「さあ、そこの官吏さん方。早速この布を持って、床を拭いて下さいね。 泥団子を投げて遊んだのはあなた達なんですから、責任を持って綺麗にしてください。文句を言いたいなら、私の意見を聞き入れて下さった魯官吏か、あるいは後先考えずに泥団子を投げまくった数分前の自分に言って下さいね」 水の入った桶の中に人数分の雑巾を入れて、ニッコリと目だけ笑っていない笑みを浮かべたは、桶を官吏たちの前に突き出した。 官吏たちは最初誰もそれを取ろうとしなかったが、彼女が空いている方の左手を腰に差した剣の柄にかけた途端、我先にと争うように桶を取りに来てさっさと汚れた床を拭きに入る。 「じゃあ、頑張って拭きましょうね。 少しでも手を休めたり、人様の悪口が聞こえた場合には、容赦なく剣を抜きますから」 きっちりと釘を刺しておいてから、は床掃除をしている官吏たちを放っておく。 無論、彼らがサボろうものなら手加減なしで剣を振るうことも忘れてはいない。 は床を拭く官吏たちを尻目に、秀麗が回廊の端に置いておいた書翰を手に取る。 そうして、半ば呆然としている秀麗の手に書翰をドサドサッと勢いよく乗せてやった。 「……っ! 、私も……! 」 「だーめ。秀麗ちゃんには、やるべきことがあるでしょ? これはそこの阿呆どもにやらせておくから、心配しないで行ってきてよね」 「………」 目元も綻ばせてきっちりと笑顔を浮かべるの言葉に、秀麗は何も言わない。 何も言わず、ただ唇を噛みしめて俯いている。 「わかってる。わかってるんだけど……、やっぱり悔しいの。 私という個人の人格も、女である事実の前には努力も何もかも掻き消されてしまう」 「うん…」 彼女の気持ちは、自身にも痛いほどよく分かった。 今でこそこうして官吏連中にも一言言えるだけの影響力を持っているが、外朝で特別に六部省の雑用・掃除を受けることになったその当初は、散々に嫌みを言われたものだ。 曰く、女は家にいろ・女は子供を産んでりゃいい・女風情に何が出来る、その他エトセトラエトセトラ。 結局、“女に武芸が出来るもんか!”とケチをつけてきた羽林軍の下級兵士には、“文句があるやつはかかってこい!”と挑発した挙げ句、彼らがまいったというまで散々ボコボコにした上、白大将軍と一戦交えて、自身の実力を余すことなく見せつけてやり。六部省の文官連中には、主婦顔負けの掃除能力と書類整理、身軽さをフルに生かした手早い書翰運びなどで文句を言わせないようにしたのである。 もっとも文官連中は、羽林軍の兵士をことごとくボコしたの武術に恐れ入って、その話が流れてからは何も言わなくなってしまったのだが(意気地なしどもが)。 「あのね、秀麗ちゃん。一つだけ言わせてね。 人格そのものを否定された時には、逆に相手も人間じゃないと思った方が良いよ。 秀麗ちゃんは官吏に、それも上位三位で及第できるだけの実力があるんだから、胸張って良いの。貴女の及第に“不正したんだ”とか“女に何が出来る”とか“女が官吏になってどうすんだよ”とか言ってる連中は、みんな貴女よりも頭の出来が悪くて、ひがんでるだけの負け犬なんだから。負け犬の遠吠えなんて気にする必要ないの。 そもそも人間以下…いえいえ禽獣以下の代物なんだから、そんな人間外の言葉なんて、右耳から左耳に流して通してやればいいのよ。 いちいち気にする必要なんてないし、気にするだけ無駄だから」 は言いながら、秀麗の進士服についてしまった泥を払ってやる。すでに乾いていた泥は、軽く手で払うだけでもすぐに落ちていく。 「貴女はいつも通り、自分が出来ることだけをすればいいと思うわ。 努力した分は必ず周りが認めてくれるから」 「…、私、今とても幸せなの。 お姫様としてかしづかれてた時よりも、ずっと。ずっと……。 私が目指してたもの、私が手に入れたかったものの出発点を確かに掴み取ったんだもの。 手に入らなかった時のことを考えれば、辛いなんて……」 ポツリポツリと独白にも似た呟きが漏れるごとに、秀麗の持つ書翰の山がわずかに震える。どんなことがあっても真っ直ぐに目の前だけを見据え、自身の望みのために努力は惜しまない秀麗だが、人格ごと否定されたのは多少堪えたのだろう。 それでも秀麗は、けして泣こうとはしない。その姿は、どれだけ踏みにじられようと咲き続ける野の花のよう。名前もないその花々は、人々に愛でられる美しいだけの花よりもたくましく、強く生き続ける。 誇り高く、高みだけを見据えるその姿は、のよく知る人たちとよく似ている。 間違いなく、彼女は大物になるだろう。それも遠い未来まで史書で名を紡がれる程に。 そんな彼女と知り合えたこと、友人になれたことをは誇りに思う。 女性の持つ芯の強さと母性と優しさを兼ね備えた秀麗は、にとって自慢の友人であり、同時に憧憬の対象でもあった。 「秀麗ちゃんは、自分に厳しいから。でもね、厳しすぎるのも考えものだよ? 今いるのは戦場だから、泣いても良いなんて言えない。 だけど、泣くことは悪いことじゃない。 だから泣いてもいいと思える時間ができたら…、思いっきり泣いちゃいなさいよ。 苦しくても辛くても泣かないで頑張ってきてもね、女の子なんだから。 泣いて良い時は必ずあるし、秀麗ちゃんには支えてくれる人がいるじゃない」 (そう……、今も柱の後ろに隠れてる最強公子様とか、飛び出していきそうなところを必死で取り抑えられてる王様とか……ね) 静蘭が隠れている柱の方へとちらりと目線を遣り、そして劉輝と楸瑛がいるであろう部屋の方へとちらりと見遣った後で、は再び視線を秀麗に戻した。 「……も、前にこんな目にあったのね? その時、泣いた? 絳攸様の前で? 」 だいぶ元の調子が戻ってきているのか、秀麗はさりげなく余計な一言を付け足した。 付け足された一言に複雑な面持ちになるだが、全く否定は出来なかったので敢えてそのことについては触れなかった。 「私は泣くよりも“怒り”に転換して、相手を撲滅する方が性に合ってるから。 逆に相手をボコボコにし過ぎて、宋師に『やり過ぎだ!』って怒られて、謹慎させられた。 おじ様は『よくやった』って褒めてくれたけど、絳攸は呆れてたね。完全に」 「宋太傅と絳攸様はともかく、貴女のおじ様って相当変わった人なのね……」 秀麗の呟きは、ごく誰でも言いたくなるようなものだったのだが、そのおじ様が他ならぬ彼女の叔父であることを知っているは、腹に力を入れて必死で笑いを堪えた。 「それにね。貴女を女だからって、受け入れないような度量の狭い連中は、どうせ一生かかっても下っ端止まりなんだし。いっそ近い将来、そいつらの上官になって今いびられてる分をいびり返したっていいのよ? 弱みを握って脅すっていう手もあるし。 現に進士時代に散々官吏の弱みを掴んで、挙げ句の果てに昔いびられた分を、今になってじっくりと返してる人もいるしね」 「…………いるんだ、そんな人……」 と話していることでだいぶ落ち着いてきたらしい秀麗は、感心したような呆れたような口調で呟いた。 (実は、貴女の叔父様なんですけどね……) よほどばらしてやりたいと思ったが、そうすると後で黎深の反応が怖い。 『姪の前では素敵な叔父様でありたい』と願い続ける彼の意志を尊重する意味もあって、は喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。 「うみゅ。そういうわけだから、周りの雑音は無視してOK。大丈夫、龍蓮の笛の音にも耐えられた貴女だもの、この程度の悪態を無視するぐらい簡単よ、きっと。 それでもやりきれなかったり、むかついたり、『こいつ殺してやろうか』とか思った時には、いつでも私に愚痴って良いからね。むしろ貴女のお望み通りに標的殺ってくるくらいのこと、かる〜く引き受けるから♪」 が得意げに胸を張って言い張れば、秀麗は苦笑いを漏らす。 「………うん。暗殺のお願いは出すつもり無いけど、愚痴は聞いてもらえたらいいかも」 「謙虚ね、秀麗ちゃんは」 心底感心したように呟く。 (いや、謙虚とかそう言う問題じゃなくて……) そんな彼女に秀麗は心の中でだけ、つっこみを入れた。 ********************* は知った人間の気配のある部屋の前まで近づくと、躊躇いもなくその扉を開いた。 中にいたのは、やや落ち込みモードの劉輝と表面上はいつもと変わらない藍楸瑛の二人。 「私、余計なことしちゃいましたかね? 」 が悪びれもなく尋ねると、答えを返してくれたのは藍将軍だった。 「本当なら手を出すべきではなかったと思うよ、私は。 でもが手を差し伸べたことで、秀麗殿の印象が悪くなることはないと思うけどね。 君は高位の官吏でもないし、権力で彼女を守ったことにはならない。 同じ女性として、は手をこまねいて見ていられなかったというだけだからね」 そして楸瑛は、の方へと歩み寄ると優しく頭を撫でてやる。 実はこうして彼に撫でられるのも、は嫌いではない。 末っ子の劉輝や兄弟のいない絳攸とは違い、弟を持つ兄でもある楸瑛だからか。無条件に甘えたくなってしまう雰囲気をどことなく持っているのだ。 「………余も女に生まれたかったぞ……」 一方の劉輝は、よほど自分で秀麗を助けに行けなかったのが堪えているのか。 ブツブツととんでもなくとんちんかんなことを呟いていた。 「何馬鹿なこといってんの、劉輝ってば。しっかりしなさいって!! 第一、女同士じゃ秀麗ちゃんと結婚なんてできないんだから…… 」 そんな弱腰の劉輝の背を、は景気づけでもするようにはたく。 「まあ、全くできないとも言えないかもしれないけれど……」 「そこ!変な突っ込み入れない!! 」 「…………何を阿呆なやり取りをしてるんだ、お前たちは」 呆れたような声音は、扉の外からやって来た。 見れば、ちょうど絳攸が部屋の中に入ってくるところだった。 「……? 」 はふと、違和感を覚えた。いつものように呆れたような色を顔に浮かばせている絳攸だが、どことなく声音にいつもの覇気が感じられなかった。 そう思ってよくよく見てみれば、なんとはなしに表情に翳りが落ちている。 (さては……あの禿デブがなんか余計なことを吹き込んだわね……!!!!) 今度会った時には、やっぱり腕の一本でも斬り落としてやろうかしら。 いやそれとも、あの口で物言えないように針と糸で口を縫い閉じる方がいいか。 「はいはい、気持ちはわかるけどね。、そこで恐ろしいことを考えないように」 「やだなぁ、藍将軍。私みたいなか弱い乙女が、禿デブの腕を斬り落としてやろうとか、口を針と糸で縫い合わせて二度と喋れないようにしてやるなんて、できっこないですよ〜♪」 ケラケラと笑いながら言うだが、彼女がこんな態度をとるのは相当頭に血が昇っている時だけだ。しかも、その瞳が完全に獲物を狙う肉食獣のそれと化している。 (いや、絶対にならやりかねない……) 楸瑛は改めてそう感じ取ると、さりげなく隣にいる劉輝に目配せした。 すると、向こうも彼と同じことを考えていたのか。楸瑛の意図をすんなりと汲み取ってくれる。 「………、余からも頼む。 お願いだから、今回の一件に決着がつくまであの小物には手を出さないで欲しい…」 「………劉輝がそこまで言うなら、諦めるか……(チッ、命拾いしたな、禿デブ)」 は心底残念そうに呟き、そのついでとばかりに舌打ちまでしていた。 彼女のはしたない行動に、いつもなら絳攸が苦言を呈してくるのだが……。 彼は何も言わなかった。いや、そもそも思考の世界に入ってしまっていて、たちのやり取りにはそれほど気を配っていないようだった。 「………絳攸、大丈夫? 」 相当重症らしいーーおそらくは黎深絡みの悩みなのだろうーー絳攸の様子に、さすがのもおちゃらけている場合ではなさそうだと、気を引き締める。 「あ、ああ……」 返ってくる絳攸の言葉は、どこか上の空にすら聞こえる。 「……全然大丈夫じゃないじゃないの…」 様子のおかしい絳攸の姿を見ていたは、やっぱりあのくそ禿の口ぐらいは縫い合わせてやった方が良いんじゃないかと、こっそりと思い直した。 それと同時に、やつと会う機会があったら今度こそ叩きのめしてやらねば…と固く心に決心するのであった。 *長い後書き… ・三巻「花は紫宮に咲く」79〜88頁辺りに沿って、書きたい事を好き放題書いたお話。 珍しくもネタを思い立って、ほぼ一日かかりきりで書き上げた作品です。 敢えて言うなら秀麗夢。女の子同士の友情物語になりました。 その上、なんとも中途半端な終わり方でスミマセン。でもこれ以上書くと、そのまま連載ものになりそうなので、敢えてこの辺でやめました。 でも三巻の話だと、まだ二カ所ほど突っつきたい部分があるんですよね。 禿デブを追い詰める所とか、最初の方で秀麗に対して暴言吐きまくってた野郎どもに裏から天誅加えてやりたいな…とか(コラ)。 どうにもヒロインが腹黒化してるような気もしますが、彼女は基本的に嫌い抜いてる人間には、とことん非情になれる子です。 特に自分の大事な人に手を出す連中には、牙を剥き出します。 なんだか変な所で、黎深に似てきているような気が………(汗)。 |