『来たかーーー』
まるで地球を宇宙から見下ろしているような錯覚に陥る、深い闇の中で。
大陸一つを幾重にも取り巻く巨大な大蛇が、ゆっくりと鎌首をもたげる。
その瞳に宿るのは、確かな知性の光。それもそのはず彼は、ただの大蛇ではないのだから。神界のトリックスター、欺瞞の象徴とされる邪神ロキ。トリックスターの名は伊達では
なく、彼はどの神々よりもずる賢く狡猾であった。ゆえにその血を受け継ぐ大蛇――世界
蛇もまた、知性に富んだ存在である事に間違いはないであろう。
「来ましたよ、勿論。“飛ぶ鳥あとを濁さず”というでしょう?
昨日尸魂界へ行けたのが偶然の産物だったとしても、私は露天風呂のお湯をどうにかしな
い限りは死ぬに死ねないんですよ」
鎌首をもたげた世界蛇の姿を、私は遙か遠い高み(宇宙)から見下ろす。
腕組みするその姿は、睨んだ通り。床に入った時の姿のままである。
やっぱり寝間着に着替えなくて良かった………。
【眠りと共に、幻は再び】
『妙なところで律儀だな、お前は』
まるで奇妙なものでも見るような目でもって、こちらを見上げてくる世界蛇の頭を片手
で鷲掴みにしてやりたい衝動に駆られつつも。
なんとか衝動を抑えつけながら、私は極力平静を装って相手に言葉を返す。
「私の祖国は、律儀なお国柄ですから。
ところで世界蛇、あなたに一つ聞きたい事があるのですが、宜しいですか? 」
『わかっている。我があちらの世界で具現化した姿――刀のことだろう』
歯に衣着せぬ勢いで単刀直入にズバリと切り込んだのだが、向こうはさほど驚いた様子
もなく対応をしてくれる。
というか……、わかっているなら始めからさっさと言っておいてよね……。
『無理を言うな。我とて万能ではない。一度も行った事のない世界で、己の姿がどう変化
するかなど、いかな神とて理解する事は敵わぬよ』
心の中でボソッと呟いただけのつもりだったにも関わらず、世界蛇は私の心内の呟きに
対して実に的確な答えを返してくれた。
万能じゃないと言いつつも、人の心は読めるんですか。
「じゃあ一度は行ったんですから、もうおわかりですよね? 」
『うむ。大方はお前が睨んでいる通りだ。
我はあちらの世界で、異名と同じ数だけの属性を持つ魂魄刀となっているようだな』
魂魄刀…というのは、“斬魄刀”の事だろう。おそらくは。
まあ、確かに世界蛇の魂魄がそのまま刀の姿をとっているのだから、“魂魄刀”という名称
も間違っているとはあながち言い切れない。
「どれも等しく本名だと? そういうことですか? 」
『正確には少し違うがな。我はこちらの真名をもって、三つの属性を持つに至った。
だがそれはあくまで我らの世界で通用する名であって、あちらの世界で通じる真名ではな
いようだ』
「つまり……、世界蛇・ヨルムンガルド・ミドガルドオルム以外に、斬魄刀本来の名前が
存在していると。そういうことですか? 」
なんともまあ、ややこしい……。
『そういうことだ。あくまでこちらの真名は、我の属性を具体的に使役する際に必要な言
霊。あちらの世界で通じる真名、お前の言葉を借りて言うならば“斬魄刀”の真名は、他
にあるらしいな。最もその名までは我は知らぬが』
「………なるほど」
つまり斬魄刀の名前は、ちゃんと自分で聞きなさいと。そういうことですか。
『だがお前ならば知っていよう。我はお前の魂の半身ゆえ、その魂魄刀はいわばお前の魂
そのもの。我が名が持つ属性のうち一つは、お前の魂の色を深く引き継いでいる。
その色こそ、魂魄刀があちらの世界で真の力を解放する引き金となる鍵に他ならない』
……とりあえず、斬魄刀の名前はやはり自分で聞き出さなきゃいけないわけね。
「質問を変えます。貴方が持つ属性は、熱以外に何? 」
『我が持つもう一つの属性は、海。生命を生み出せしもの、遙かなる深淵に眠りし力。
我が永き時を淵なる深淵で過ごしたときに、理解し、生み出した力だ』
「海。それも深海を統べる力……、それが貴方の持つもう一つの属性なんですね」
『いかにも』
私の言葉に、世界蛇は胸を張って答える(比喩)。
「貴方が深海を統べるというのなら………、海に関することには多少の融通は利くと考え
ても良いんですか? それなら一つ、お願いがあるんですけれども……」
『願うも何も。向こうの世界へ行けば、我の意志はそのほとんどが霧散する。
ゆえに、あちらで何かを望むのならば、我ではなく“斬魄刀”そのものに頼むのだな』
「……したくても、斬魄刀と会話が出来ないですってば」
斬魄刀と会話――すなわち“対話”は始解に至るまでにクリアするべき絶対条件の一つ
である。私みたいに死神でもない、まして斬魄刀を持ったのは昨日が初めてという人間が
斬魄刀との“対話”が出来るわけがないではないか。
『出来ないと決めつければ、出来る事も出来なくなる。
出来ると決めつければ、出来ない事も出来るようになるものだ』
諭すように言う世界蛇の言葉は、不思議と私の身体の中に染み渡る。
亀の甲より年の功。千年万年単位で生きてきた彼(?)の言葉には、有無を言わさぬ説得力があった。
まあ、要するに……某学園長のように「忍術はガッツじゃ!」のノリで行けと?
「………肝に銘じておきます」
『うむ。そろそろ時間だな』
世界蛇がその長い首を伸ばして、虚空の彼方へと視線を遣る。
私も彼(?)にならってあさっての方へと視線を遣ると、闇に包まれていた空間に差し
込む白い光が見えた。
おそらくは、あれが、私をBLEACH世界へと誘う光――異世界に続く扉。
「それでは、行ってきます」
そう言うが早いか、私の意識はまばゆい白光に呑み込まれるーーーーー。
目もくらむような閃光がおさまった後、私の目の前に広がっていたのは、以前と同じ雪
景色……ではなかった。
「あ、れ……? 」
代わりに感じるのは、奇妙な感覚と。辺りに漂う、濃密な圧迫感。
灼熱の気配と絶対零度の冷気、煌めく鋼の冷たさと、大地を吹きゆく風の刃。
風雅に舞う華の色と薫香を寄せる天津風、打ち寄せる細波と暗雲切り裂く一条の光。
五感全てを覆い被す深い濃霧、咎人の胸を貫きなお燦然と輝く一対の穂先。
辺りに漂う独特な感覚は、着衣で隠れているはずの素肌をもチリチリと、確実に少しずつ焼き焦がしていくかのようだ。
何かを目にしているわけでもないのに、脳裏を次々と過ぎる光景。
森羅万象を形成する世界の礎。世界を形作る五つの元素。
脳裏を過ぎるそれらは、映像でありながら、視界だけでなく触覚や感覚にすら何かを訴えてくる。
何? この感覚は、一体何?
知らない、こんな感覚、私は………知らない!!!
ギュッと奥歯を噛みしめた瞬間、両手に生まれる一つの熱。
気付いて見下ろせば、それは見事な装飾の施された柄と黒い鞘に包まれた長身の刀。
「……私の、斬魄刀……」
無意識に呟いたその声に応じるように、刀が一度だけ大きく脈打った。
そして、私の視界は一気に開けるーーーーーーーーーーー。
臓腑の位置が下がったような、奇妙にして特徴のありすぎる浮遊感覚と共に。
「へ……? 」
開けた視界に映るのは、TV画面でも見た事のある大きな部屋。
壁に掛けた長い掛け軸を背にした椅子には、風格と威厳とを携えた一人の老人の姿。
老人の全面左右には、白い羽織を羽織った人々が数人立ち並んでいた。その様は、まるで玉座に座る王とその側近の図を彷彿とさせる。
見覚えがある、どころの話ではない。
私の記憶に間違いがなければ、ここは………護廷十三隊の隊長たちが集まる場所。
隊首会に使用されている部屋………ではないか。
あまりのことに呆然とする私だが、呆然とし続けている場合ではなかった。
なぜなら、私は今。
何もない空間を落下する、真っ最中だったのだから。
「ちょっ………!!!! 」
あまりのことに、声すら出ない。
声も出せぬまま、私の身体はただひたすらに落ちるしかない。
それなりに運動神経が発達していれば、あるいは受け身を取ることも出来たのだろうが、
あいにくと学生時代を通して、私の体育の成績は常に「3」である。
並みか、並みよりやや下回るこの運動神経で、どうやって受け身を取れというのか。
いや、それ以前に私、このまま床に激突して生きてられるのか?
(いくらなんでも、このまま死ぬのだけは勘弁してっ!!!!)
だってまだ、私はお風呂のお湯を元通りにしていない。
そもそも女風呂のお湯を蒸発させたのが、自分である事も申告してない。
それに折角護廷十三隊の隊長全員を実写で見れるのに、見る前に死ぬなんて勿体ない!
せめてお湯を戻すまで…、いや出来れば隊長さん全員を実写で見るまで私を生かして下さい、神様っっ!!!!
その願いが通じたのか、はたまた心の叫びが通じたのか。
幸いなことに、私の身体が床に叩きつけられる事はなかった。
ふわりと風に攫われるかのように、落下し続けるはずの身体が重力の楔から解放される。
「もう大丈夫だ。そっと目を開けてご覧」
すぐそばで聞こえた聞き覚えのある声に、私はそっと目を開く。
目を開きーーーーーー、そのまま思考回路も何もかもが停止、硬直した。
癖のある黒褐色の髪は無造作に項付近で括られ、間近に迫る黒褐色の瞳には穏やかな光が灯る。何気なく見ただけでは見過ごされてしまうだろうが、その奥には深い英知の輝きが秘められている。青年と言うにはいささか年を重ねてはいるものの、鼻梁の通った彫りの深い面立ちは端整と呼ぶに十二分に値する。むしろ逆に年を重ねた分だけ、年若い青年にはない大人の色気が漂う。一言で言うならば、二枚目の渋いおじ様であろうか。
目深にかぶった網代傘と、白い羽織の上に羽織った華やかかつ色鮮やかな羽織と。それらの特徴的すぎる特徴を持った人といえば、ただ一人しかいない。
京楽隊長―――――――っっ!?
実写で見ると、ものすごく渋くて素敵なおじ様なんですけどーーーー!!!
加えて自分が今、京楽隊長にお姫様抱っこされている状況にある事を把握し、嬉しい意味の驚き連続で、茫然自失。結果的に助けてもらったのだから御礼を言わなくては、と頭では思っているのに、肝心の身体は一向にビクともしない。というよりも動けない。
一向に私が身動きしないのを不思議に思ったのか、京楽隊長は更に間近から私の顔を覗き込んでくる。
「お~い、起きてる? 僕の声、ちゃんと聞こえてるかい? 」
はたと気付けば、深い黒褐色の双眸に私の姿がはっきりと映っているではないか。
驚くやら、恥ずかしいやら。むしろ…、後者。
「はっ、はいっ! とても渋くて素敵なお声ですね」
慌てて我に返ると同時に勢いで口走った言葉は、まさに私が思っていたことをそのまましっかりと言葉にしただけの本音も本音。本音中の本音であった。
って、ちょっと待て、私。何を口走ってるのよーーーーーーーっ!!!
こんな返答がくるとはさすがに思わなかったのか、京楽隊長は一瞬きょとんとしたようだったが。すぐに持ち直すと、大仰に溜息をついて自嘲気味に吐き捨てる。
「声だけかぁ…。まあ仕方ないか、君から見れば僕はただのおじさんだろうしなぁ」
「いえ、そんなことは! 声も容姿も渋くて素敵なおじ様だと思いますけど…っ」
反射的に京楽隊長の言葉へ反論し……、またまたとんでもないことを口走っていることに気づいたのは、すでに最後まで喋りきった後であった。
……これってもしかして、さりげなく誘導尋問ならぬ誘導発言させられてる?
はたと気付く私だが、つくづく気付くのが遅すぎたのかもしれない。
「ん~、いいねぇ、君は素直で可愛いなあ。よかったらうちの隊に来ないかい? 」
そんな私の心情など露知らず。京楽隊長は途端に真面目な表情を崩し、鼻の下を伸ばして笑みを浮かべたと思うと、なぜか更にこちらへと顔を近づけてくる。しかもそれだけに留まらず、挙げ句の果てにさらりとスカウトまでされる始末だ。
てか、そんなに簡単に隊員スカウトしていいんですか???
「女を口説くなら時と場所を考えろよ、おっさん」
聞き覚えのある声が、心底呆れたと言わんばかりに京楽隊長の行動を咎める。
私は身を乗り出し、声のした方――とどのつまり下――を覗き込んだ。
「日番谷隊長! 」
私がそう呼べば、彼は翡翠の双眸に不敵な光を浮かべてみせる。
「よぉ。また来るだろうと予想はしていたが、よりにもよって隊首会の最中にしかもココ
へ出てくるとはな。つくづく運が良いのか、悪いのか、わからん奴だな」
「予想してたってどういうことです? 」
首を傾げて問いを投げれば、日番谷隊長は頭を掻きながらきっぱりと言い切る。
「説明してやるから、まずはそっから降りろ」
この場合の『そっから』が指すのは、明らかに京楽隊長の腕の中からという意味だろう。
私は下ろしてもらおうと彼に目配せするが、その意味を理解しないわけでもないだろうに、
なぜか京楽隊長は下ろすどころか、より一層私の身体を支える手に力を込めた。
「僕の事なら気にせず、そのまま話を続けてくれて一向に構わないんだけどねぇ」
「女癖の悪いおやじは黙ってろ。櫻井、いいからさっさと降りてこい」
日番谷隊長は鋭い目で京楽隊長を睨みつけると、顎をしゃくってもう一度私に降りてく
るように要求する。
「あ、はい! あの、助けて頂いてありがとうございました。助けてもらっておいてこんな
ことを言うのも申し訳ないんですけれども、そろそろ下ろして頂けませんか? 」
「……女の子の頼みは断れないからね。仕方ないなぁ……」
残念そうな色が見え隠れする声で呟くと、京楽隊長は私の身体をゆっくりと下ろしてくれた。日番谷隊長は女癖が悪いと言うけれど、結構紳士的だと思うのは私だけだろうか。
「ありがとうございます……、えっと……」
「京楽春水。よかったら名前で呼んでくれると嬉しいなぁ」
「………ありがとうございました、京楽隊長。
それと申し遅れました、私、櫻井らりさと申します」
一瞬、どう呼ぶべきか迷いに迷ったのだが、結局普通に呼ぶ事にした。
いくらなんでも初対面で、名前で呼ぶなんて馴れ馴れしすぎる。
「らりさちゃんだね、よろしく」
少しだけ残念そうな表情は浮かべるものの、京楽隊長はそれ以上おちゃらけた様子を見せることなく、大きな手で私の頭を優しく撫でる。その様子は至ってきさくなおじ様といった風情で、是非親戚に一人は欲しい人だなぁなんてひそかに思ってみる。
「おい、説明聞く気があるのか? 」
日番谷隊長は、ジト目でこちらを睨め付けてくる。
「聞きます、聞きますです! 」
私は慌てて日番谷隊長のもとに駆け寄った。
「まずは確認だが、お前はあの後元の身体に戻って目覚めた。違うか? 」
「はいそうです。でもなんでそのことを…」
まだ話してもいない事を先に指摘されて、私は目を瞠らずにはおれない。
日番谷隊長は、呆然と目を瞬かせる私の額を指で弾き小突いた。
「夢を介してこっちに魂魄が流れてきたなら、身体が目覚めを要求したときに魂魄を呼び戻すことくらい出来るだろう。もとより肉体と魂は切っても切れない深い繋がりを持ってるものだからな。そのくらいのことは予測出来る。それと同時に、お前が再びここを訪れるかもしれない可能性も、全くないとは言えないわけだ。ここまではいいか?
」
「はい。それで、運が良いとか悪いとかって何ですか? 」
「最終的には総隊長のところに連れてくる気でいたけどな。まさかいきなり総隊長の前に出てくるとは、正直思いもよらなかった。最初に俺のところに来れば、多少心の準備をする時間くらいはやれたんだがな。まあ、仕方ない」
なんでもないことのようにそう言って、日番谷隊長は肩をすくめてみせる。
「要するにぶっつけ本番という事ですか」
山本総隊長相手に、リハーサル無しでぶっつけ本番というのは……正直心細いのだが…。
仕方ない。これも運が悪かったと思って諦めよう。
⇒
後編へ続く