乳白色の茶器を傾ければ、赤銅色の液体がたちまちに溢れ出す。こぼれ落ちた液体を受けるのは、龍を象る複雑な文様が描かれた口の広い湯飲みだ。
 急須の細い口から溢れだしたお茶は、乳白色の湯飲みに吸い込まれるように注ぎ込まれて、より一層鮮やかな色彩へと変化する。ほのかに香る格調高い爽やかな香りは、天紅芳茶――紅州の特産品である高級茶のそれだ。
その香りには不思議と人の心を落ち着かせる効力があるのか、はたまた先ほど思う存分泣きはらしたせいか。の心中は不思議と落ち着きを取り戻していた。

 湯飲みにお茶を注ぎ終わると、は湯飲みのうち二つを自分から見て左右――卓机を挟んで反対側に座る貴人二人の前へとそれぞれ差し出す。
 差し出すといっても、卓机が広いので今いる場所から腕を伸ばして差し出そうにも到底届かない。それ以前に、何よりも行儀が悪い。だからは、それぞれの湯飲みを自分から見て卓机の右端と左端へと手で持って運んだ。

 彼女がちょうど卓机の左端に湯飲みを運んだ時だ。
すぐそばに座っていた貴人の手が伸びたかと思うと、の目元は彼の手で覆われていた。

「ほ、鳳珠様? 」
 驚きでその場に立ちつくすだが、ずっとその場に立ち続けることは叶わない。
なぜなら彼女が思わず名を呼んだその相手が、彼女の腕を引き寄せたからだ。

 半ば倒れ込むようにして引き寄せられたは、自分の身体がふと宙に浮くのを感じる。まるで猫の子でも抱き上げるように彼女を無造作に、そしていとも簡単に抱き上げた貴人は、自身の膝の上に少女を座らせるとその麗しい顔をわずかにしかめた。

を泣かせたのはお前か、黎深」
 わずかに怒気のこもった美声が、彼の口から滑り出す。
耳にするだけで心地よい低音域の声音は、目の前に座る同僚――所謂腐れ縁というやつであるーーへの怒りを含んでいたが、より一層聞く者を酔わせる効果すら持っていた。

「何をいきなり言い出すのかと思えば、言いがかりだよ。私がを泣かせるような真似をするはずがないだろう。私はそんなに信用がないかな、鳳珠」
 一目見れば二度と忘れられないほどに強烈な印象を与える、稀にして稀少な極上の美貌の主――黄鳳珠の素顔と平常心で向き合える数少ない人物の一人である紅黎深は、そう言って目の前に置かれた湯飲みを手にした。
 黎深が彫りの深い端正な面に浮かべるのは、明らかに含みのある笑いだ。
そして、付き合いの長い鳳珠にしてみれば、彼が一体何を思ってその笑みを浮かべているのか。まるで手に取るようにわかる。

「分かりきった事を聞くな」
 黎深の冷やかしの視線が一心に自分の方へと向けられていることを自覚しつつ、それでも傍目にはまるで表情を動していないようにしか見えない顔を取り繕いながら、鳳珠は一言で彼の言葉を一蹴した。

「……あの、鳳珠様。
これは私が勝手に泣いただけで、本当におじ様には全然関係はないんですよ……? 」
 心配してくれているのは嬉しいが、その原因をことごとく黎深に押しつけられてしまうと妙に罪悪感を刺激されてたまらない。だからは、二人の会話がわずかに途切れた合間を狙って、鳳珠に向かって弁解の言葉を重ねた。

「ほら、鳳珠。だってこう言ってるじゃないか」
 の後押しを受けて、さらに言い募る黎深だが。

「やかましい。お前は少し黙ってろ」
 鳳珠の見事なまでの容赦ない一言で、きっぱりと蹴落とされる。

「家の者に言って、しばらく目元を冷やして来た方がいい。
私とそこの馬鹿のことは気にする必要はないから、早く行ってきなさい」

「そんなに目立ちますか、この目? 」

 化粧をしている状態で黎深にすがって大泣きしたために、すっかりと顔がぐちゃぐちゃになってしまったは、鳳珠と会う前にこの家の仕女に頼んで顔を洗わせてもらっていた。その際に、泣き腫らして腫れているであろう目元も多少水で冷やしながら揉みほぐしてはいたのだが……。

「あぁ。一目で大泣きしたとわかるぞ」
 の問いかけに、鳳珠はこれまた躊躇一つなく言い放つ。

「あちゃあ……。………それじゃあ、お言葉に甘えて。
それに私がいない方が、お話も進むでしょう? 」
 何も言わないうちから大泣きしたことを鳳珠に指摘されてしまうほどだから、よほど目元は腫れているのだろう。そう判断したは、彼のお言葉に甘えてもうしばらく目元を冷やしてくることにした。

「いや、抜きで話を進めてもつまらないしね。
冷やし終わったら、変に気を遣わないで必ずここへ戻ってくる事。いいね? 」

「はい、おじ様」
 黎深の言葉にニッコリと笑みを返すと、は鳳珠の膝の上から器用に飛び降りて部屋の外へと出て行った。




「………本当に、君はが気に入ってるんだねぇ」
 ニヤニヤと笑みを浮かべた黎深の言葉で、鳳珠はようやく自分がずっとが出て行った方向へと視線をやっていた事に気づく。

「そう思うなら、私に彼女を譲るくらいの気遣いを見せろ」

「そうは言っても、私だってあの子は気に入ってるしね。何よりは、絳攸のお気に入りでもあるわけだし。私の独断でそんなことできるわけがないだろう? 」

「黎深。今回のことは、十中八九お前の養い子が絡んでいると見て間違いはなさそうだが。
その辺りの責任はどう取るつもりだ」

「気持ちは分かるけどね、そんなにあの子を目の敵にしないでおくれ。
私だって、なんとかしてやりたいとは思ってるけどね。
問題が色恋沙汰となると、私でも上手く絳攸の後押しをしてやるのは難しいんだよ」
 いけしゃーしゃーと言い切った黎深の言葉は、明らかに事情を知る者しか口に出来ないものを数多く含んでいた。それは彼が事情を知っていることの証明に他ならない。

「ほぉ…、とするとお前は今回の事態の詳細があらかた解っているというわけだな。
ならばとっとと白状しろ。私にも知る権利はある」
 鳳珠は不敵な笑みを浮かべて、ついと目を細めた。

「………と言われてもね、私も完全に把握している訳じゃないしね。
たまたまの部屋の近くを通りがかった仕女が、偶然その一部を見ていただけで、私はその話をまた聞きしただけだよ」

「屋敷の主が、一仕女から噂をまた聞きだと? 一体お前の家はどうなってるんだ」

「うちは特殊だよ。あの二人に何か変化があったら、すぐに私に知らせるようにと家令や給仕頭にもちゃんと言い含めてあるからね。
何かがあれば、すぐ私の耳に入るようになっているんだよ」
 何気ないことのように言う黎深だが、実質やってることは個人の私生活を監視している(というよりも覗き見している)も同じことである。その辺りを一向に頓着しない相手の素振りに、鳳珠はその美顔を勿体ないほどに歪めた。

「……最低だな、お前」

「なんでそうなる。私はこう見えても屋敷の主なわけだろ? 自分の屋敷内で私の知らない事が山積みだなんて、嫌じゃないか。それに絳攸はともかく、はあまり私の仕事ぶりを知らないだろう? でもこうして屋敷内の情報を網羅しておく事で、の中で私の位置は『なんでも物知りなすごい義父様』となるわけだよ」

「…………」

 なんと意見を述べて良いものやら。
 迷いに迷った鳳珠は、結局無言を貫き通すことにした。

 そうして彼が何も言わないのをいい事に、黎深は更に話を続ける。

「別にこれはだけに限った事じゃないんだよ。なんたって、と秀麗は友達同士。に『なんでも物知りなすごい義父様』の印象を強くしておけば、秀麗に『素敵叔父さん』と印象づけるのに役に立つだろ? 」
 妙にウキウキとしながら会話を続ける黎深の姿に、鳳珠が脱力したことは言うまでもなく。

「…………もういい、聞いた私がどうかしていた。
その話はどっかに置いて、お前が知ってる情報とやらをさっさと吐け」

「ああ、そうだったね。どうも寝惚けてたが、勢い余って絳攸に想いの丈を打ち明けてしまったらしいんだ。だけど不器用なものだから、絳攸はそこで返事も返さずにさっさと部屋を出てしまったらしいんだね。それでは振られたと勝手に勘違いして、大泣きしてたってわけだよ」

 実にあっけらかんと、ことの事情を語る黎深。
 一方の鳳珠はといえば、語られる内容を理解していくにつれて、面に浮かべる表情がより一層険しくなっていく。

「………あの青二才め、少しばかり見目がいいからと奢りやがって……! 」

「あー、鳳珠。一応訂正しておくけど、絳攸は別にを振ったわけじゃないからね。
あの子はあの子なりにいろいろと悩んでいてだね………って、聞いてるかい、鳳珠? 」
 黎深は、完全に怒髪天を衝いている鳳珠に対して言おうとしていた言葉を途中で引っ込めた。どのみちこの状態では、何を言ったところで聞こえはしないだろう。

(全く……、のこととなると目の色変えるんだからな。困ったもんだよ。)

 自分自身とて、兄一家のこととなれば今の鳳珠と大差ない状態になるというのに。そのことを完全に棚に上げて、黎深はだいぶ冷めてしまったお茶をすすった。


「……それにしても、人間持つべきものは親友だな。
あの忌々しい三つ子の弟は、ちゃんと絳攸を焚きつけたのかどうか………」

 呟く黎深の言葉は、誰の耳にも届くことなく、虚空に掻き消えた。


*********************


 黎深や鳳珠が、まさか自分を話題にして会話を弾ませている(?)とは露知らず。

 当のはといえば、目元を冷やすために井戸のそばに陣取っていた。井戸から汲んだ水で手布を冷やし、それを目元に当てて患部を冷やす。腫れて熱をもった部分に冷たい手布を当てると、ひんやりとしてとても気持ちが良い。
やや腫れた患部に手布を当てれば、熱さえもっていた部分が少しずつ冷えていく。
そうして目元を冷やしているうちに、心に沸き立っていた波が少しずつではあるが段々と引いてくる。心の奥に燻っていた得体の知れない靄は、ようやく晴れてきていた。

「……いかんいかん。このまま落ち込んでいけば、果てしなく機嫌は急降下。
こういうときこそ、開き直らなくちゃ! 」
 目元を冷やしていた手布を再び冷やすため、桶の中へと手布を放り込んだは、濡れたままの手で頬をペチペチと叩いた。
そうすると、両手の冷たさと頬を叩く痛さの相乗効果だろうか。モヤモヤしていた気分も、心なしか先ほどよりも幾分すっきりしたようだ。

「玉の緒よ 絶えなば絶えね 長らへば 忍ぶることの 弱りもぞする………か」

私の命よ、絶えるものなら早く絶えてしまえ。
恋を堪え忍ぶ心が弱まって誰かに知れてはいけないから………

 小倉百人一首の中にある恋の歌。国語の教科書にも載っている有名な一首の和歌だ。
最初の“玉の緒よ”というフレーズが子供ながらに気に入って、まだ元の世界にいた頃にが一生懸命覚えようと音読していた和歌である。

「言葉の響き自体は好きなんだけど、いまいちこの歌って好きになれないんだよね。
そりゃ当時と現代の感覚は違うんだろうし、そもそも式子内親王は斎宮で、恋をしてはいけない身の上だったから仕方ないんだろうけど……」
 手布の水気をぐしゅぐしゅと絞りながら、はぶつぶつと零す。
手布を水に浸して、目元に当てて、また水に浸して、目元に当てて…。この作業を延々と繰り返しているのも、段々に飽きてきていたのだ。
さらに近くに誰も人がいないものだから、なおのことつまらない。

「でも身の上で言ったら、私だって本当はまずいのかもしれないなぁ……。
私と絳攸って義理の兄妹みたいな関係なわけだし、それに身分だって全然違うわけだしね。私の場合、知り合いにやたらと朝廷の高官が多いってそれだけだし……」
 本来住んでいた世界では、封建的な身分制度とは全くかけ離れた世界であったので、あまり身分やら血筋やらというものを深く意識した事がなかっただが。
彼女とて伊達に六年近くもこの国にいるわけではない。

 この国では今なお、血筋や家柄というものが重視されている。
貴族や王といった封建的身分がまだ残っていることにも影響があるのだろうが、何より彩七家の持つ影響力は計り知れないものがある。その七家がなくなってしまったら、おそらくこの国は大混乱に陥るだろう。それくらいに彩七家の力は絶大だ。

「……なんたって、異郷から来た得体の知れない娘だもんねぇ……。
劉輝はあの通りの天然で、霄太師やおじ様は面白いものとか変わったものが好きだったから、興味本位というか親切心で私を引き取ってくれたわけだけどさ……。
さすがに結婚は、無理だよね〜。こんな変わり種を自分の家に入れたくないっていうのが、多分世間一般の見方だろうし。ってことは、オールド・ミス決定かぁ……。
そのうち自分でなんとか食べていけるように働かないとまずいなぁ」

 今までは年齢が年齢だったから、こうして他人に養ってもらっていたけれど。さすがに大人になってまでこのままというわけにもいかないだろう。いくらなんでもいい年扱いて、食い扶持ばかり減らす居候人間にはなりたくない。

「働く、といっても私の取り柄と言ったら、双剣ぶん回すことくらいか…。
いっそ武官になれないかどうか、今度藍将軍にでも聞いてみようかな」
 なおもぶつぶつと独り言を呟きながら、はよく絞った手布を目元に当てた。

 幸いな事にの持つ武芸の才は、羽林軍でも一目置かれるほどに有名だった。女だてらに剣をぶん回してるのも噂となる要因を含んでいたのだろうが、何より“桜花の虎姫”の二つ名を朝廷に知らしめたのは、何年か前に羽林軍の兵相手に大暴れしたあの事件がきっかけだろう。その際、白大将軍や楸瑛の上司である黒大将軍の目にも止まって、羽林軍にスカウトされたことがある。
 コネと言っても自分の実力で手に入れたコネだ。使わないわけにはいかないだろう。


 来るべき将来のためにと、が一人で明るい将来設計を考えていると。



「まだそんな馬鹿な事を考えてたのか、お前は」

 聞き慣れた……、本当によく聞き慣れた声が聞こえた。





「………絳攸………」

 聞き間違えるはずのない、声。
 耳にするそれだけで、心がざわめかずにはおられない……その人の声に。

 は目元を覆っていた手布を外し、ゆっくりと顔を上げた。


 まず視線に捕らえたのは、銀の色彩を含む淡い水色。やや硬質でくせのある髪は、視覚で判断する限り硬そうな印象を受けるが、実質はひどく柔らかい。切れ長の双眸に宿るのは、初夏を彩る藤花と同じ淡い藤紫の色彩。どこまでも澄んだ、真っ直ぐな眼差しの奥には深い知性の輝きが宿っている。
 理知的な、眉目秀麗と称するに値する容貌の持ち主ではあるものの、何の色も浮かべない無表情はまるで無色透明の宝玉の如し。端正ではあるが、同時に見る者に硬い印象をも与えずにはおれない様は、無機物の宝石を彷彿とさせる。

 それらの特徴を合わせ持つ人物と言ったら、ただ一人――李絳攸その人しかいない。



「な、なんでここに? ここは黄尚書のお屋敷で……」
 は半ば煙に巻かれたような心境に陥った。午前に黎深と出かけるという話は、彼とて知っていよう。だが、その行く先がどこかとは一言も言った覚えもない。

 なのに、どうしてここに彼がいるのか。

「黎深様から行き先は聞いていた。用事があるからと言って、屋敷に入らせてもらったんだ。それのどこに疑問を感じる必要がある? 」
 問われた相手はといえば、訝しげに眉をひそめたものの、きちんと答えを返してくれる。

「いや、それはまあ、そうなんですけどね……」
 適当な相槌を打ちながら、は必死で目線をあさっての方へと逸らしていた。
半ば呆れにも近い絳攸の視線が、一心にこちらへと注がれていたからだ。

 適当で、明瞭な言葉にすらならない相槌。

 それを返しているだけなのに、妙に気疲れするのはなぜだろう。
 言葉を返すのに、どうしてこんなに気力を振り絞る必要があるのか。
 一つ一つの言葉を口にするのに、どうしてこれほど勇気がいるのだろう。

(気を抜いたら、そのまま崩れてしまいそうだから………。)

 両想いなんて、夢のまた夢でしかないというのに。
 夢を見て、夢の通りにならなくて、現の厳しさにへこまされて。

 心が、とても痛くて……辛くて。

 愛しい人の姿を見るたびに、その傷が開いてしまうから。
 傷が開けばまた、心は傷ついて赤い涙を流すから。

 傷が開かないように、気力と勇気でそこを塞いでいるからだ。



「……お前に、まだ言ってない事があったからな。だから、ここに来た」


 どくん。

 一際、脈打つ心臓が大きく跳ね上がる。



 答えないで。

 答えなくて、いい。

 どんなに選ばれた言葉を使っても、口にする言葉は同じだから。


 もう、これ以上、私を拒む言葉を口にしないでーーーー




「言わなくても、もう大丈夫だよ。絳攸の言いたい事は、確かに伝わったから」
 喉の奥から絞り出したはずの声は、不思議なほどに落ち着いていた。

 相手が藤紫の双眸を驚きで瞠るのを目にしながら、は言葉を続ける。

「本当は言っちゃいけないことだったのにね。
絳攸が女の人を嫌いな事は、誰よりも一番私が知ってたのに。
迷惑だってわかってたのに、勢いで口走って、挙げ句の果てに墓穴掘って。
ごめんね、絳攸。いろいろ迷惑かけて、手間取らせて」

 出来るだけ不自然でないように、は笑みを浮かべた。否、浮かべたつもりだった。

 だけど彼女が顔に浮かべたのは、どこか他人を拒絶した無表情。
 漆黒の瞳に宿るのは、戦闘時を思わせる虎目石の輝き。
 ただしその瞳の奥に宿るのは、深い悲しみをたたえた光だ。



(……あいつの言う通り……か)

 見覚えのあるの瞳の色を見て、絳攸は見ていられないとばかりに目を伏せた。

 まだ黎深に引き取られてきて間もない頃に、彼女が自分を見ていた瞳と全く同じ。
 傷ついた心を無理に隠そうとして、それでいて隠しきれていないその姿。

 自分の暗い欲望を抑えるため。
 彼女を再び傷つける事がないように。
 そう思ってあの場を逃げた。

 だけど、逆にその行動がの心を傷つけた。

 傷つけまいと、したはずが。
 逆に傷つける結果となってしまった。



。いいから、俺の話を……」

「お願いだから、何も言わないで! 」

 無意識に進めようとしていた絳攸の足は、の悲鳴にも近い声に止められた。


(何も、聞きたくないーーーーー)

 まるで言葉そのものに怯えるかのように。頑なに。
 彼女は全身でその先に続けようとする絳攸の言葉を拒絶していた。




 愛しいと想う心は、何よりも尊くて。
 人を好きになれる事は、とても素敵な事だと思う。

 だのにーーーー

 その尊い想いを放り投げて。愛しいと想い続けたその心すら、ねじ曲げて。
 今の自分は、自分の心をただがむしゃらに守ろうとしている。
 自分が世界で一番可哀相なんだと、悲劇のヒロインになりきって。

(……なんて、馬鹿なんだろう………私は)

 恋愛はあくまで一方通行。
 その想いが交差するのは、なかなかありえないこと。
 両想いでなくては、嫌だなんて。
 我が儘ばかり言ってどうするのか。

 こんな我が儘で醜い自分は、とても好きな人にあげられない。
 自分ですら厭う自分自身を、どうして大好きな人にあげられようかーーーー



「お願い、だから………何も言わないで。
何も言わないで、そのまま帰って欲しい………。
貴方を好きだと想う気持ち、今までずっと抱えてきた想い、大切にしたいの。
このままじゃ自分を守る為だけに、貴方を好きだと想う想いを壊してしまいそうだから」

「……………」

「少しでも私のこと好きでいてくれるなら……、私に手を差し伸べてくれた優しい気持ちが嘘じゃないなら……。私の事は放っておいてよ……」

 耳を押さえたそのままで、はその場にしゃがみ込んだ。

 その姿は、かけられるべき言葉の全てを全身で拒否していた。



「放って…、おけるわけがないだろうが………」

 耳を押さえていたに、絳攸の呟きは届かない。


だがーーーーーー

 突然耳を塞いでいた両腕を引き寄せられて、は足で立ち上がる事を余儀なくされた。そうして半ばたたらを踏むように引き上げられて、バランスを崩してよろめいたが。そこを抱き寄せるようにして支えられる。
 はその支えからなんとか逃れようと、両腕で相手の身体を押しのけようとするが。
あいにくと絳攸には彼女を解放するつもりなどなかったから、逃れられるはずもない。
必死で戒めから逃れようとするの身体を、彼の両腕がしっかりと抱き込むと、逃れようと暴れていた彼女の動きが停止した。

 力では敵わないことを承知していたことも要因の一つだろうが、何よりも彼女の動きを制約したのは、恋い焦がれる相手からもらった抱擁であるという事実であろう。

 腕の中の少女が抵抗をやめておとなしくなったことにかすかな安堵を抱きながら、絳攸はゆっくりと息を吸い込んだ。

 そしてーーーー。

「誰がいつ、お前を嫌いだなんて言った?
この大馬鹿者が! 勝手に自分で結論づけて、勝手に一人で落ち込むな!! 」
 半ば俯き加減になったの顔を覗き込むようにして、絳攸は力いっぱい怒鳴りつけた。その怒声はいつも以上に強く激しい口調であったから、怒鳴られている当のはびっくりして顔を上げた。否、上げざるを得なかった。

「お前が嫌いなら、最初から無視するなりしていたに決まってるだろうが!
人の顔を見ては、まるで鬼にでもあったかのように逃げ出すような奴に、どうして俺が手を差し伸べたかなんて少し考えればわかることだろう!! その程度のこともわからんのか!!
そのくせ、フラフラとどこかへいなくなって帰ってくるたびにどこかしらに怪我をこしらえて来るような大馬鹿者が! 嫌いなやつなら、わざわざ怪我の手当なんてしてやらんぞ、俺は!! 」

「でもそれは、絳攸が優しいから……」


 初めて出会った時に思った。
 この人は、劉輝と同じように優しい人だと。
 綺麗でまっすぐな瞳には、嘘偽りの色は微塵もなかったから。


 だが当の本人は、の言葉を実に冷淡な口調であっさりと切って捨てた。

「はっ、俺が優しい? お前の目は節穴か、馬鹿
いっとくが、俺は嫌いな相手はとことん嫌い抜く主義だぞ。
無能で馬鹿な上司に愛想が尽きて、過去何度辞表を叩きつけてやったと思ってる。
俺はな、嫌いな人間にはよほどの事がない限り関わりたいとは思わないし、ましてあんなに献身的に世話を焼いてやるほどお人好しじゃない」
 怒りに任せて、絳攸は彼女の言葉を情け容赦もなくズバズバと言い捨てる。

 そのあまりの情け容赦のなさに、は驚くやら唖然とするやら。
 いつもだってこのようにズバズバと言い捨てられる事は珍しくもなかったが、今回はどういうわけかまるで口を挟めなかったのだ。

 勢いというか、その言葉の裏に込められた気迫というか。
 とにかくそんなようなものが邪魔して、突っ込むに突っ込めなかった。

 目をパチクリさせているを見下ろして、絳攸はふと口元を緩めた。

「まだわからないのか、
 先ほどとは一転して、彼の声音は実に穏やかなもので。
さらにほぼ至近距離と言って差し支えない場所で囁かれたものだから。

 二重の驚きで頭をやられたは、考えるよりも先に問い変えそうと口を開く。
 否、口を開こうとした。

 だが彼女が口から言葉を紡ぎ出すよりも。
 絳攸が言葉を紡ぎ出す方が、それよりもわずかに早かった。

「危なっかしくて、不器用で、要領が悪くて。そのくせ無茶なことばかりして、全身傷だらけになっても剣を手放さない。どれだけ傷ついても、苦しくても、誰にもそのことを言わない。
そのくせ意志だけは妙に固くて、自分に厳しいくせに妙に他人には優しい。
ハッキリ言って、お前みたいな要領の悪い大馬鹿者を娶る男なんてどこにもいないぞ」

 黎深が正式に後見人を名乗っていない以上、彼女は紅家の人間とは認められない。
 が正式に紅家の性を与えられているのならば、いざ知らず。もとより紅家の居候でしかない今の状態がこのまま続けば、間違いなく彼女はどこかの家に嫁がざるをえないだろう。
 だが、果たしてこのやたらと七面倒な彼女をわざわざ娶るようなお人好しが、一体どこにいるというのか。絳攸が言いたかったのは、おそらくそういう事なのだろう。


 再び俯いてしまったの頬に、手を添えて。
 絳攸は静かに言葉を紡ぎ出す。

「………だから、俺で我慢しろ」

「え? 」

 思いがけない言葉に目を瞠ったの唇に、ほんの一瞬だけ柔らかなものが触れる。


「そのどうしようもなく要領の悪いところも、泣き言一つ言おうとしない頑固なところも、そのくせ思いこんだら一直線で、誰よりも優しいところも………俺は、好きだからな」

 彼の藤紫の双眸に宿る光は、今までが見たどれよりも優しい。
 まるで何かを愛おしむような、穏やかな表情は、あまりに綺麗で。


 見惚れずにはいられなかった。


「武官になるくらいなら結婚しろ。俺が娶ってやるから」

 頬に触れる吐息も。
 真っ直ぐに瞳を覗き込んでくる、紫の瞳も。

 全てが、まぎれもなく本物―――――


 そう結論づけられた瞬間、の頬が耳たぶまで一気に真っ赤に染まる。

 普段よりも一層強く脈打つ心臓の鼓動は、頭の中にまでハッキリと響いてくる。


 苦しいような。
 胸を締めつけられるような、甘美な痛みが。

 ひときわ強く、なったーーーーー



「…………嘘」
 半ば惚けた頭は使い物にはならず、言葉は勝手に口から滑り落ちる。
遅かれしとはわかっていても、自分の口にした言葉を耳で聞いて理解するのとほぼ同時に、言わなければ良かったという後悔の念に襲われた。

「こんなときに嘘をつく馬鹿がどこにいる」
 だが絳攸は特に気を悪くした様子もなく、いつもと変わらぬ様子で答えを返した。

「だって、今朝は……」

「あのな。寝てる馬鹿を起こしに行って、そこでいきなり『好きだ』なんて言われて返事を返せる奴の方が珍しいぞ。……まあ、どっかの万年常春馬鹿なら話は別だが」
 普段の口調で話す絳攸だったが、後半の『万年常春馬鹿』の辺りでその表情は本人全くの無意識ながら微妙に歪んでいた。


「…………私、ずっと絳攸の事、好きでいて良いの? 」
 おそるおそるは、言葉を紡ぎ出した。

「むしろそのままでいてもらった方が、俺としても好都合だ。
どうせ娶るなら、嫌われてるよりも好かれてる方が良い」
 対するその答えは、ひどく穏やかで優しい声音で返ってきた。

「うん………」


 嬉しくて。嬉しくてたまらなくて。

 気づけば、の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「腫れた目元を冷やしてるうちに、また泣いてどうする」

「だって……、嬉しいから……」
 震える声で呟くようにこぼれ落ちたの言葉に、絳攸は呆れたように溜息を漏らした。

「嬉しいなら、泣くな。笑え。お前に泣かれるのは、正直苦手だ」
 ぶっきらぼうではあったけれど、その口調はとても優しい。

「にゅう………、止めようと、してるんだけど、止まらない………」

「………わかった。わかったから、好きにしろ」
 仕方ないなと言いたげな口調で、その声は降ってきた。
 それでも身体に回された両腕の力は、少しも緩められる事はなくて。

 はしがみつくように絳攸の背に手を回して。
 すぐそばにあるぬくもりに頬を寄せて、涙を流したーーー





「………全く、本当に世話が焼けるやつだな………」

「……あいすいません………」

 ようやく泣きやんだの頭を撫でながら、絳攸が溜息混じりに呟くと。
は耳まで真っ赤にして、ぼそぼそと呟くように謝罪の言葉を返した。

「いちいち謝るな、鬱陶しい。
お前が世話を焼かせるのは、今に始まった事じゃないだろうが。
それに、別段迷惑だとも思ってないから気にするな」
 あさっての方向へと視線を遣りながら、言葉を重ねる絳攸。
その頬はわずかに赤く染まっていた。

 あまり見ないその姿が、妙に可愛く思えて。
 は絳攸にしか聞こえないくらいの声で、ぽそりと呟いた。

「………絳攸……、顔赤い」

 図星を指された絳攸は、一気に顔を紅潮させる。

「っっ、やかましいっ!!! いいからさっさと帰るぞ!!!」
 ぴしゃりとを怒鳴りつけると、赤くなった顔を背けるようにして絳攸はさっさと踵を返した。

「はぁ〜い」

 珍しくも顔を真っ赤に染めた絳攸を、ひそかに可愛いと思いながら。
はこみ上げてくる笑いを押し込める事もしないまま、先を行く彼の左腕にしがみついた。

「力を入れてしがみつくな! もう少し離れろ! 」

「別に良いじゃん。私、そんなに胸ないし」
 あっけらかんと言われた台詞に、絳攸は一瞬その場に硬直する。
それと同時に、どこまでも無自覚無意識なの感覚に、呆気にとられずにはいられなかった。

「………いいから離れろ。でないと、襲うぞ」

「絳攸にだったら、別に襲われても良いけど」

 半ば冗談交じりに言ってみた言葉に、から返ってきたのは承諾の意を示した返答であった。
 まさかそんな答えが返ってくるなどと露ほどにも予想していなかった絳攸は、その先の言葉に詰まってしまう。

 結局返したのは、警告の意味も含んだ一言。

「……………あとでどうなっても、俺は知らんからな」

 しかし、当のはそこまで言われてもニコニコと笑っているだけだ。
 冗談だと思っているのか、はたまた信用されているのか。なんとも判断しがたいところではあったのだが、少なくとも一つだけ言えるのは当人全くの無自覚である事だけ。


(………ったく、この大馬鹿娘が………)

 このどうしようもなく無自覚な虎姫の思考に、頭を抱えたくなりながら。
 いっそ、本気で夜這いに行ってやろうかと思わないでもない絳攸だった。




(完)



*後書き…
・お待たせをば致しました〜、ようやく連作夢の完成でございますっっ(早っ)!!!
題名の通り「一世一代の大告白」をメインにした内容……をめざしたはずなのですが、実際にそうなっているかどうかは……皆様の感覚にお任せをば致します。
私的には甘甘展開を目指したつもりなんですけどね。なんだか最後はいつものノリですな。
でも気づけば、告白どころかさりげなくプロポーズまでされちゃってますね〜。
しかもヒロイン、プロポーズまでされてその返事返してないですな。
ですが、その辺りは絳攸本人もあまり気にしてないようなので、結果オーライ。
一応できるだけキャラは崩さないように、いかにも彼らしい告白を目指したつもりですが、そうなってなかったならごめんなさい。
キャラ崩れ云々と言えば、全国の鳳珠様ファンの方々に謝罪をば。
スミマセン。鳳珠様、思いっきり崩れてます。
鳳珠様がヒロインを溺愛してる辺りのお話も、そのうち書かないとなぁ……。
最後になりましたが、このお話の続きを待っていて下さった方やいろいろとご感想を下さった皆様方、本当にありがとうございました。これだけ早く連作を終了出来たのも、読んで下さる皆様と励ましの言葉を下さった皆様のおかげです。