『彩雲国李家骨董店』
                   二



 通りに雨が白く煙っている。

「よく降るなあ・・・商売あがったり、だ」
 はいつもの椅子に座って店番をしていた。朝から客は、ない。
独り言の癖がついて、客の選別(「買い」客・「売り」客・ひやかし)がひと目でできるようになって、蔵に入るのも(昼間限定で)平気になった。

 店の前に軒が止まって人が下りてきた。雨を避けるように店に入ってくる。

「凜姫」
 久しぶり、と微笑む男装の麗人は柴凜。女性にして全商連茶州支部長の肩書きを持つ。

「さて、大商人の柴凜様、しがない骨董屋にどんな御用ですか」
 おどけるを軽く睨んで柴凜は応じた。

「イヤミを言わないで欲しいな。今日はに会いにきたんだよ」
「ふうん・・・」
「あ、何か売りつけるつもり?・・・そうだな、特に欲しいものはないけど何かお勧めはある?」
「お客様、いいことをおっしゃる!」
 は右奥の棚から箱を取り出して商談用の大きな円卓にのせた。

「ん?硯箱?」
「そう。碧州の細工師の手による硯箱と、中に入っているのは正真正銘、
茶州虎林郡石榮村の榮山石の硯だよ」

「榮山石の硯、か。」
 柴凛はくすり、と笑って箱を開けた。

「そういえば、初めて会ったときにも榮山石の硯の話をしたね」

 骨董屋を始めたばかりのに榮山石の硯の品質と見分け方を教えてくれたのは、茶州出身の柴凛だった。全商連が女性に門戸を開いているとは言っても、女店主は数少ない。しかも骨董屋は珍しかったので以来、親しく会話するようになり、友人になった。

 硯は優雅な曲線を描いた長方形で、特に凝った形には見えなかった。しかし硯箱のほうは、よく見ると側面にさまざまな文具や工具が浮彫りになっている。筆・唐墨・硯・料紙・文鎮・水差し・尺・紙刀・墨壺…。
 柴凜は改めて硯箱を手に取り、ひとつひとつの浮彫りを丹念に見ている。その姿はまるで柴凜自身が硯に装飾を施しているように見えた。

 は話しかけるのをやめて、そっと席を立った。
音を立てないように茶器を用意し、ゆっくりと茶を淹れた。
薄暗い店内に雨の音がこもり、茶の湯気が漂う。柴凜は漸く顔を上げた。

「ああ、お茶を淹れてくれたのだね。ありがとう」
「ずいぶん熱心に見ているね、凜姫。たぶん好きな意匠だろうと思ってはいたけど」
「・・・、これ、売ってくれる?」
「いきなり欲しいとは商人らしくない言いようだね、凜姫。買い物をするときはいつだって、まずその商品の価値と対価をよく考え、判断してからだ〜とか言って交渉から始めているじゃない」
 柴凜は硯を卓に戻し、湯飲みを手に取って香ばしい茶の湯気に目を細めた。

「・・・こういうものは、縁だよ」
「縁?」
「そう、縁。巡り会ったらそのときに手に入れなくてはもう出会えないもの」
「いっぱしの骨董好きみたいな言い方」
「そんな風に笑わないでほしいな。もちろん、対価になるものは用意してきているよ。買い取って欲しい」
 実はそれが、今日ここに来た目的だったりして、とを見て笑う。
柴凜は腰に手をやって小刀をはずし、円卓に置いた。鞘は木製で皮が巻かれ、黒漆で仕上げてある。柄糸の下に青みがかった玉がはめ込まれているのが見えた。刀身は細身でわずかに反りがついている。

 手にとって見るに柴凜が説明した。
「一応、守り刀だよ。柴彰がくれた。女人向けにすこし細身に作ってある」
「柴彰からもらったの?それを、売る気?これから茶州に戻るなら必要なものじゃないの?」

 茶州、と聞いて柴凜の瞳が揺れた。
「確かに茶州は動乱の最中。生命の危険もあるだろう」
「だったら」
「でも、私は商人だよ。武器は必要ない」
「護身用に持つことは必要だよ」
「・・・嫌なんだ。武器を持つと、使いたくなるから。使わずにいられる自信がない」
「凜姫・・・」
「それに、筆は剣よりも強し、というじゃないか。私はそっちのほうがいい」

 取引成立だね、と柴凜が笑顔を見せて立ち上がる。
は座ったまま、柴凜の笑顔を見上げた。

「・・・貴陽土産ではなくて、茶州産の硯を土産に茶州へ行くなんて」
「・・・まったく」
 思わず吹き出してと柴凜の目が合う。

「ありがとう、
「こちらこそ、ありがとうございました。柴凜様」

 立ち上がって一緒に通りへ出る。雨はやみかかっていた。
待たせておいた軒に柴凜が乗り込む。窓が開いた。

の店で出会うものには、いつもなにかがある。私はそう思っているよ。だからあの短刀も私以外の誰かに出会うだろうし、私はこの硯を見て画期的な発明ができるんじゃないかな」
 最後は冗談らしく笑いながら言った。は軽くうなずいて別のことを言おうとした。

「凜姫、」
「ああ、が心にかけてくれているのは知っている。でも私もそろそろ考えるときがきていると思うんだ」

(優しい彼のひとに何度も「否」と言わせている・・・)

 口元にひっそりと微笑を浮かべる柴凛を見て、は胸を締めつけられた。

「・・・では」
 躊躇った後、はその名を口にした。
「鄭州尹によろしく」

「・・・伝えましょう」
 切なげな微笑は鮮やかな優しい笑顔にかわり、柴凜は去った。
茶州州尹の鄭悠舜。柴凜が想いを寄せて、もう何年になるだろう。

(凜姫は、あきらめるつもりなのか・・・)

 茶器を片付けながらは腹立たしく思う。
柴凜には、絶対に幸せになって欲しい。

 雨がやんで日が差した。光が剥き出しの刀身にあたって反射し、の目に飛びこんだ。
強い光に目が眩んだ刹那、李の花が見えた。

の店で出会うものには、いつもなにかがある)

「・・・行かなければ」
 は短刀を握ったまま奥の扉を開け、中庭を駆け抜けて李の木に立ち、枝を見上げた。雨にぬれて光る青葉がまぶしい。花はとうに散ってしまっていた。今年もこの李の実は、生らない。
そう思ったらなぜか柴凛の笑顔と李の花が瞼に浮かんで消え、涙が出た。

 本当は切ないはずなのに、どうして柴凜があんなに優しく鮮やかに笑えるのか、わかった気がした。

(幸せなんだね、凜姫。彼のひとを想うだけで)

 その想いは返されることがなくても、その人の幸せを願うことが自分の幸せになる。
それでも、は願わずにはいられなかった。

 いつか、想いが実を結ぶようにと。

 雲間に青空が見えた。日差しはもう夏を思わせる。にじんだ涙を袖でぐいと拭い、右手に小刀を引っさげて仁王立ちする自分の影に気づき、は大笑いに笑って店に戻った。
小刀を鞘に収め、丁寧に鞘をぬぐうと帳場の横の棚にそっと置く。柄に埋め込まれた玉が鈍く光るのを横目でみて、はおもむろに椅子に座り、いつものように店番を再開したのだった。





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