騒がしいと思って下を覗いてみれば、そこは燦々たる状況だった。 嫌がらせなのか、いい年扱いた官吏数人が秀麗に向かって泥団子を投げている。 もちろん、彼女とてただやられてばかりではない。町にいた頃は、よく近所の子供たちに勉強を教えたり、遊んでやったりしていた秀麗だ。座ってばかりでロクに動かない頭でっかちな官吏たちに、彼女の動きを捉えられるはずもない。 ところが官吏たちが投げていた泥団子は、最悪な事にちょうど回廊の方へと歩いてきていた絳攸に当たってしまったのだ。吏部で侍郎職を勤める絳攸の与えられている位は、正四品上。他の部省の侍郎職を勤める者たちよりも、一つ位が高い。 当然の事ながら官吏たちは真っ青になり、彼らの属する部署の長である蔡尚書もまた顔面蒼白になっていた。 (この光景を見て“自業自得”の典型的な例だと思わずにはいられないのは、私だけ……?) というよりも、あの官吏たちもつくづく暇人だ。 わざわざ泥団子を作って、秀麗を待ち伏せするだけの暇があるなら、仕事しろ。 「……あんたたち、正真正銘の大馬鹿者ね」 気づけば、そう自然と口から言葉が出ていた。 その声量は思いの外大きいものであったから、心中の思いをそのまま吐露したの呟きは、その廊下にいた全ての者の耳にはっきりと届いていたのだった。 (こうなったら、とことんいじめてやろうじゃないの。暇人どもを) 今更隠れる意味もない。そう思ったは、猫を彷彿とさせる実に身軽な動作で、泥まみれになった回廊の床に綺麗に着地した。 「? 」 柱の後ろに隠れていた秀麗は、唐突に現れた友人の姿を見て目を丸くする。 今秀麗がいる場所は、真っ直ぐに道の連なる回廊の柱の後ろーーそれも曲がり角ギリギリ の場所にある柱の側だ。そして曲がり角の先には、蔡尚書と絳攸の姿がある。 それにも関わらず、は自分と礼部の暇人官吏たちとのちょうど間に当たる場所に仁王立ちになっていた。 一体どこからやってくれば、そんな場所を確保できるのやら。 だが、そのことに関して疑問を覚えたのは、何も秀麗だけではなかった。 「い、一体どこから現れたんだ、お前は!!! 」 いい年こいて秀麗に泥団子ぶつけをして楽しんでいたオヤジ官吏の一人が、驚きに目をこれでもかというくらいに見開いて叫ぶ。 「……今、上から降ってきたようにも見えたが……」 呟くのは、蔡尚書――表では秀麗にニコニコした顔を見せているものの、その実彼女の及第を誰よりも快く思っておらず、いろいろと裏で画策してるつもりらしい小悪党である。 黎深が“名家至上主義つるっぱげデブかつ腹黒にも満たない腹灰色尚書”と呼ぶことがあるように、やたらに恰幅の良い体型をしたひょうきんな顔立ちの男――おそらくその顔がまともに真価を発揮するのは高位の者にゴマを擦る時のみだろうーーで、が密かに双剣の餌食にしてやろうと、手に薬煉を…てぐすね引いて待っている標的でもあった。 彼は、秀麗の及第を不正だと決めつけた挙げ句、彼女の後見人である黎深にまで不正の手助けをしたなどと謂われのない難癖をつけ、密かに秀麗・黎深を蹴落とそうと画策している。大切な友人と敬愛する恩人にそんなことを企んでいる時点で、にとって許し難いのに、殊もあろうにこの禿デブは自身の娘との縁談話を絳攸に持ち込んでいるという。 その話を楸瑛から聞いた時、は一瞬で「禿デブ=死刑」の公式を立ち上げ、実際に殺りに行こうとしたくらいだ。もしそこで彼女が飛び出して行っていたなら、禿デブは今ここに五体満足で立ってはいられまい。その時、その場にいた楸瑛に抑えられたからこそ、今蔡尚書は未だ生きていられるのだ。 もっとも、その怒りのはけ口を無くしたが屋敷に帰るなり、屋敷の主に愚痴ったところ、『私があの禿頭に絳攸をやるはずがないだろうに』とあっさり一蹴されたのが、彼女の殺意をかろうじて留めている最大の理由であろうが。 (別に蔡尚書の娘さんに罪はないけど、あんな嫁き遅れ女を絳攸に娶らせるわけにはいかないのよ!!! それなら、まだ私が彼に嫁いだ方がマシよっっ!!!) 心中で沸々と怒りを滾らせながら、は思わず蔡尚書を睨みつけていた。彼女の怒りに応じて、黒曜石の双眸が一瞬で虎目石のそれに変わる。まるで親の仇でも見ているような、ものすごい憎悪と殺気に充ち満ちた双眸は、同時に獲物を見つけた虎の瞳のように圧倒的な威圧感を放っている。 その勢いに圧されて、蔡尚書はひいっと声にならない叫びを漏らし、数歩後退った。 (いっそこの場で喉笛噛み切ってやろうかしら……) 一瞬、心に浮かんだ妙案にしばし心惑わすだが、蔡尚書の傍らに立つ絳攸の淡紫色の双眸を見遣り……すぐに蔡尚書抹殺と彼を睨みつけることをやめた。 絳攸の瞳は、明らかに血気逸る彼女をたしなめていた。一体どうして、一瞬での心に浮かんだ“禿デブ抹殺計画”のことを知ったのか、疑問は尽きないところだが、彼の言うことは正しい。ここで禿デブを抹殺してしまっては、今まで犯してきた罪科を公で裁くことが出来なくなるばかりか、黎深の怒りの矛先を向ける相手がいなくなってしまう(特に後者)。 「私がどこから来たか、ですか? 私はこの屋根の上をつたってきましたよ。 さっきまで私が掃除していた戸部から礼部に来るには、屋根の上をつたってくるのが最短距離なんです。あ、もちろん、王にはちゃんと許可を得てますからご心配なく。 で、下がちょっと騒がしかったので、様子見に降りてきたんですけど」 あっけらかんと言い放つの言葉に、絳攸を除くその場全員が唖然とする。 彼女が着ているのは、女官の着るような裾の長い着物だ。それにも関わらず、屋根の上をつたって外朝を移動するだなんて、想像出来る人間は実に極小だ。そんなことを想像できるのは、と付き合いの長い絳攸と黎深、劉輝や楸瑛、朝廷三師と呼ばれるご老体ズくらいなものだろう。 この場にいるほとんどの者が呆気にとられる中で、桜花色の着物に身を包んだは床にばらまかれた泥団子のなれの果てを足蹴にしながら、一歩また一歩と足を進めていく。 そんな彼女の両手に握られているのは、いつもの双剣ではない。片手には水の入った桶、もう片方の手には長い棒の先にくるくると編み込まれた布紐を幾筋も垂らした不思議な様相の器具――現代で言うモップだーーを持っている。 「ところで、蔡尚書。自分で蒔いた種は自分で刈り取れって言葉、ご存知ですか? 」 「は?」 「自分でしたことは最後まで責任をもってやり遂げろ、てことです。なので………」 は無理して作ったのがよくわかる笑顔を蔡尚書に向けて、その一方で持っていた桶を床に置き、空いた手でいい年こいて泥遊びするオヤジ官吏たちを一通り指差して回る。 「当然のことながら、あそこにいる連中にこの廊下の掃除をさせる許可、頂けますよね? 」 そうして、有無を言わさぬ口調でいけしゃーしゃーと言い放つ 「なっ…! 」 「どういうことだ! 」 「おいっ! 」 そして、指差された官吏たちが上げた抗議の声は見事に唱和した。 「だってそうでしょ? 新しく入ってきた進士たちだって頑張って仕事をしている時に、気に食わない相手に向かって泥団子作って投げるだけの暇がある人なんだし。 そうですよね? やりたくても仕事の回ってこない、窓際官吏の皆様方? 」 「だ、誰が窓際官吏だ! 」 「でたらめを言うな! 」 オヤジ官吏たちが抗議するものの、はそれを気にもとめる様子はない。 「よく言いますよね。人間図星を指されると、怒り出すって。 第一、本来なら新しく入ってきた進士たちを優しく厳しく導くのが、先輩の役目でしょうに、それを……家で散々奥さんに尻に敷かれて、仕事場じゃ役立たずだと馬鹿にされてる腹いせに、何の罪もない進士に子供顔負けの嫌がらせをしてるんでしょ。それなら自分たちが汚した床の後始末をするくらいの時間くらい、有り余ってありますよね? 」 懐から泥投げをしていた官吏たちの人数分の雑巾を取り出しながら、はニッコリと彼らに微笑みかける。もっともその瞳は完全に据わりきっていたが。 「貴様! 官吏でもない端女が、我々官吏を侮辱しても良いと思っているのか!! 掃除は端女の仕事だろう! さっさと掃除をせんか!!!」 「誰がいつ、あんたたちの端女になりましたか? ろくに仕事もしてないと、頭の回りもずいぶんと遅くなるんですね。 そもそも官吏が偉いって、誰が決めたんですか? それに、仮に官吏が偉かったとしても、貴方達のような窓際官吏の偉さなんて、たかが知れてるってものだわ。 第一……、官吏でもないって言ったけれど、私だってなろうと思えばなれるわよ? 現に左右羽林軍の黒・白大将軍や藍将軍からは、武官にならないかって勧誘されてるし。 もっとも私の後見人をして下さってるおじ様との約束があるから、武官になるつもりはないけどね。その気になれば、あなた達よりも高官になることくらい、できるわ」 途中から敬語も面倒になったのか、いつもと同じ口調で喋るを咎める者はいない。 否、咎めようとしないか、咎められないかのどちらかだ。 言われている官吏たちはといえば、再び虎目石を彷彿とさせる虎の目をしているの眼光に圧されて何も言えずに、ただ悔しそうな表情を浮かべているだけ。傍観している秀麗や絳攸には、わざわざ咎めるつもりもない。 「そこで何をしている」 聞こえてきた声に振り向くと、そこにいたのは新人いびりで有名な魯官吏だった。 彼が姿を現すと、先ほどまでに言い籠められていた官吏たちは、傍目からもわかるようなほどに表情を変えた。 「「「魯官吏! 」」」 彼らの思いは、許されるのなら魯管理の下に駆け寄りたい! であろう。きっと。 「紅進士。それで休んでいる暇があるのか。それほど暇ならば、ここの回廊の掃除は君に任せることにしよう。朝礼までに清めておくように」 「お待ち下さい、魯官吏。 もともと掃除は私の仕事です。忙しい進士の手を煩わせる必要などありません。 ………もっとも、暇で暇で仕方なくて、新人いびりに勢をを出してる窓際官吏には是非、自分の尻拭いくらいは自分でして頂きたいので、お借りしますけど」 「ならん。回廊の掃除は、紅進士に……」 「お言葉ですが、魯官吏。人の仕事を勝手に取り上げた挙げ句、戸部に書翰を届けなければならない紅進士に掃除を頼むなんて、やってることがとんちんかんですよ。 黄尚書が時間に厳しいことはご存じでしょう? それともただでさえ忙しい戸部の皆様の手を煩わせてまで、紅進士にここの掃除をさせるおつもりですか? それなら早速、私は黄尚書にその旨をお伝えしてきますよ」 「………好きにするがいい。紅進士は早く書翰を戸部に届けてくるように」 魯官吏は表情も変えぬまま、の申請を受け入れた。 そのことに官吏たちは不満があるようだったが、魯官吏に一瞥を向けられては何も言えず、黙って拝跪するしかなかった。 そうして魯官吏は、蔡尚書と絳攸に一礼するとその場を立ち去っていく。それに合わせるように、いつの間にか周りに来ていた野次馬連中や蔡尚書、絳攸もその場を立ち去っていった。 後に残されたのは、呆然とする秀麗と不満気な表情を一様に浮かべる官吏たち、そして妙に嬉しそうな顔をしているだけだ。 |