ちゅん…ちゅん…

雀の声が聞こえる。

朝食を催促する鳩の鳴き声も聞こえてくる。




(あぁ…、もう朝……。でももうちょっとだけ、寝かせてよぉ………。
あと五分で起きるから………)


 朝日が差し込む窓に背を向けるように、寝返りを打って。
はまた、眠りの世界に堕ちていく。


 そんな彼女を再び現に引き戻しかけたのは、聞き慣れた怒号だった。

「…いつまで寝てるつもりだ、馬鹿!とっとと起きろ!!」
 最近ではすっかり日常と化している、この光景。いつもならば、絳攸の怒鳴り声でもぞもぞと起き出す彼女だが、本日に至ってはなぜか勝手が違った。

「………みゅうぅ……、あと五分だけぇ……。」
 上から降ってくる怒鳴り声ももろともせず、は掛け布団の中に潜り込む。

「いい加減にしろ!もう朝飯はできてるんだぞ!!!」

「……はれ…、朝ご飯、できてるのぉ…?
ん〜………でも、眠いのぉ……。あとで、いい……」

「ふざけるな!!いいから、いますぐ起きろ!!!!」
 怒気のはらんだ声とともに、が潜り込んでいる布団がすごい勢いで引きはがされそうになる。
彼女は彼女で、取られてなるものか、と掛け布団を握りしめて必死でしがみつく。

 が。
 単純な力の勝負では、絳攸の方に軍配が上がるのは無理もない。身体にかけ布団を巻き付けて、必死に抵抗を試みていただが、結局は掛け布団を引きはがされてしまう。

 しかし。それでもまだ、彼女は起きようとはしない。
身体を猫のように丸めて、未だ布団の上に寝っ転がったままだ。

「………うにゅぅ………、まだ寝たい〜……」

「そんなに寝たければ、朝飯を食った後に寝るんだな。」

「…………こ〜ゆ〜………、私に、そんなに起きて欲しい?」

「お前が起きないことには、朝飯が片づかないだろうが!
いいからまずは、とっとと起きろ!!!!」
 まるでどこぞの主婦のような台詞を口走る絳攸だが、事実である。
が朝ご飯を食べ終わらない限り、食卓を片づける事ができないことは確かだ。
確かだが、それを気にするべきは屋敷の女官たちであって、間違えても絳攸ではない。
 だが、悲しいかな。の保護者的立場の人間と周りに理解されている為、彼女の起こす不始末への苦情は全て、絳攸に回されてきてしまうのだ。
 本来の保護者的立場にあるのは黎深なのだが、彼にそのようなを報告したところで適当に受け流されるのが目に見えているからであろう。さすがに屋敷に長年仕える者たちは、自身の使える主たちの性格を正確に把握していた。


「………ん〜………じゃあねえ……………、キスしてくれたら起きてもいいよぉ……?」
 黒曜石を思わせる漆黒の双眸は、わずかに閉じたまぶたに隠れてしまっている。
まだ寝足りないのか、わずかに開いたまぶたが時折、完全に落ちていく。
完全に頭が起きていないのか、はたまた寝惚けているのか。
おそらく彼女の頭の大半は、未だ眠りの世界から足を洗っていない。
 であるからして、は自分がついさっき何を口走ったかも理解してはいるまい。

「………は? 」
 聞き慣れない言葉に、絳攸は半ば呆れ同然の呟きを漏らした。

「……だから〜、……キスしてくれたら、起きるの〜」
 一方のは、やはりまだ眠りの世界に両足をつっこんでいる状態らしい。
普通に脳が働いている状態だったなら、すぐに絳攸が一体何に疑問を感じているのか、すぐにでもわかったであろうに。
 いや、そもそも脳みそが稼働していたのなら、まずこんなことを言い出しはしない。

「まだ寝惚けてるのか、お前は……」
 目の焦点が虚ろな事、加えて声音そのものがひどく眠たげであったことから。
彼女の要求が何であるかは解らなくとも、とりあえずがまだ完全に目覚めていない事だけは理解出来た。
 彼女の寝起きの悪さは今に始まった事ではないが、本日の目覚めの悪さはいつものそれを遙かに凌ぐ。よほど遅くまで起きていたのか、あるいは昨日よほど疲労していたか、そのどちらかであろう。

 何もないならば、このまま寝かせておいても構わないのだが、あいにくと今日に限ってはそうもいかなかった。は本日の午前中、黎深と共に出かける都合があったのだ。

「いいから、さっさと起きろ!お前は今日、黎深様と一緒に出かけるんだろうが!! 」
 羨ましいと思う反面、おそらく今日一日を彼に振り回されて過ごすであろうを不憫に思いながら。絳攸はの上体を半ば強引に抱き起こすと、頬をペチペチと叩いてやる。

「……ん〜…、もぉ……うるさいなぁ………。
キスしてくれないのに……、起きろなんて………お門違い………」
 まるでとんちんかんな事を言いながら、は猫が顔を洗うそれによく似た仕草で目の辺りを擦る。

「あのな。お前の国の言葉で言われて、俺が理解出来るはずがないだろうが。
してほしいなら、そのキスというのが一体何の事なのか説明しろ! 」


 あぁ。これぞまさしく、知らぬが仏なり。


「……ん〜………、えっっとねぇ………」
 聞かれては、寝惚け眼を擦り擦り。なんとか分かり易く答えようとする。

 が。

「うにゅ………。説明……より、こっちの方が早い〜………」
 言うなりは、絳攸の首に両腕を絡める。
そうして彼が何かを言おうとするよりも先に、己の唇を彼のそれに重ねたのだった。

 完全に出鼻を挫かれた絳攸は、一瞬何が起きたのかわからなかった。

 だが、鼻をくすぐる甘い香りと。唇に触れる柔らかな感触に。
まるで酩酊した時のような、心地よい浮遊感と幸福感に堕ちていく。

 けして合意ではない一方的な口づけではあったが、不思議と不快感はなかった。

 不快というよりもむしろ、心地よくて。
 一種の高揚感と穏やかな快感とが、まるで波のように打ち寄せてくる。

 それでも冷静な頭の一部分が「こんなことをしている場合か」と告げてくるものの。
偶然にも飛び込んできた快楽を手放すつもりなど、もとよりなかったから。
彼は躊躇うことなく、傍にある少女の身体を抱き寄せた。



 どれくらいの時が経ったのか。

 訪れた時と同じように、前触れもなく柔らかな感触が離れる。


 気づけば閉じていた瞳を開けてみれば、至近距離と言って差し支えない位置に少女の顔がある。先ほどまで頑なに閉じられていた瞳がようやく開かれて、わずかに潤みを帯びた漆黒の双眸はぼんやりと絳攸の瞳を見つめていた。寝起きで化粧などしているはずもないのに、頬はほんのり桜色に染まり、唇は紅でもつけたかのように綺麗な紅色に染まっていた。

「………あ、おはよ……」
 いかにも寝起きですと言わんばかりのうすぼんやりとした口調。
まるで熟れた果実のような瑞々しい紅色の唇が、かすかに揺れて言葉を紡ぎ出す。


 ゆるやかに開閉を繰り返す紅唇も。
 柔らかな桜色に染まる頬も。
 わずかに潤んだ、闇色の双眸も。

 そのどれもが、鳥を引き寄せる花のように。
再びあの心地よい時へと誘うように甘い香りを漂わせている。


「………


 目の前の少女を、猫の子だと。思っていたのはいつまでだったろう。
 傷ついた猫の子は時を経るごとに、間違いなく成長していて。

 性質は猫の子のままだが、姿は間違いなく“年頃の少女”であって。
 今更ながらに、彼女が“虎の姫君”であることを思い出す。

 凛とした眼差しの奥には、香り立つ花のような光すら秘めていて。
 じゃれつく猫のような仕草の中にも、時折色香にも似た甘さを感じたのも確か。



 まるで壊れ物にでも触れるように、絳攸の指がの頬に触れる。
 真っ直ぐにこちらの瞳を覗き込んでくる藤紫の双眸は、いつになく真剣味に溢れていたけれど、同時に不可思議な光彩すら放っていた。
 触れた指はまるで頬の線をなぞるように滑り落ち、気づけば顎の辺りに触れている。

「……絳攸? 」

 愛しい人がすぐそばにいて。至近距離で視線が交錯しているこの状況で。
本来ならもっと胸躍ってもおかしくないというのに、の心は信じられないほどに凪いでいた。
心はまるで波紋一つない、他の何かを映す鏡面のように静寂に満ちている。
 それでいて、頭のどこかは冷めている部分と熱している部分とがあって。

 なのに、指一本を動かす事も出来ない。

 出来るのは、目の前の青年の瞳を見つめ返すことだけ。
 魅入られたように、ただひたすらに。
 は絳攸の藤色の双眸をぼんやりと見つめていた。



 呪縛が解けたのは、顎を持ち上げられたその瞬間。


 だけどその先に待っていたのは、瞳の呪縛よりもなお強い束縛だった。



 それは触れるだけの、軽い口づけ。

 だけど、にとっては極上の秘酒にも勝る、最高の密蝋。
 甘くてほろ苦い、それでいて心地よい快感へと誘う幻の秘酒。

 何よりも彼女が望み、そして夢に描き続けた、手の届かない高嶺の花。

 勝る美味など、この世に存在するはずもない。