば家族同然の間柄になる。 英知の輝きを宿す深い色彩の双眸と人の目を惹きつける端正な美貌、才能を磨く努力を惜しまぬ堅実な性質と主上の側近を務めるだけの高い地位。 それらを全て併せ持つ彼は、まさに完全無欠の人かと思いきや。 意外にも極度の方向音痴&女性嫌い、という二つの性癖をも持ち合わせていた。 絳攸は極度の女性嫌い。 そしてもまた、あることが原因で、それ以来男性嫌いに陥っていた。 だが不思議なことにこの二人。 お互いに異性嫌いという性癖を持ちながらも、ごく普通に会話を成立させることができるというから、世の中には魔訶不思議なことがあるものである。 「……雨、いつになったら止むんだろ。 止まなかったら帰れないし、そんなことになったらまた、絳攸ってば怒るんだろうなぁ……。」 着物が汚れるのも構わずに、はその場にペタンと腰を下ろした。 濡れた身体を拭かずにいたせいで、身体はすっかり冷え切っている。 そして初夏とはいえ、雨のせいで周りの気温は低い。 震える身体を腕で抱えるようにして座り込み、できることといえばただ泣いている空を見上げることだけ。 ポツポツと独り言を呟くたび、彼女の口からは無意識に“絳攸”の名前が零れ落ちる。 だけどそのたびに、の胸の奥は不思議とあたたかくなる。 彼女の顔に浮かぶのは、思い出し笑いというにはあまりにあたたかい笑顔。 本人は全く気づいていないが、彼女の心の中で“彼”が占める割合はかなり大きい。 家族としてみるには、あまりに行き過ぎた感情。 それをなんと呼ぶのか、は知らない。 …いや、無意識にその言葉を避けていると言ってもいいだろう。 過去のトラウマは、思った以上に根深い。 ********************* 地面を穿つ幾千もの雫の音。 まるで引いては寄せる波のように、静かな音色。 抑揚もなく、ただ延々と降り続ける雨音は、疲れ切ったを眠りに誘うには充分だった。 の目がトロンと潤みを帯びていく。 徐々に首の角度が下がっていき、うつらうつらと船を漕ぎ始めた頃だろうか。 唐突に、辺りを取り巻く空気が凍った。 それはおそらく、の錯覚。 だが、空に異変が起こったのは確か。 ぼんやりと意識を覚醒させたが、空を見上げる。 見上げた空は、一瞬後、真昼のような白光を放った。 「え………。」 稲光。 あらゆる存在を切り裂く、光の槍。 そしてその後に続くのは、 鼓膜が引き裂かれそうなほど、すさまじい轟音――――― *********************** 止まっていたはずの思考は、勝手に動き出す。 けして開けることのなかった。否、けして開けようとしなかった記憶の扉。 鍵をかけたはずの扉は、鍵もないのにあっさりと開いてしまった。 いや、違う。 さっきのあの音と光。 雷がまさにの記憶の底に封印した、過去の扉を開く“鍵”であったのだ。 そして、封じたはずの記憶が流れ出す。 忌まわしい過去。 思い出したくもない、出来事。 『俺は、ずっとお前に触れたかったんだよ…!!』 血を吐くような、少年の言葉。 忘れていたはずなのに、触れられた感触が残っている。 首筋。 耳朶。 鎖骨。 胸。 生々しい、記憶と感触が………まだ………。 「やめてえぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」 は頭を抱えて絶叫する。 だのに、記憶は薄れない。 薄れないどころか、逆にいっそう記憶は濃厚になっていく。 嫌だ。 いやだ。 イヤダ! 思い出させないで。 あの忌まわしい記憶を。 同じ血の繋がった兄。 優しかったはずの兄。 それらの情報全てを打ち消す、兄の血を吐くような告白。 オレハ、ズットオマエニフレタカッタンダヨ……!! お願い、これ以上思い出させないで!!!!! |