絳攸の言葉に、はしばらく目を瞬かせていた。

 が、ようやく彼の言ったことを理解したのか。

「はい……」
 胸を撫で下ろし、安堵に表情を崩して。
ぎこちなく、それでもは笑った。



 優しい人だと、知っていた。
 自分を引き取ってくれたおじ様を見る目が、とても優しかったから。
 藤紫の、蝶形の花をつける藤の花と同じ。
 綺麗な紫の瞳は、どこまでも真っ直ぐに澄んでいたから。

 だけど初めて会った時、伸ばしてくれた手を払いのけてしまった。
 怒られて当然なのに、二度と手を伸ばしてくれなくて当然なのに。
 なのにこの人は、何度も手を差し伸べようとしてくれた。



「……ようやく笑ったな」
 口元を緩めて、絳攸は微笑を浮かべた。

「………? 」
 が、は言葉の意味がイマイチよくわからなかったのか、首をかしげる。
その様は小首を傾げる子猫の仕草そのもので。
遅ればせながら、絳攸は彼女が“虎姫”と呼ばれていたことを思い出した。
そして黎深の前では、ゴロゴロと喉を鳴らして甘える猫のような仕草を見せていたことも。

 警戒心の強い猫は、本当に心を許した人間にしか懐かない。
 その警戒心の強い猫の子が、目の前で笑った。
 それはとりもなおさず、彼女が心を許してくれた証拠でもある。

(……本当に、どうして黎深様は心の中まで読めてしまうんだか………)

 皆に懐く子猫が、自分にだけ懐いてくれなかったのが、ほんの少し寂しかった。
寂しかったからこそ、こうして懐いてくれたことが、ひどく嬉しい。


「お前が俺の前で笑ったのは、今が初めてだぞ」
 そう言って笑う絳攸の表情は、ひどく優しい。優しくて、あたたかい。

「……私のこと、嫌いだったんじゃなかったんですか? 」

 いつもいつも手を差し伸べてくれてたけれど。
 勇気を出して話しかけても、返ってくるのはいつも怒ったような声音で。

 嫌われてるんだと、思ってた。

 だって差し伸べられた手を何度も拒んだから。
 何度も逃げてしまったから。

 だから彼が怒るのは、当然のこと。

 それはわかっていたけれど、それでも、悲しかった。
 嫌われるようなことをしたのが自分だとわかっていても。


 嫌われてるのが、すごく悲しかったーーーー


 だって、この人は………。
 王宮で優しくしてくれた、綺麗な王様と同じくらい。
 優しくて、あったかい人だから。



「誰が、いつそんなことを言った? 」
 予期もしないことを言われて、絳攸は思わず眉を顰めた。

「だっていつも、いつも怒ってて……」
 
「………いや、それはだな……」
 の言葉に、絳攸は言葉を濁すことを余儀なくされる。
まさか自分にだけ懐いてくれないのが寂しくて、つい八つ当たり同然の態度を取っていたなどとは、口が裂けても言えない。

「それに、私の名前、一度も呼んでくれませんでした…」
 しゅんと項垂れる少女の言葉に、絳攸は今更ながらにそのことを思い出した。

「たまたま機会がなかっただけだ」

「……じゃあ、呼んで下さい」
 プウッと頬をふくらませる少女の姿は、妙に可愛らしい。

「…

「もう一回」



「もう一回だけ! 」

「あのな………」
 呆れて文句の一つも言おうとした絳攸だったが、ふとの身体が小刻みに震えているのを見て言葉を止める。

「もう一回だけ、お願いします〜」
 懇願してくる少女を無視して、絳攸は彼女の頬に手を当てた。
彼の手も外気に触れて相当冷たくなっているはずなのだが、の頬はそれよりもっと冷たい。まるで氷のように冷え切っている。

(どうしてこんなになってまで、外に…………)

 一瞬、訝しむ絳攸だったが、すぐにその理由に思い当たった。
 自分が声をかけようとする前、は何をしようとしていた?
 庭に降りようとしてはいなかったか。

 そこまで考えて、ふと絳攸は思い出していた。

 彼女が一年前まで山で暮らしていて、虎と一緒に寝起きしていたこと。
 前に彼女が、黎深に「虎を飼ってもいいか」と聞いていた事。

 ここに至って、彼はようやくが夜中に外へ出てきた理由を理解した。


「馬鹿
 きっぱり言い切るその声音は、呆れと怒りの混じったそれ。
切れ長の藤紫の瞳は、完全に呆れの色をにじませている。

「はいっ……って、え、馬鹿?」

「寒いならさっさと言え!!
身体が震えるまで放っておいて、風邪でも引いたらどうするっ! 」
 今が夜中であることもすっかり忘れて、絳攸は思いっきり怒鳴った。
そうして身をすくめているの背と膝裏に手を回し、こともなげに抱き上げる。

「はえっ?! 」
 驚きのあまり奇妙な声を上げるだが、

「いいからおとなしくしてろ! 」
 きつい口調で絳攸に一喝されてしまい、言い返すこともできなかった。

 絳攸は絳攸で、が何か言いたそうなことはわかっていたが、敢えて綺麗さっぱりと無視して先を急いだ。


**************************


 彼がを抱えたままで歩みを進めたその先は、他ならぬ彼の自室だった。
 先ほどいた場所からそう遠くないところにあるその部屋へ戻ってくると、絳攸は脇目もふらず真っ直ぐに寝台を目指した。
 そうして目的の場所へ着くと、抱えていた少女を寝台の上に下ろし、上からガバッと布団をかぶせてやる。

「……あの、ここ、私の部屋じゃ……」
 かぶせられた布団+もともとかぶっていた布団の相乗効果か。はたまた先ほどまで絳攸の腕に抱かれていたせいだろうか、多少身体があたたかく感じる。かぶせられた布団から顔だけ出すようにして、はこちらに背中を向けて寝台の上に座る絳攸におずおずと話しかけた。

「ああ、お前の部屋じゃない。俺の部屋だ」
 何を分かりきった事を、と言わんばかりの口調で憮然と答える絳攸。

「どうして……」

「お前があまりに突拍子もないことを思いつくからだ。
心当たりはあるか、

「うえっ……? ………ん〜……、特にはないですけど………」

「俺があそこで声をかけなかったら、お前はどこに行くつもりだった? 」

「馬小屋」
 絳攸の問いに、きっぱりと一言で答える

「馬小屋で何をするつもりだった? 」

「寒いので、お馬さんたちと一緒に寝ようと思ってました」
 あっけらかんと言い放つ少女の姿を見ていて、半ば絳攸が脱力感を覚えた事は言うまでもない。

「……世間一般では、それを突拍子もないことというんだ!
第一、屋敷の部屋と馬小屋、どっちが寒いと思ってるんだ?!
風通りの良い馬小屋の方が、部屋よりも数倍寒いに決まってるだろうが!!!」

「でも……寒くて……」

「寒いと感じるのはともかくとして。
そこでどうしてすぐに動物との添い寝に思考が回るのか、教えて欲しいくらいだな」

 絳攸にぐりぐりと頭を撫でつけられながら、はむぅと頬をふくらませた。

「だってこのお屋敷には、一緒に寝てって頼めるくらいに仲の良い人、いませんし。
一緒に寝てって頼めるのは、仲の良い人じゃないと駄目だって茶家のおじい様から言われてましたたし、それならと思って……」

「大馬鹿者。そのくらい、黎深様でも奥方様にでも言えば良かったろう。
二人ともお前の事を可愛がってる事は間違いないんだから」
 借りてきた猫のようによそよそしいことを言うの言葉を遮って、絳攸はきっぱりと言い放つ。

(あれほど可愛がられているくせに、よくもまあそんなことが言えるな、こいつは)

「……………だって、お二人の仲を邪魔しちゃ悪いじゃないですか………」
 おそるおそると口を滑り出たその言葉に、絳攸は一瞬呆気にとられる。
だがすぐに、彼女が何を言いたいのかを察した。

「……妙なところで気を回すな、馬鹿


 自分の我が儘よりも何よりも、まずは他人のことが最優先。
 それで自分がどれほど追い込まれようと、けして他人に頼ろうとしない。
 呆れるほどに要領の悪い娘だ。

(だが、嫌いではないな………)

 呆れるほどに不器用で、他人を第一に考えられる優しい少女。
 子猫のように可愛らしいだけでなく、芯のきちんと通った自分なりの思考を持ったこの娘は、今までに散々苦汁を舐めさせられてきた女たちとは全く違う。

 女にはほとほと愛想を尽かしていた絳攸だったが、この娘は素直に可愛いと思えた。



「……え、あの、……絳攸様? 」
 今までこちらに背を向けていたその人が振り返ったかと思えば、前触れもなく伸ばされた腕に引き寄せられて。は気づけば、絳攸の腕の中にすっぽりと収まっていた。
 だが辺りが暗いことも災いし、彼女は自分が今どんな状況に置かれているのか全く把握出来ず、不思議そうに目を瞬かせる。

「様をつけるな、敬語も使うな。他人行儀に話されるのは、嫌いだ。
そんなことより、俺が触れても意外に平気そうだな」

「あ……、ほんとだ」
 言われては、自分の置かれた状況にようやく気づく。
頭に触れられただけで拒否反応を起こしていたのは、ついさっきのこと。
なのに、不思議と拒否反応は起こらなかった。

「怖くないのか? 」
 てっきり拒否反応を起こされるものだと思っていた絳攸は、自分の腕の中でじっとしているの頭を撫でながら訊ねる。

「はい、全然。それよりあったかくて、気持ちいい……」
 聞かれては、ゆっくりと首を左右に振る。
いきなり抱き寄せられて驚きはしたものの、それをイヤだとは感じられなかった。

 むしろ、あたたかくて。心地よくて。
 まだ王宮で世話になっていた頃、劉輝によくこうしてもらっていたように。
 心に押し寄せてくるのは、安堵感と安らぎだけだ。

 それはきっと、嫌われていないとわかったから。
 この人の行動全てが、優しさからくるものだとわかったから。

 久々に傍に感じた人肌の心地よいぬくもりに、は甘えるように頬をすり寄せる。
その様は、少女というよりは子猫のそれに近い。

「……なら、決まりだな。」
 猫がごろごろと喉を鳴らして飼い主に懐くように、すりすりと甘えてくるの頭を撫でてやりながら。絳攸は呟く。その声音は、穏やかで優しい。

「??? 」

「寒かったら、俺のところに来ればいい。
馬小屋で眠られるよりは、よっぽどマシだ」

 彼の思いがけない提案に、しばし目を瞬かせる

「いいの……? 」

「嘘を言ってるように聞こえるか? 」

 絳攸に聞き返されて、は首を横に振った。

「ありがとう………絳攸」
 そうしては、彼の前で初めて、心からの笑顔を浮かべたのだった。







*後書き…
・人肌恋しい時のお話……のつもりだったんですけど、気づけばヒロインの過去編になってしまいましたね。一体どこをどう間違えてこうなったんだか。
時間軸は、ヒロインが黎深に引き取られて一ヶ月くらい経った頃です。黎深や彼の奥方、屋敷で働いている人たちにはそこそこ懐いているのですが、絳攸にはまだそれほど懐いていない時期ですね。過去のこともあって、ヒロインは自分の兄に年近い男性に対しては異常なまでの警戒心を抱く癖がついてたんですけど、ちょうど年齢的に絳攸はその条件にピッタシだったんですねぇ〜(人事みたいに言うな)。
なんだか気づけば、“人肌恋しい時”ではなくて“ヒロインが絳攸に懐くようになった頃”のお話になりました……。これは夢なのか? 夢と言うよりは、兄妹夢に近い気が…。
まあこんな紆余曲折がありまして、ヒロインは冬になると絳攸に添い寝して貰うようになったわけです。はい。