「…………っおいっ、聞こえてるのか!!」 驚くほど近くでした声に、は反射的に顔を上げる。 稲光の強いフラッシュを背にしているせいで、顔はよく見えない。 だが、その人が男性であることは声を聞けばわかる。 「や、だ…………、触らな、いで…………!!!」 怖い。 こわい。 コワイ。 触れないで。お願いだから。 これ以上、脳裏からあの記憶を引きずり出さないで……!! 「しっかりしろ!わからんのか、俺だ!!」 頬をやや強く叩かれて、もう一度顔を上げる。 怒りを露わにした人の顔がすぐ、そばにあった……。 悲鳴をあげかけるだが、ふと気づく。 自分を怒鳴りつけたその人の声が、ひどく耳に心地よいことに。 何よりも、聞き覚えのある声だった。 その事実が、錯乱していた頭をほんの少しだけ落ち着かせてくれた。 はあげかけた悲鳴を喉の奥にとどめ、両手で目を擦る。 そしてもう一度、自分の前にいるその人を視界に収める。 淡い色彩の前髪と英知の輝きを宿す切れ長の深みある色彩に彩られた瞳。 貴族特有の穏やかな印象とはやや毛色の違った、磨き上げられた宝玉を思わせる、美しいけれど硬い印象を与える理知的な容貌。 見覚えのあるその人の姿を認めて、は胸の奥に溜め込んでいた息をゆっくりと外へ吐き出した。そうするだけで、沈んでいた気分が驚くほど楽になる。 「……こう………ゆう………。」 震える声で彼の名を呼べば、相手はほんの少しだけ表情を和らげる。 だが、すぐにその表情は呆れと怒りのそれに変わってしまう。 「…ようやく気づいたか、馬鹿。 なんでよりにもよって、こんな日に雨具も持たずに供の一人もつけずに外へ出た?! 雨が降るかもしれないことくらい、お前の頭でもわかるだろうが!!!」 容赦ない叱責と一緒に、拳が頭の上に落ちてくる。 もちろん手加減されているから、それほど痛くはない。 「…よか……、ったぁ…………。」 先ほどまでのイヤな気分はすっかりと消えて、不思議と心は軽い。 絳攸の手を借りて立ち上がると、はホッと安堵の溜息を吐き出すと共に、強張っていた表情を緩めた。 「全く……。 だからこの時期はむやみやたらと屋敷を出るなと、散々言ってあるだろうが。 それを見事に無視した結果が、これだ。自業自得も良いところだな。」 「あう……。」 いつもなら言い返すところだが、この状況で言い返せるほども馬鹿ではない。 彼の言っていることはまさしく正論。そして、今回は明らかに非があるのは自身だ。 雨期……なかでも雷を伴ってまとまった量の雨が降るこの時期は、にとっては最も厭うべき季節であった。 なぜなら地面をたたきつける雨粒の音や氾濫する川の声、大気を切り裂く凶暴な雷龍の嘶きは、彼女が最も思い出したくない過去の記憶の日を鮮明に思い起こさせるからだ。 絳攸も紅家当主も紅家に仕える使用人たちも皆、そのことを知っている。 だからこそ、この時期の外出を控えるようにと口を酸っぱくして忠告するのだ。 にも関わらず、は外出した。 その挙げ句、雨に降られてずぶ濡れになって、錯乱状態にまで陥った。 まさしく、自業自得だ。 「どうしてこうなることがわかっていながら、外へ出た?」 「………い、市場で大安売りをしてたから…………。」 絳攸に詰問され、は呆れられることを覚悟の上で正直に話した。 ………………。 …………………………。 …………………………………。 「……………帰る。」 長引いた沈黙を先に破ったのは、心底呆れたと言わんばかりの声音。 そして声の主は、やおら踵を返すと傘を広げ、そのまま雨の中へ出て行こうとする。 「ちょ、ちょっと待ってよ!!!」 は慌てて出て行こうとする絳攸を追いかけ、彼の着物にしがみつく。 「離せ!!そんな馬鹿を必死で捜してた自分が情けないわ!! 俺はとっとと屋敷へ帰る!!!お前はそこでもうしばらく反省してろ!!!」 「ごめんなさい!ごめんなさい! あとでいくらでも謝るし、二度とこんなことしないから! だからお願い………、一人にしないでよぉ………。」 嘆願の声は、後半すすり泣きになっていた。 それでもは、掴んだ着物を離そうとはしない。 背中にしがみつかれて身動きの取れない絳攸は、荒々しく息をつく。 そうして自分にひっつく少女を引きはがすと、元いた場所へ戻るように促した。 彼女が軒下へ入ったことを認めた上で、自身もまた軒下まで足を進めると、彼は閉じた傘を無造作にそこらへ放る。 そして軒下の家の壁に身体を預けると、絳攸は俯いたままでいるの身体を引き寄せた。 「冗談を真に受けるな、馬鹿。 こんな状態のお前を放り出してきたら、あとで黎深様に何を言われるかわからんだろうが。」 すぐそばに安心できる人のぬくもりがあって。 来て欲しかった人がすぐそばにいてくれて。 幸せなはずなのに…、なぜかは素直に喜びを感じられなかった。 「叔父様に怒られるから…、だから私を捜しに来たの?」 …肯定されたら、どうしよう。 否定の言葉を聞きたくない気持ちと真実を知りたい気持ちと。 葛藤に決着のつかぬままで絞り出した言葉は、わずかにかすれていた。 対する絳攸の答えは、の問いにほぼ間髪入れずに返ってきた。 心底呆れたと言わんばかりな声音に、わずかな怒りの色をにじませて。 「……俺を本気で怒らせたいのか、お前は!! 黎深様に言われただけで来てるなら、さっきの時点で即刻帰ってるぞ、俺は!! それとも何か?お前の目には俺がそこまで薄情者に見えてるのか!? もしそうなら、一度豆腐の角に頭をぶつけて出直してこいっ!!」 怒鳴り散らす絳攸の腕に、さらに力がこもる。 抱き締められている状態ではあれ、彼の片腕はの頭を抱え込むように回されている。そのため、腕に強い力をこめられると鼻と口が完全に覆われてしまうので、息苦しい。 その上、頭の骨が……………痛かった。 が、腕の力を緩めて欲しい、と絳攸に言おうとした、その矢先。 再び激しい雷鳴と轟音が、辺り一帯を襲った。 (あ…………れ…………?) 激しい轟音、落雷の音がそれほど大きく聞こえない。 音はくぐもった感じでの耳に届いていた。 なんでだろうと、一瞬悩み。 一呼吸後、すぐにその理由に思い当たった。 そして同時に、は自分の馬鹿さ加減を呪った。 否、呪わずにはいられなかった。 頭を抱え込まれている状況にあるの耳は、いわば両手で耳を覆っている状態と同じ。 それゆえに、鮮明に聞こえるはずの音もどこかくぐもって聞こえてしまうわけだ。 「………ごめんなさい……。」 「わかったらおとなしくしてろ。」 一言で一蹴されるが、は嬉しかった。 吐き出された言葉はぶっきらぼうだったが、なんだかんだ言っても心配して探しに来てくれた。 そのどちらの行動に彼の本心があるかは、わかっていたから。 ざあざあざあ....... 空は、まだ泣いている。 哀しげな風情と、ほんの少しだけ穏やかな色をたたえて。 「…………雨、止まないね………。」 「そうだな。」 ふと顔を上げて見れば。 絳攸もまた、険しい表情で空を眺めていた。 天から降り注ぐ天津水は、一向に止む気配を見せない。 「ねぇ……、絳攸。もうしばらくこのままでいてもいい?」 「そんなに風邪を引きたいのか、お前は。」 半ば呆れ口調で言葉を返してくる絳攸に、は笑って言った。 「馬鹿は風邪なんか引かないんでしょ?だから、大丈夫。」 「………何が大丈夫だ、馬鹿。」 「平気だって。山にいた頃は、濡れ鼠になることなんてしょっちゅうだったし。 それでも全然風邪引かなかったんだよ?」 「……勝手にしろ。 言っておくが、風邪を引いたところで俺は一切何もしてやらんからな。」 「わかってる。お仕事の忙しい李侍郎に、そこまで頼めるはずないでしょ。 ……それでも、いいから。もう少しだけ。 まだ完全に頭の整理ついてないし、このままだとまた同じことを繰り返すかもしれない。 完全に精神を落ち着かせてやらないと、またすぐ錯乱しそうなの。 でもこうしてると、すごく落ち着く……。だから、ね?」 の言葉に、絳攸は何も言わない。 普段は心身ともに強靱そうに見える彼女が、実は想像以上に壊れやすい精神の持ち主であることを思い知らされるのは、こんな時だ。 一度破壊寸前まで追い込まれたの心は、予想以上に弱く脆い。 ほんのささいな衝撃が加わるだけで、彼女の心はたやすく砕け散る。 そして、そんな彼女を救ってやりたいと……、思ったことは一度だけではない。 「……………お前の好きにしろ。」 突き放すような物言いだったが、言いたいことはちゃんと相手に伝わったのか。 は絳攸の言葉に対して、嬉しそうに笑顔を浮かべる。 その後、彼女は黙ってギュッと力いっぱいにしがみついてきた。 絳攸は何も言わず、の頭を撫でてやる。 彼女の気が済むまで、とことん付き合ってやろうと。 彼にしては珍しく、そんなことを考えたから。 天から降る清露の粒は 天から地へ突き刺さる雄々しき戦神の槌は まだ、止みそうにもないーーーーーー *後書き… ・散々書き直し、推敲し、ようやく完成。初の彩雲国夢です。 ヒロインの性格を把握するため、彼女の過去をキチンと把握するため。 アーンドなんとなく絳攸が書きたくて仕方なかったため(待て)。 それらの理由から出来上がった、微妙な絳攸夢となりました。 ずいぶんと乙女チックなヒロインになってしまった…。 本当はものすごく腕っ節の強いおてんば娘なのに………(汗)。 ん〜……、どないな感じですかね? できるだけ、絳攸のキャラを崩さないよう頑張ったつもりですが……。 |