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 自分と全く同じ人が、存在しないように。

 想いだって、同じ「想い」はありえない。

 恋愛感情は、一方通行の想い。
 たくさんの人が存在するこの世界で、必ず「両想い」になれるはずがない。

 でもね。誰かを「好きだ」と想う心は、何よりも貴くて。
 とても素敵なことから。

 一方通行の想いでも、どうしても嫌いになんてなれないなら。


 ずっと、ずっと、貴方に「恋」し続けてもいいですかーーーー






 鳳珠の屋敷に出かけるのだという黎深に付き従い、らりさは黎深の乗る軒に乗っていた。
あの後、なんとか自分自身を立て直すと、身支度をして、朝ご飯も食べてきた。泣いたせいか目元がやや腫れてしまったのだが、化粧をすることでなんとか誤魔化せているはずだ。

 ただ、どうしても気持ちの整理だけはできなくて。
 誰かと話をしているときはいいのだが、ふと会話が途切れてしまうと、たちまちに朝のことが脳裏に浮かんでくる。

『……と、とにかく目が覚めたなら、さっさと起きて支度しろ。
朝食抜きになっても、俺は知らんからな』

 そして気づけば、絳攸の言葉が頭の中を巡っていて。


 見事なまでにはぐらかされた。
 それはとりもなおさず、彼が自分のことを何とも思っていない証拠でもあって。

 わかっていたはずなのに。
 彼が自他ともに認める女嫌いであることは、誰よりもらりさ自身がよく知っていた。
 そんな彼に想いを打ち明けたところで、迷惑になりこそすれ、事態が好転するなんてあるはずもないのに。

 なのにーーーーーー


(いくら寝惚けてたとはいえ、我ながらなんともお間抜けな展開よね……)


 声にもならない自嘲の笑いは、もうこみ上げてすらこない。
 笑いすぎて、もう笑いの声すら出なくなったのだろうか。



「………今日は随分と溜息が多いな」
 ふと掛けられたその声は、今まで頭の中を逡巡し続けていたものとは、また別の声。
我に返ってみれば、気づかぬうちに俯いていた顔を強引に持ち上げられて上を向かされた。

「そう、ですか? 」
 持っている扇でらりさの顎を持ち上げているのは、向かい側に座る貴人たる男性――紅黎深。
彼の言葉に対して返答したらりさの言葉は、なんともどっちつかずなものだった。

「あれだけ溜息をついておきながら、全く気づいていないとは…。
相当まいっているらしいな。何があった? 」
 口調も声音もいつものそれ。
だけど寄越された黎深の言葉には、彼女を気遣うような響きも確かに含まれていた。

 それを敏感に感じ取り、らりさはほんの少しだけ笑みを浮かべた。

「大丈夫です。おじ様の心配するようなことは、なにも」
 心配をかけないようにと無理矢理に笑ってみせるらりさだったが、浮かべた笑顔は到底『笑顔』と呼べるようなものではなく。いつも彼女が浮かべている笑顔とはまるで正反対の、深い翳りを帯びた退廃的な自嘲の笑みでしかなかった。

「心配させたくないと思うのなら、無理に笑おうとするな。
見ているこちらが痛々しくてかなわない」
 言いながら、黎深はらりさの頭に手を置いた。

「………ごめんなさい、おじ様」

「私に謝ってどうする。それに、本来ならお前は謝られるべき人間だ」
 黎深の手がらりさの頭をわしゃわしゃと無作為に掻き乱す。
いつもならば、彼女にこんな思いをさせた張本人に相応の報いを与えてやるところなのだが。その相手が相手なだけに、いかな黎深とて手を出す事が出来なかった。

 彼にとっては、らりさも絳攸も大事な子供であることに変わりはないのだから。

「……おじ様、ちょっとだけ我が儘言ってもいいですか? 」

「内容にもよるが」

「……ちょっとだけ、泣かせて下さい」

 今にも消え入りそうなか細いらりさの声を聞いて。
黎深は無言のまま、彼女を自分の胸に抱き寄せた。


(……全く、あれも本当に不器用だな……)

 声を殺して泣き出したらりさの頭を撫でてやりながら、黎深はふと軒の天井を見上げた。
浮かべる表情は、呆れとその他の感情が入り交じった複雑なものだった。



***********************


 本の頁をめくる、その手がふと止まった。


(……この頁、一体何が書かれていたんだ……?)


 見開き二頁に書かれた文字の羅列には、確かに目を通していた。通していたはずだ。
にも関わらず、いざ次の頁へ進もうとしても、進む前の頁に何が書かれていたのか。その肝心な書かれている内容が、まるで頭の中に入ってこない。

「……ったく、全然集中できん……」

 絳攸は吐き捨てるように呟き、読んでいた本を閉じた。
もう何度も同じことを繰り返していたらしく、彼の卓机の上にはちょっとした本の山が出来上がっている。別の本を取ろうと立ち上がったが、本棚の中の一冊に手を伸ばしたところで、彼はその手を引いた。

「どれを読んでも、頭に入ってきそうにもない。か」

 上の空の状態で本を読もうとしたところで、その内容が頭に入ってくるはずもない。

 幾度も、幾度も振り払おうとしたけれど。

 もとより振り払えるはずもなく。

 ふと気を抜けば、今朝方のらりさとのやり取りが鮮明に思い起こされる。


「…………らりさ」
 口を滑り落ちるのは、愛しい少女の名。

 想いの内を告げられて、嬉しくないはずがない。
 一方通行のまま、時だけが過ぎゆくはずだった想い。
 すれ違うだけの想いが、確かに交錯したのだから。


 彼女に何かを望もうとは思わなかった。
 そばにいてくれて、笑っていてくれればそれでよかった。

 もう二度と、傷ついた瞳を見る事がないように、守ってやれれば。

 それだけでいいと、思っていたーーーーー


 だのに。

 想いが交錯した真実を知った途端、その思いは脆くも崩れ去った。

 そうしてこみあげてきたのは、 望むべくもなかった……。
 否、望んではいけなかった思い。

 彼女を己だけのものにしたいと思う、愚かな独占欲。
 心だけでは飽き足りず、全てを己のものにと望む……貪欲な思い。


「……………っ! 」

 心の中に入り込んできた暗い欲望を振り払うかのように、絳攸は卓机に拳を叩きつけた。


 抑えようと思うほどに、より増す暗欲。

 人の心とは、げにも天の邪鬼なものなのか。




 そんな折りだった。聞き慣れた声がしたのは。

「随分とご機嫌斜めみたいだけど、どうしたんだい? 」
 顔を上げれば、一体いつの間にやら屋敷に上がっていたのか。相も変わらぬ麗しの容貌に掴み所のない笑みを浮かべた同僚――藍楸瑛の姿があった。
今日は特に会う予定も用事もないというのに何の用だと、口を開きかける絳攸だが。

(…まあ、うさばらしには丁度いいか)

 そう思い直し、喉まで出かけた言葉をなんとか呑み込む事に成功したのだった。

「珍しいね。いつもなら罵詈雑言で出迎えてくれるはずの君が、ずいぶんと静かだ」
 どこかからかうような口調でそんなことを呟きながら、楸瑛は勝手知った友人の部屋へと入ってくると、いつもの定位置に遠慮無く座り込んだ。
 そんな彼の様子を絳攸は苦虫を噛みつぶしたような表情で眺めていたが、少なくとも楸瑛を追い出そうという気はないらしい。

「うるさい。人の勝手だろうが」
 いつもならば、卓机の上にある分厚い本を投げつけてくるくらいのことはするだろうに(現に楸瑛はその可能性を予測して、ひそかにいつでも動けるように備えていた)。
 しかし、絳攸は本を投げてくるどころか、威勢の良い返答も返してこない。
 いつもなら容赦ない言葉で一刀両断にしてくれそうなものなのに。
 それによくよく観察してみれば、どことなく覇気が感じられない。

「なんだか元気がないみたいだけど、何かあったのかい? 」

「なんでもない」
 楸瑛の勘の良さに心中でひそかに舌打ちしつつ、絳攸はそれでも表面上は平静を装う。
もっともそれで、果たして楸瑛が騙されてくれるかどうかは、甚だ疑問ではあったが。

「……らりさと喧嘩でもしたかな? 」
 楸瑛は本当に何気なく口にしただけだったのだが、絳攸はその名前に一瞬反応する。
しかし困惑の表情が浮かんだのは、ほんの一瞬――わずかな時のことで、すぐにそれは平静の表情を浮かべる仮面に取って代わられる。

「………別に」

「まあそう言わずに、私に話してみてご覧。状況によっては無理かも知れないけどね。
ちょっとした口喧嘩程度の喧嘩なら、仲直りさせてあげられるから」

「だから違うと言って………」

「ねえ、絳攸。ただの口喧嘩だからといって高を括ってると、取り返しのつかない事になるかもしれないよ? 女心と秋の空って言うくらいだしね。確かにらりさは君一筋で、他の男には見向きもしないだろうけど、万が一心変わりってこともないとは言い切れないんだから」

「………ちょっと待て。なんでお前が、そのことを知ってるんだ? 」

「なにも私だけじゃないけどね。主上に静蘭、秀麗殿も知ってるよ。
だって彼女の様子を見てれば、一目瞭然だからね。
………って、絳攸。どうしてらりさの想い人が君自身だって知ってるんだい?
今まで全然気づいてる様子も素振りもなかったのに」

「…………」

「もしかして、彼女自身が打ち明けた? とすると、君の元気がない理由は………勢い余ってらりさを押し倒して、思いっきり拒否されたことが理由かな」

そんなはずがあるか!と怒鳴り倒してやりたい衝動に駆られる絳攸。
だが同時に、彼が言ってる事の一欠片分くらいには心当たりがあったのも確かで。
それゆえに喉奥まででかかっていた言葉も、思わず呑み込んでやるしか他なかった。

「…………もしかしてとは思うけど、今の私の言葉が全部当たってたりするのかな? 」

「…全部とは言わんが、半分は当たりだ。だったらどうした」
 これ以上逃げ切る事は無駄だと判断したのか、絳攸は先ほどまでとはまるで逆にずばりと言い切った。否、開き直ったと言うべきだろうか。

「あのさ、絳攸。気持ちはわからないでもないけれど、単純に考えてご覧よ。
らりさはあれでも宋太傅の愛弟子だよ?
いくら君の方が力は強くても、らりさが本気を出せば間違いなく君の負け。
そのくらいのこと、当然承知の上だと思ってたけど」

「一つ言っておくが、俺はらりさを押し倒したわけじゃないからな」
 勝手に話を進めていく楸瑛に、絳攸は勘違いされている部分をきっぱりと正す。
第一、押し倒せば嫌われるとわかっているからこそ困っているのに、これでは全く見当違いな事を話しているのも同然ではないか。

「おや、そうなのかい? 今までずっと想い続けてた相手にいきなり愛の告白をされたら、普通は押し倒したくなるのが当たり前だと思うんだけどね」

「貴様と一緒にするな、阿呆が。第一、相手はらりさだぞ?
あいつが未だに過去の傷から解放されていないのに、どうしてそんなことができる」

 らりさが過去に大きなトラウマを抱えていることは、楸瑛も既知の事実だ。

「あ……、そういえばそうだったね。
なるほどそれで悩んでいるというわけだね。
ま、それはともかく。らりさにどんな答えを返したんだい?」

「は? 」

 間の抜けた問い返しの言葉に対して、楸瑛は肩をすくめた。

「だって告白されたんなら、その場で自分の気持ちも告げるものだろう。
向こうだって勇気を振り絞って想いを打ち明けてくれたんだから、その誠意に応えてあげるのが礼儀ってものだよ? 」

「…………………」

「絳攸、君もしかして………何も言わなかったのかい? 」

「……目が覚めたなら、さっさと支度しろとは言ったが………」
 言いづらそうに、それでも呟くように答えた絳攸の言葉を聞いて。
楸瑛が完全に呆れたことは、まあ言うまでもない。

額を押さえて天井を仰ぎ見ながら、楸瑛は深い溜息を吐く。

「それじゃあ、言外にらりさを振ったのと同じじゃないか。
全く君は本当に不器用というか、なんというか……」

 そうして楸瑛は、やおら立ち上がったかと思うと、つかつかと絳攸に歩み寄った。
当然の事ながら絳攸は、眉をひそめて訝しみの色を顔に出すが。彼はそれを綺麗さっぱりと無視して、目の前の友人の両肩をガシッと掴んだ。

「いいかい絳攸。何事も経験と才能、技術がものを言うんだ。恋愛もまた然り。
私にとってらりさは可愛い妹みたいなものだし、君は大事な親友だしね。
私としては、可愛い妹と親友に是非とも幸せになって貰いたいとも思うわけだよ。
そこで特別に、私が長年の経験から学んだ“恋愛の秘訣”を伝授してあげよ……」

「いらん、そんなもの。というか、用事もないならさっさと帰れ」
 言葉の途中に口を挟むようにして遮り、その言葉をきっぱりと一蹴した絳攸は、肩にかかった楸瑛の手を振り払った。

「おや、そんな事を言ってもいいのかな?
このままだと間違いなく、君とらりさの仲は出会った当時まで一気に逆戻りだよ?
あの時は会う度に彼女が逃げるものだから、可愛さ余って憎さ百倍とばかりに散々私に愚痴ってたじゃないか。また同じことを繰り返すのは君の勝手だけどね、さすがに今度は私に愚痴らないで欲しいなぁ」

「……………」

 返す言葉もないとはまさにこのことだ。


 しばしの逡巡を経て。

「………出来るだけ簡潔に話せ」

 長い沈黙の後に絳攸が口にしたのは、とても人に物を頼むような言葉ではなかったが。
長年この青年と付き合っている楸瑛には、彼の心情が手に取るように読み取れたので、特に何も言わなかった。

「はいはい」

 楸瑛は苦笑いを浮かべながら、絳攸の求めに応える。
素直でない不器用な友人が初めて口にした、助けを求める言葉。
頑固で自尊心の高い彼にしてみれば、その一言を口にするのにどれだけの思い切りが必要だったのか。それは想像するのも難しい。

 ただ一つ確かなのは、彼にとってそれだけあの少女が大事であるということ。

 見ている方が焦れったくなるほどに、不器用で歯がゆいーー緩やかな恋の形。
 互いに互いを想い合うがゆえに、一歩先に踏み出すことの叶わなかった慎重で臆病な恋。
 それが今、ようやくゆっくりと前に進もうとしている。

 その先にある幸福の形―――、それは一体どんなものなのか。
 

 見てみたいと思う、その気持ちは。
 サナギから羽化する蝶の姿を一目見たいと思う心と、よく似ている。