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(寒い………)


 足下から忍び寄ってくる、冷たい空気。
触れればたちまち肌が凍り付きそうなほど、その空気は冷たくて鋭い。
 冷気をできるだけ肌で感じないようにと、布団の中で丸ってみた。冷気が中に入り込んでこないようにと、布団を巻き込んで蓑虫のようにくるまってもみた。
それでも冷気は、らりさに向かって魔の手を伸ばすことをやめようとしない。
 すっかり冷え切った両手は、もはや感覚すらなく。どれほど強く擦り合わせても、一生懸命吐く息で暖めようとしても、一向にあたたまる気配はない。

 彩雲国の冬を司る冬将軍は、全く雪の降らないあたたかな南国生まれのらりさにとって、想像以上に厳しく辛く、恐ろしい存在であった。
 だが、すでにここへ来て三年もの月日が経とうとしているにも関わらず、彼女は今までそのことに全く気づかなかったのである。

 否、気づけなかったと言うべきか。

 なぜなら彼女は、彩雲国に来てから“独り寝”というものをほとんどしていなかった為、いつも寝るとき誰かが側にいるのが当然となっていたからだ。
こちらに来て一年目の頃は、彼女の保護者と兄を兼任していた劉輝と一緒に。
二年目は山ごもりの修行中だったが、あの頃は隙間風の入ってこない洞窟の奥で、よく一緒に行動していた虎たちと一緒に寝ていた。

 そうして今年はといえば、紅黎深に引き取られて本日までに至る。
 無論、らりさが世話になっている家は大変なお金持ちなので、防寒対策はそれなりにすることが出来た。何枚も何枚も布団を重ね、着る寝間着もできるだけ空気を閉じこめられるようにと裏地までつけてもらった。

 だけれども。
 やはり人肌(虎の場合は天然毛皮)に勝る防寒具は、存在しない。


(どうしよう………、寒くて眠れない……)

 この家に引き取られて、らりさはまだ日が浅い。
 それでも家の主をはじめとしたこの屋敷の者たちは、皆彼女によくしてくれる。
 だけど逆に、添い寝をお願いできるほどに親しい間柄の人間はいなかった。

「突然、一緒に寝て…って言っても、みんな困るよね……。
それに一緒に寝てってお願いできる人は、すごく仲の良い人じゃないと駄目って、茶家のおじい様も言ってたし……」
 進退窮まったらりさは、頭まですっぽりと布団の中に入れて丸くなった。
ギュッと身体を硬くしてどうにか暖を取ろうとするけれど、やはり寒さは一向に和らぐことを知らない。

(こうなったら………)

 ふと、思いついて。
 らりさは布団の中からもぞもぞと抜け出すと、被っていた布団の一枚を持って立ち上がる。そして、持っていた布団を顔の部分を除く全身にひっかけて、完全寒さ対策を施した。

(馬小屋にでも行って、馬さんたちと一緒に寝よう)

 ひどくぶっ飛んだ思考だが、少なくとも今のらりさには一番の名案に感じられた。
だから、彼女は何の躊躇いもなく、その案を採用することに決めたのだ。
もっとも虎と一緒に寝ることに何の違和感も感じないのだから、馬と一緒に寝ることに違和感を感じなくても仕方がない。


 そうしてらりさは、部屋から外へと足を踏み出した。




 だが………。
 部屋の外は、当然のことながら部屋の中よりもさらに寒かった。



「……うぅ……、寒い……」

 身体に被った布団を巻き込みながら、らりさは一歩一歩ゆっくりと歩いていく。
その身体は寒さに震え、閉じているはずの口の中からカチカチと妙な音が聞こえてくる。閉じてある口内の上下の歯同士は、まるで彼女の全身の震えを象徴するように、絶え間なく噛み合っていたのだ。
 またそれとは別に、カタカタと奇妙な音も聞こえてきていた。その音は彼女の歯が出す音よりもなお奇妙で、時折カチャンと、まるで金属製の物がたてる音がする。
 それもそのはず。この音の正体は、らりさが腰に帯びている双剣の唾鳴りだ。

『例え凍え死ぬほど寒い極寒の地だろうと、脳みそが煮えたぎりそうに熱い南の地であろうとも、最低限己の身を守れる準備は怠ってはならない』
 彼女に剣を教えている師にして、彩雲国で右に出る者のいない剣の達人である宋太傅がよく口にする言葉。それに従って、らりさはどこへ行くときも常に双剣を身につけていた。
 いつどこでならず者に出くわしても大丈夫なように。どんな場所でも、自分の出せる力全てをもって戦えるように。

 ――――守りたいと思う人を、必ず守れるように………


 太陽の光が差さない夜の時間は、冬将軍の力がより一層世界に行き渡る時間でもある。
 太陽が大地に与えた熱もすっかり使い果たされ、一切のあたかみを持たない月が世界を支配する時間は、冬将軍が呼ぶ風の吐息によって最も気温が下がる。
 かの将軍の吐息の前には、無機物も有機物も関係ない。どちらであろうとも、容赦なく昼間に溜めておいたあたたかみを全て奪われてしまう。
 基本的に冬将軍は、情け容赦のない冷酷な男性のそれになぞらえられる。その理由の一つにはきっと、彼の送り込む酷冷な吐息にも因があるのだろう。

 冷たい外気にさらされて、床も柱も何もかもがひんやりと冷たくなっている。
 室内用の沓を吐いていてもなお、ひんやりとした床の冷たさが伝わってくるほどだから、いかに床の温度が冷たく下がっているのか。予想できるというものだ。

(馬小屋はこっちの方……、そろそろ庭に出た方がいいかな)

 空に浮かぶ月は、細い三日月。無数にある星の光も、暗がりを眩く照らす炎の代わりにはならない。常人ならぼんやりとしか先が見えない闇の中だというのに、らりさはそれを全く気にかけていなかった。
 否、気にかける必要がなかったのだ。
 山ごもりで鍛えた野生の勘と夜目の良さは、山を下りて一年以上経つ今でも健在。
このくらいの闇の中なら、昼間と同じくらいにハッキリと周囲を見ることが出来る。

 らりさは身体の向きをクルリと変えて、庭に足を下ろそうとした。


 声がしたのは、ちょうどそのときだった。


「そこで何をしているんだ、お前は」

 誰もいるはずのないと思っていたところで、急に声をかけられて、らりさは反射的に片手を腰の剣へと伸ばした。そうして警戒を怠らないまま、ゆっくりと後ろを振り返る。

 最初に目に入ったのは、やや癖のある硬めの髪。かすかに銀色がかった薄水色の色彩に彩られるその髪は、暗闇の中でもわずかな光に照り映える。深い英知の輝きを湛えた瞳は、初夏に蝶にも似た可愛らしい形の花を咲かせる藤の宿す淡い紫。
研磨された宝石を彷彿とさせる整った容貌、理知的とすら言って良い美貌は、硬い無表情で覆われている。

「…………あ、…絳攸様…」
 一瞬、条件反射のように身を翻しかけるらりさだが、なんとかこの場に留まることに成功する。未だに過去のトラウマを引きずっているせいで、自分の兄に近い年頃の男性に無意識下の拒絶反応を示しまう彼女が、この青年に慣れるまでにはおおよそ一月の日にちを要した。会えばすぐに逃げ出してしまっていた当初に比べれば、こうして話しかけることができるようになったことは、たいへんな進歩である。
 しかしまだ、完全に心は許しきれていないのか。どことなく他人行儀な態度になってしまうことは否めない。

「様付けで呼ぶなと、何度言ったら分かる。
俺もお前も黎深様に引き取られてきた身。境遇は、さほど変わらんだろうが」
 本人は別に怒っているつもりはないのだが、らりさには非常に不機嫌なように見えるらしい。事実、他の人間から見ても刺々しく感じられる態度をとっているように見えるのだから、まして野性的な勘の鋭い彼女なら彼の心中を察して当然かもしれない。


(……まだ、俺を警戒しているワケか……)

 絳攸は、らりさの抱えるトラウマについて黎深から聞いて知っていた。
なんでも実の兄に陵辱されかけたという話だが、その当時の彼女はまだ十才だ。にも関わらず、犯行に及ぼうとしたとは狂気の沙汰としか思えない。なまじっか相手が血の繋がった相手だったため、彼女のトラウマが根深いものになってしまったのは無理もないことだと思うし、同情の余地は十分にある。
 だがそうとわかってはいても、こうもあからさまに怯えられると面白くない。
というよりも、そんな狂気人間と同じ風に見られていることが、絳攸にとっては非常に不愉快なのだ。
 進士及第の後、散々ひどい目に遭ったことで(彼曰く、女の本性を知ったとのことだが)以来、極度の女性嫌いに陥った彼にしてみれば、『楸瑛も足元に及ばん、イカれた色好み野郎と一緒にするな!』と憤慨したい思いで一杯なのである。

 さらにあの黎深が、『自分にだけ彼女が懐いてくれないものだから、私や家人たちに妬いてるだけだろう。だからといって、やり場のない怒りの矛先を罪のないあの子に向けるのはやめなさい』などと、時折忠告してくるものだからいけない。
 絳攸にしてみれば、大事な人をらりさに取られたようで更に面白くないのだ。
子供っぽい焼き餅といえばそこまでだが、彼にとって黎深の存在はそれだけ大きい。



「…………ごめんなさい。それで………あの、絳攸……様はどちらに? 」

「……っ!…いや、その………どこでもお前には関係ないだろう! 」
 いきなり痛いところを突かれて、絳攸は思わず声を荒げてしまう。
まさか黎深に頼まれて、らりさの様子を見に行く途中だったなどと言えるはずもない。
別段、言ったところで構わないだろうに、彼はなんとなく照れくさくて言えなかったのだ。

「あ、そうですね……。……ごめんなさい」
 らりさはわずかに身体をピクリと震わせ、頭を下げる。

「………すまない、少し言い過ぎた」
 絳攸としても怒鳴るつもりはなかったのに怒鳴ってしまい、彼女を不必要に怖がらせてしまったことには、罪悪感を感じていたから。素直に謝罪の言葉を口にする。
 そうして彼は、ほとんど無意識のうちに項垂れているらりさの頭に手を伸ばした。
絳攸の手がらりさの頭に触れた瞬間、彼女は身体を震わせた。

 触れられることに、明らかに怯えている。

 思わず手を離そうと考えた絳攸だが、思考とは逆に手は離れなかった。
滑りの良いらりさの髪は、まるで毛並みの良い猫を撫でているように心地よい。
手に伝わる心地い感触に気を取られて、彼は手を離すタイミングを完全に逃してしまう。

 だが、らりさは逃げない。
 前に一度、同じように頭を撫でようとした時には、すぐに逃げ出したのに。

 今逃げようとしないのは、彼女自身の意志の力に他ならない。
 身体は拒否反応を起こしていても、それを意志の力で留めようと努力している。


(こいつもこいつなりに、頑張っているんだ…………)



 遠い昔。自分にも似たような時があった。
もしあのとき、黎深が無理矢理に手を引いてくれなかったなら、どうなっていたか。
少なくとも、今の自分――李絳攸という人間はここにいなかっただろう。


 嫌がる自分の意志を半ば無視してでも、あの人は手を引いてくれた。

 払いのけようとした手を、ずっと離さないでいてくれた。

 だからこそ、今があるーーーー




 変化とは、一種の革命であり。
 革命とは、犠牲無くして成り立つことはない。

 定められた運命を覆したのなら。
 定められていたはずの運命は、消滅する。

 変化を求めるのなら。

 その先にある数片の崩壊を恐れてはいけない。





「俺はお前に何もしない。だから……、そんなに怯えるな」
 彼女の頭を撫でつける手は止めないまま、出来るだけ怯えさせないように、努めて穏やかな声を出すように心掛けてみれば。自分でも信じられないくらい優しい声が出ていた。

 その言葉に、らりさは顔を上げる。
闇をも圧倒するほどの漆黒。鮮やかにして、どこまでも静かな闇。
彼女の双眸に宿る光は、穏やかに凪いでいた。

(……こんなに、真っ直ぐで綺麗な瞳をしているのに……)

 初めて会ったその時は、まるで人間に怯える野生獣のような目をしていた。
 光彩が細長く伸び、極限まで見開かれた真っ黒な瞳。
 まるで飢えた虎を彷彿とさせる鋭い眼光と、どこか悲しげな眼差しと。
 相反するはずの二つの意志が同時に存在する彼女の瞳に、違和感を感じた事をよく覚えている。

 本当は寂しくて仕方ないのに、誰も信用できないから。
 必要以上に気を張りつめて、自分を極限まで追い込んで。
 調和を少しでも乱せば、全てが壊れてしまう。
 そんな危うささえ漂っていた、傷だらけの虎の子。

 だからか。
 つい手を差し伸べたくなってしまうのは。

 放っておけば、このまま儚く消えてしまいそうな脆さすらあったから。
 放っておくことなど、出来るはずもなかった。