「俺が何に気づいてるんだ、秀麗。」 返ってきた声は、目の前にいる楸瑛のものではなかったから、秀麗は驚く。 そして声の聞こえてきた方を振り返ると、噂をすればなんとやら。 厨房の入り口に、噂の彼――李絳攸が立っていた。 多少癖のある髪は、淡い銀色がかった水色。猫の瞳を思わせる切れ長の瞳は、淡く水彩画で描かれたような藤色。花を思わせる儚い色彩を宿すその奥には、深い知性の輝きがみてとれる。無表情に彩られた理知的な容貌は、磨き上げられた宝玉のように美しくもどこか硬い印象を見る者に与える。 だがそれはあくまで公的なごく一部の場面でのこと。逆に私的な場面では、驚くほどに豊かな表情が彼の本来持つ美しさを一層引き立てる。 「おや、絳攸。君も来たのかい。」 面白そうだ、と微笑む楸瑛の態度に、絳攸は顔を歪める。 「お前がここに来るとロクなことをしそうにないからな。」 「信用がないねぇ……、我ながら。」 ぼやくように呟いた楸瑛に、絳攸は容赦ない一言を突きつける。 「日頃のお前を見ていれば、誰でもそう思うに決まってるだろうが。」 そう言って彼は、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべていた。 「で、一体なんの話をしていたんだ。」 話を切り替えると、自然と表情もいつものそれに戻る。 「君が気にするほどの事じゃないよ。」 「そ、そうですよ、絳攸様。気にしないで下さい!」 「…………。」 楸瑛はともかく、秀麗の反応がやや奇妙なものだったので、絳攸は訝しむ。 が、ここで何を言ったところでこれ以上二人が口を割る気はなさそうだったので、それ以上の追求をやめた。 一方、なんとか話を別の所へ持っていこうとしていたは、ふとまな板の上に放りっぱなしになっていたジャガイモへと目を移す。その延長線で包丁へと目を移したところで、包丁の刃がボロボロになっていることに気づいた。 「ねえ、秀麗ちゃん。砥石ない?この包丁、砥がないとダメだわ。」 が手に持った包丁の刃を見た秀麗は、すぐに砥石を探し始める。 「砥石だったら、確かこの辺…………、に………。」 厨房奥の開き戸を開けて中を探ると、すぐに捜し物の姿が目に入った。 「あったあった、はいこれ。 ……って、の手!血だらけじゃない!!」 砥石を受け取ろうと差し出されたの手が、赤く染まっている事に気づいて、秀麗が驚きの声を上げる。 「ああ、これ?さっき切っちゃったみたい。 すぐにくっつくから平気よ、舐めときゃ治るから。」 一方、当の怪我人であるは、ずいぶんと落ち着いたものだ。 彼女にしてみれば、この程度の血など流れたうちに入らない。 以前、狼に脇腹を噛まれたときに比べれば、この程度の傷など問題ではない。 (そんな大怪我と比べること自体、すでに間違っているのだが) 「どれ、見せてご覧? ………もう出血は止まってるし、大事なさそうだ。 でも念のために消毒をしておいた方が…………」 「って……、どうして私の手に口を近づけるんですか!!」 「舐めておけば治ると言ったのは、君だよ?」 「自分で舐めますから、結構です!!!」 そう怒鳴ると、は楸瑛に掴まれていた手を力いっぱい振り払う。 「舐めたくらいで治るような傷か、馬鹿。肉まで切れてるんだぞ!」 振り払ったの腕は、いつの間にかそばまで来ていた絳攸にしっかりと掴まれていた。 「でも骨まで達してないでしょ?なら平気よ。放っておけば、そのうちくっつく。」 彼女の言葉に、秀麗と楸瑛は唖然として言葉を失う。 「…………放っておいて治るような傷じゃないだろうが。」 一方、彼女との付き合いが長い絳攸は、特に驚いている様子はない。おそらくは、返ってきたの反応が予測できる範囲内であったからだろう。 彼は驚く代わりに呆れたように呟くと、懐から布を取り出す。 そうして、切れているの指の付け根に布をきつく縛り付け始めた。 「手慣れてますね、絳攸様。」 意外だ、と言いたそうな口ぶりで訊ねてくる秀麗に、彼はぶっきらぼうな口調で答えを返す。 「無理して剣を振り回しては、 あちこちに切り傷作って帰ってくる馬鹿娘の手当てを、よくしていたからな。」 無論、彼の言う馬鹿娘というのは、のことに他ならない。 呆れたような口ぶりではあったが、語る絳攸の表情は優しい。 「……全く、また切り傷を一つ増やすとはな。 跡が残らなければいいんだが……。」 息を吐きながら呟くと、絳攸は肩をすくめた。 そうしたかと思えば、彼は唐突に持ち上げていたの手を返させる。 一体何がしたいのか、とは首を傾げた。 他の二人も首こそ傾げはしなかったものの、思いは同様だ。 だが、すぐにその思いは彼方へと吹き飛ぶこととなる。 不意に、の指の傷口に柔らかいものが触れた。 それはほんの一瞬のことで、すぐ後には熱い何かに覆われる。 そして何かが傷口に触れたかと思えば、次には鈍い痛みが神経を伝わってくる。 思わず指先を見上げたは、一瞬……自分の目を疑った。 だが、傷口を吸うように舐めあげられて、指先に痛みが走る。 痛みは確かに現実のもの。 甘美とすら感じられる痛みは、間違いなく本物だ。 「…………こ、うゆ、う…………?」 信じられないという思いからか、の口の上を滑る言葉はかすれていた。 彼女の声に、絳攸はようやく顔を上げた。 それと同時にの指もまた、解放される。 つい先ほどまで鮮血で染まっていた指の傷はすっかりと綺麗にされていて、傷口からわずかに桃色の肉が痛々しく覗いていた。 鮮血に濡れていた指は、もうなかった。 あるのは、ところどころに血の跡が残った開いた傷だけ。 まだわずかに傷口から赤いものがにじみ出るが、止まるのも時間の問題だろう。 「とりあえず応急処置だ。邵可様に言って、切り傷に良く薬草をもらって………」 医師よろしく淡々と告げる絳攸の言葉を、完全に耳の外へと聞き流しながら、は先ほどの様子をもう一度ゆっくりと振り返ってみた。 怪我している方の手を引き寄せられて、クルリと返されて。 気がつけば、指は絳攸の口にくわえられていて……。 (……………きゃあぁぁぁぁぁぁ…………!!!) それ以上は思い返すのも恥ずかしくて、強引にその先の映像を頭から押し出した。 冷静にならなくては、と思う気持ちとは裏腹に、胸の鼓動はより一層速くなる。 素知らぬふりをしていようと思えば思うほど、逆に顔へと昇る血の量は増えてしまう。 甘美な痛みは不思議な感覚となって、身体を駆けめぐる。 耳まで真っ赤にしたは、腰がくだけてその場に倒れ込む。 もっともすぐそばにいた絳攸が抱き上げたおかげで、事なきを得たのだが。 「どうした、。顔が赤いぞ?」 彼の言葉になんとか返答しようとするだが、絳攸の顔が近くにあるのと、羞恥と嬉しさとが奇妙に入り混じっているのとで、うまく言葉を発することが出来なかった。 そのため、首を横にブンブン振って、なんでもないと意志表示をする。 「……絳攸。とりあえずの指の手当をしてあげてくれないかな。」 半ば硬直しかけていた楸瑛が、ここでようやく復活した。 未だ硬直したままの秀麗をさりげなく背に庇いつつ、彼は親友――向こうは腐れ縁としか認識していないーーを次の行動へと促してやる。 「言われずともそうするつもりだ。 ………そういえば、お前は武官だったな。武官なら包丁の使い方もできそうだし、の傷の手当てが終わるまで、代わりに秀麗の手伝いをしてやれ。」 そう捨て置くと、絳攸はを抱きかかえたままで厨房を後にした。 「包丁と剣の使い方は、微妙に違うんだけどねぇ。」 呟く楸瑛の言葉は、絳攸には聞こえない。 ************ その後。 厨房には、なんとも言い表しがたい沈黙だけが横たわっていた。 残された二人がなんとか働き出せるようになったのは、彼らが出て行ってから、実に十分も経過した後であったという。 「……人間、意外と自分のこととなると感覚が鈍るものかもしれないね。」 「そうですね………。」 「でも……やっぱりあの二人は、良い組み合わせだと思うよ。 絳攸のためにも、のためにも、ね。」 「羨ましい、ですね……ちょっと。」 「そうだね。」 かたや秀麗は、煮付けの主役になる里芋さんの皮を剥きながら。 かたや楸瑛は、の使っていた包丁を研ぎ石で研ぎながら。 人事よろしく、妙に悟ったような口調でお互いに語りあっていた。 秀麗宅の夕飯が完成するのは、まだほど遠い先の話になりそうだーーー。 *後書き… ・以上、彩雲国物語の夢小説をお届けしました〜!! 長いですね、また無駄に。台詞が多いせいか、行を開け過ぎたせいか(両方)。 怪我した指を舐めて消毒する、というありがちなシチュエイションでしたが、 書いてて妙にエロチックだなぁ…と思ったのは気のせいでしょうか。うん、気のせいだ。 ギャグorほのぼのに仕上げるつもりが、わりと甘くなりました。 まあ、自分的にはこれでよし?? ↓ちょっとしたオマケ有りです..... 「ところで絳攸は、やっぱり邵可様の所に薬草をもらいに行ったんだろうね。」 「そうでしょうけど、それが何か?」 「据え膳食わぬは男の恥……とはよく言ったもので、私ならあのままをお持ち帰りしているところだけどね。折角の機会なんだし、いっそ自分の寝台に連れ込んで………」 げしっ。 「……あら、静蘭。どうしたの?」 唐突に楸瑛の言葉が止まったのを訝しんだ秀麗が顔を上げると、彼女の方へ向かって笑顔を浮かべる静蘭の姿があった。 「さんが怪我をしたと聞きまして、お嬢様一人で料理を作るのも大変でしょう。 下ごしらえをするくらいのお手伝いはさせて頂けませんか?」 「悪いわね、静蘭。藍将軍も、本当はこんなことやらせちゃいけないんだろうけど。 今日だけは思い切ってお願いしちゃうわね。」 そう言って秀麗は、再び里芋の皮むきに戻る。 なぜ唐突に静蘭が現れたのか、どうして楸瑛が突然言葉を止めたのか。 疑問は多いだろうに、彼女は特に追求しようとはしなかった。 秀麗が自分の仕事に戻ったのを見て、静蘭はホッと胸を撫で下ろす。 そして足を踏みつけている楸瑛の方へと視線を移すと、再び笑顔を浮かべた。 ただ違うのは、笑顔の後ろに言うも言われぬ空気が漂っていることだ。 『あまり変なことをお嬢様に吹き込まないで欲しいですね、藍将軍。』 一歩間違えば黒い笑顔にも見えかねない、ギリギリ境界線上の笑みを浮かべた静蘭の瞳は、完全に据わりきっていた。彼の表情に浮かぶ色は、怒りのそれ。 『………す、すまなかった。以後気をつけよう。』 経験上、彼の方がうわてなのだと自覚している楸瑛は、ただ謝罪の言葉のみを口にした。 自分に非があることはわかっていたし、何よりこの元公子様の怒りを買おうものならどんな恐ろしいことになるか。 ……もはや、考えてみるまでもなかった。 |