遠くの空はすでに真っ赤に染まり、黄昏から夜の刻限が着々と迫りつつあった。
あちこちの家からは、空きっ腹に堪える美味しそうな料理の匂いが漂ってくる。
今は丁度、夕飯時。世間の主婦たちが家族のために夕食を作っている真っ最中の刻だ。


 そしてそれは、ここーー秀麗宅でも例外ではない。
美味しそうな香りが漂ってくる厨房の中では、二人の少女がそれぞれの手に包丁やおたまといった調理道具を持って忙しそうに働いていた。厨房に並べられた食材の数々は、厨房の台の上に小さな山を幾つも作っている。

 秀麗宅に住む住人は彼女を含め、家人である静蘭と家の主である邵可との三人。
そのため、それほど食べる量は多くないだろうと思われるだろうが、それにはキチンと理由がある。

 秀麗宅では週に一回、とても豪華なご馳走が食卓に並ぶ日があるのだ。
それは彼女の料理の味をしめて、定期的に料理を食べに来る藍楸瑛と李絳攸の二人が、様々な料理の材料を持ってやって来るからである。わざわざ食材を持ってきてもらって言うのもなんだが、彼らの持ち込む食材の量はなかなかに多い。
 だが、一見すれば多すぎるように見える食料は、全て食卓についた面々によってあっさりと処理される。なにせ人数もさることながら、客人二人は成人男子。食べる量もそれなりに多いのである。
 作る料理の種類もさることながら、料理の量ははんぱでなく多い。そのため、楸瑛と絳攸と一緒に来るは、見かねていつも秀麗の手伝いをしていた。
仕事が多いので、あまり無駄話をしながら作ってもいられず、必然的に包丁とまな板が奏でるリズミカルな音だけがBGMとなるのが、常時であったのだが……。




「そういえば、前々から聞こうと思ってたんだけど……。」
 鍋の中をかき混ぜるおたまですくった汁物の表面を指で軽くなぞり、微妙な味加減を調節していた秀麗は、前触れもなく唐突にそう切り出してきた。

「ん〜、なあに?」
 一方、話しかけられたは、必要以上に固くて皮の剥きづらいジャガイモと格闘しながら、秀麗の方を振り向くこともしないで答える。


、貴女………絳攸様のこと、好きでしょ?」


 予想だにしていなかった秀麗の言葉に、は驚きで目を見開く。
おまけに驚くそのの反動で、本来切るはずだったジャガイモの代わりに、誤って包丁の刃を自分の指に滑らせてしまった。

「………っっつぅぅっっ…………!!!」

 包丁をまな板の上に置くと、は容赦なく切られた指の付け根を押さえて唸る。

 だが秀麗は彼女のケガなどまるで気にした様子もなく、はっきりと一言。

「図星みたいね、その様子だと。」
にとっては爆弾同然の言葉を投げた。

「なっ、なななななななんでそれを……!」

「別に誰かから聞いた訳じゃないけど、見てればなんとなくわかるもの。」

「嘘……。」

「本当よ。嘘ついても仕方ないでしょ。」
 味が物足りなかったのか、塩の袋に右手を入れた秀麗は、ひとつまみ分の塩を取り出すと鍋の中へと入れる。そうしておたまで中をゆっくりとかき混ぜて、再びおたまに汁をすくうと指を入れて味を見る。


 秀麗が嘘をつくような人間でないことは、も十分に知っている。劉輝はもとより、女性嫌いであるはずの絳攸ですら彼女を好意的な目で見ているのは、彼女の人柄もさることながら、ひとえにその真っ直ぐな気性によるところが大きい。
 異世界から来たにしてみれば、自分の意見をはっきりと言う女性というのはさほど珍しいとは思えないのだが、少なくともこの世界のーーそれも貴族の姫と呼ばれる女性たちには自分の意見をはっきりと言えない者が多い。おそらく政略結婚も珍しくないこの世界では、ハッキリと自分の意志を伝えられる女性はうっとうしいとしか思われないからなのだろう。
 だが秀麗は大貴族の姫君でありながら、育った環境ゆえに自身の意見をきっちりと持ち、必要とあらばハッキリと告げることもできる。慎ましくしとやかな淑女が多い中、異色といえば異色なのだろうが、少なくとも秀麗を取り巻くまわりの皆は、彼女のこの性格を実に好ましく思っていた。


「おっかしいなぁ。私、秀麗ちゃんにだけは気づかれない自信があったのに…。」

「それってどういう意味よ、。」

「そのまんまの意味だけど?」

 思わず鍋の中身をかき回す手を止めてこちらへ視線をよこす秀麗に、はあっけらかんと一言で言ってのけた。
 当然、そんな風に言い返されて面白い気分になる者がいるはずもなく、案の定秀麗は心外だとばかりに表情を苦くする。


 だが。がそう思うのも無理はない。
 秀麗は一時期、彩雲国国王である紫劉輝のもとへ貴妃として仮に嫁いでいたことがある。それは王をなんとか使い物になるようにしてくれ、と国の重臣が一人である霄太師直々の依頼によるものであったのだが、何はともあれ秀麗はいやがおうにも国王と顔見知りになってしまった。
 そしてその際に、あろうことか劉輝はすっかり秀麗に懐いてしま………もとい。
すっかり惚れこんでしまったのである。
 以来、後宮を辞した後も、彼女の家には時折劉輝から謎の贈り物が届くようになった。それはある時は無駄にでかい氷であったり、大量のゆで卵であったりとおおよそ使用用途に困る代物であったのだが、頻繁に贈り物をしてくる彼の意図――もとい、彼の想いはどんな子供であってもわかりそうなものである。
 だが、秀麗は劉輝の想いに全く気づいていないようなのだ。
そんな話を聞けば、ほぼ十人中九人が“秀麗=恋愛激ニブ少女”という認識を持ったとしてもまず無理はないと思われる。





「お邪魔するよ、、秀麗殿。」
 なんとはなしに厨房内に険悪な雰囲気(といってもそれほど大げさなものでもないが)が漂っていたところへ、外から声がかけられる。
 半ば睨み合っていた二人が振り向くと、厨房の入り口には麗しき美貌の貴公子――藍楸瑛が立っていた。細く割った竹と木の実を糸で編み列ねた簾を片手で持ち上げ、たちへ流し目をくれる深い藍玉の瞳には、大人の色気が漂う。纏うのはいつもと変わらぬ武官の官服だが、颯爽とした立ち姿によく似合っている。花街の名花たちが彼を落とすことを至上の目標にして競っているらしいというのも、まあ頷けるというものだ。

「藍将軍。まだぜっんぜんお料理できてないですから、向こうでおとなしく待っててくれませんか?ここは厨房、女の仕事場ですよ。
殿方に土足で立ち入ってもらっては困ります。」
 表面上はニッコリと笑顔を浮かべるだが、裏腹に口から出る言葉は容赦がない。

「おや、それはすまなかった。
女性同士で内緒の話でもしていた最中だったかな。」

「……なんでわかったんですか?」

「単なる勘だよ。」

「……さすが藍将軍。たいした勘ですね。」
呆れたような口調で、秀麗が呟く。

「それほどでもないよ。
で、いったい何の話をしていたのかな、秀麗殿。」

の好きな人について、です。」
「しゅ、秀麗ちゃん!!!!」

 あっさりと答える秀麗に、慌てては駆け寄って口を塞ごうとする。
が、秀麗はそんな彼女の手を押し返しながら、
「どうせ藍将軍も知ってるんじゃない?
私よりもや絳攸様と一緒にいることが多いんだから。」

「……まあ、見ていればわかるからね。」
 二人の行動を面白おかしく見守っていた楸瑛は、苦笑を浮かべて答えた。

 まさかこんな答えが返ってこようとは、想像だにしていなかったは。
包丁とジャガイモをまな板の上に置くと、その場にしゃがみ込んだ。
 無論、その一連の行動は、羞恥のために他ならない。

(…あ、穴があったら今すぐ入って、蓋をしたいっ!!!!)


 だがそんなの心の叫びが秀麗の耳に聞こえるはずもなく、
依然と話題は変わらぬままで続いていた。

「そうすると、案外絳攸様も気づいてるのかもしれませんね。」