日本全国どこにでもありそうな喫茶店の一角。店内の雰囲気も店の従業員たちの接客態度も随分と良いその店は、私のような苦学生(正確に言うと、学校にはもう行ってないんだけど)が足を踏み入れるにはいささか敷居の高い場所と言えよう。
だが。今回の支払いは全て「相手の奢り」ということだったので、私は嬉々としてこの高そうな喫茶店へと足を踏み入れたのである。
「よくそんな甘ったるい飲み物を飲めるな」
半ば呆れたような口調でそう言ってきたのは、老若男女誰から見ても文句なしの美貌を誇る青年――有田克也氏である。店内は冷房が効いているとはいえ、長袖のワイシャツの上にこれまた長袖の麻のジャケットを羽織ったままで、汗一つかかずに平然としている。 だが、さすがに熱い飲み物を頼む気にはなれなかったのか。
珍しくも彼が頼んだのは、アイスコーヒーであった。無論、ブラック無糖の。
「甘ったるいって……、そんなにベタベタに甘くはないわよ。
あ、でも克也にはそう感じられても仕方ないか」
クールでニヒルな二枚目の容姿に違わず、克也は甘い物が苦手である。彼からしてみれば、私が頼んだ桃のタルトーー桃と桃ムースとカスタードの三層からなるそれーーはいかにも甘そうに見えるだろうから、辟易するのも無理はない。
「お前が極端に甘党なだけだと思うがな。太っても知らんぞ」
普通なら多少なりとも口に出す前に考えるであろう“対女性用禁止用語”の一つ。
だが克也は、まるで躊躇う様子もなしにいともあっさりと吐き出してくれる。
「やかましい。ちゃんとカロリー計算くらいしてるわよ! 」
私はやや抑えた声量で、それでもしっかりと相手を怒鳴りつけた。
いくら相手が歯に衣着せない毒舌家(ある意味正直者ではあるのだが)であることを承知していようとも、やはり面と向かって言われるとカチンときてしまう。
ましてその相手がそれなりに好意を………いや、特別な意味で好意を寄せた相手に言われると余計に堪えるもので。まあ、当然と言えば当然の反応だと思う。
「ほぉ……。甘いケーキと一緒にガムシロップたっぷりのカフェ・オレを飲んでるやつが、ちゃんとカロリー計算をしているというのか」
だが相手に繊細な乙女心を理解しろという方が、どだい無理な話で。
彼は憎たらしいほどに見栄えするシニカルな笑みを浮かべて、ズバズバと言いたい事を言いたい放題に言ってくれる。
「ぐ………」
さすがにこの言葉には言い返せず、私は言い淀むしかなかった。
「いっとくが、これ以上重くなったら二度と抱き上げてやらんぞ」
「別に抱き上げてくれなくても結構です! 」
「腰が抜けて立てなくなったときも、足を怪我して動けなくなったときもか。なら万一お前がそういう状況に陥ったときには、俺は迷うことなくお前を置き去りにしていくからな」
「薄情者」
「そうさせてるのはお前だろうが」
あっさりと言い放たれたその言葉に、思わず私が相手の気持ちを疑ってしまったのも無理はない。だろうと思う。
本当にこの人、私の事好きなんですか?
考えてみれば、相手は私よりも年上の大人で。対する私は20才にも満たない子供だ。
しかもあっちはイケメンモデルも裸足で逃げ出すほどの美貌の持ち主で、かたや私はそこら辺を探せばどこにでもいるような平々凡々な女の子。
釣り合うどころか、まるで対極。
「美女と野獣」ならぬ、「美男と野獣」。
なのにどうして、こいつは……???
自分の思考に没頭する私を訝しげに思ったのだろう。
「」
克也が私の名を呼ぶ。
一拍遅れて名前を呼ばれたことに気づいた私は、慌てて我に返った。
「……ねえ、克也。私の事、本当に好きなの? 」
「藪から棒になんだ」
「だってさ、どう考えても割に合わないような気がして…」
その先は言葉にしなかった。敢えて言葉にしなくても、多分勘の良い克也の事だから察してくれるだろう。「甘え」だなと思いつつも、それに甘んじずにはいられなかった。
言葉にするにはまだ、勇気が足りなかったから。
私の言葉の後、克也は何も言おうとはしなかった。
破りがたい重い沈黙が、一気に私たちの周りをグルグルと取り巻いていく。
一体どのくらいそうしていただろう。
「。こっちに来い」
前触れもなく声をかけられて、私は顔を上げた。
「は? なんでそっちに行くの? 」
「いいから来い」
こうなってしまうと、克也に何を言っても無駄だ。これ以上意味のない問答を繰り返していても、最後に喧嘩になるだけだ。悔しいがこの場合は、彼の言う事におとなしく従うしかない。従った方がある意味、身のためでもある。
私は席を立つと向かい側に座る克也のそばまで近づいていった。
すると彼は自分の座っていた位置をずらし、目線で隣に座るように指示する。
その通りに私が隣に座ると、克也の手が私の頬へと伸ばされた。
「相も変わらず馬鹿だな、お前は」
「うるさい」
「その上、味覚も思考もお子様ときてる」
「だったらなんだってのよ」
強気で言い返すと、相手はしてやったりと言いたげな表情を浮かべた。
「思考の方は無理だろうが………大人の味覚を教えてやる」
「ちょっとなにをわけのわからないことをいっ…………! 」
一瞬、頭の中が真っ白になったのも束の間。
私はすぐに意識を取り戻して、目の前の男にその言葉の意味を聞き返す。
だがそれよりもわずかに、克也が行動を起こす方が早かった。
彼はまだ残っていたアイスコーヒーを口に含んだと思うと、中身を飲み込むよりも先に、いきなり唇を重ねてきたのだ。一つ前置きしておくが、ここはごくふつうの喫茶店である。当然客もいれば、店員もいる。唯一救いだったのは、座っていた席が奥まった場所にあって、あまり人目につかない場所であったことだろう。
だがそれだけでは終わらなかった。ただ触れるだけのキスかと思いきや、やおら唇を無理矢理こじ開けられて、コーヒーを口の中に流し込まれたのだ。ガムシロップもミルクも入れていないだけあって、すごく苦い……と思いきや。あまりそう感じなかったのは、口移しだったせいなのだろうか。
無理矢理移されたコーヒーを嚥下するも、執拗に攻めたてられて翻弄されーーー。
ようやくキスから解放された頃には、すっかり私の息は上がっていた。
声を出そうにも、こんな状態でまともな声になるはずもないことを経験上知っていた私は、ただ黙って克也を睨みつける。
が、それで相手が怯むはずもなく。逆に彼の気を煽る羽目になってしまう。
「………意外にブラックでもいけるだろう? 」
先ほどのキスの余韻を味わうかのように、彼は舌で唇を軽く舐める。その唇の色は、血色が良いにしてはいささか強い赤みを帯びていた。
単純な話、私のつけていた口紅が相手の唇についてしまっただけなのだが………なんだか妙に気恥ずかしい。
「………………馬鹿克也」
克也の顔から視線を逸らし、私は相手に聞こえない程度の声量で呟く。
だが、唇の動きで私の漏らした呟きを理解したのだろう。
彼は文句なしに整った顔にシニカルな笑みを浮かべると、あさっての方へ向けていた私の顔を無理矢理引き寄せ、至近距離で瞳を覗き込んでくる。
「まだ、足りないみたいだな」
口の端を歪めて囁かれたその声音は、妙に蠱惑的で。私は言い返すタイミングを完全に外されて、唖然とする。その一方で目の前の男に見入らずにはいられなかった。
そうして完全に無防備になった隙だらけの私に、克也は再び強引なキスを落としてくれた。落とすというよりはむしろ、押しつけると言った方が近い…ディープキスを。
「これでもまだ、さっきと同じ質問を繰り返すか? 」
わざわざ聞かなくてもわかっているだろうに、にも関わらず意地悪く訊ねてくる克也。
「………繰り返したら恐ろしい事になりそうだから、言わない」
私は顔全体を真っ赤に染めて、俯き加減のままで答えを返した。
すっかり失念していたのだが、克也は言葉にするよりも態度で示す方が圧倒的に多い。
面と向かって「好きだ」などの言葉を言われた事は限りなく少ないが、キスされたり押し倒されかけた回数は結構あったりするのだ。
「……それにしても、克也。お願いだから、公共の場でこういうことするのは激しくやめてくれない? 周りの目が気になって仕方ないし、恥ずかしいから」
今回はたまたま人が通りかからなかったからよかったものの、さすがに第三者がいる前で迫られるのはいただけない。そんな批難の意味も込めながらも、出来るだけ相手の神経を逆なでしないように気を遣いつつ。私は開口一番にそう言い放った。
だがそもそも相手が相手だけに、その言葉を素直に聞いてくれるはずもない。
「公共の場でなければ、好き放題に遊ばせてくれるとでも? 」
妙に機嫌の良いらしい彼は、口端を歪めて笑みを作った。どことなく皮肉気なその表情はいつもの彼らしいと言えばらしいのだが、私の瞳を真っ直ぐに見据える漆黒の双眸の奧には滅多にお目にかかれないような光が浮かんでいる。
そう。例えるならば、獲物に狙いを定めた肉食獣のような……野性的な光が。
「…………私、まだ未成年なんですが…」
基本的に克也が気まぐれなせいもあって、恋人らしい雰囲気とは無縁な私たちだが。
たまにそれらしい雰囲気にあることもないわけではないのだ。ただしその場合、一気に純愛路線を駆け足で通り過ぎて、アダルティな展開にまで発展してしまうのが玉にキズ。
まあ、相手の年齢を考えれば仕方ないのかも知れないけど。
「あと半年もしないうちに20才だろう? かまうものか」
「あんたがかまわなくても、私が構うのよ!!!! 」
思わず大声で叫んでしまった私の顔は、多分耳まで真っ赤だったと思う。
そして当然の事ながら、喫茶店の中で大声を出した私は一気に店内の視線の的になってしまう。チクチクと身体に突き刺さる視線の痛みを感じながら、私は皆に向かってペコペコと頭を下げた。
ようやく周りから突き刺さる視線がなくなると、私はホッと安堵の溜息を吐いた。
穴があったら入りたい心境というのは、まさしく今のことをいうのかもしれない。
そしてそんな私を眺めるだけの克也はと言えば、意地の悪い笑みを浮かべていた。
普通ならここで文句の一つも言ってやりたくなるところだが、あいにくと克也が相手なら怒鳴るだけ体力の無駄というものだ。
「………はあ。誰かさんのせいで大恥かいた」
「勝手に叫びだしたのは、お前だろうが」
「叫ばせるようなことを口走ったのは、他ならぬ克也でしょう? 」
まるで自覚のない相手に対して、思わず恨み言の一つも漏らしたくなるのは、ごくごく当たり前の心境だと思う。だがそんな私の恨み言一つでどうなるような相手でもない。
話はもう終わっただろうと元いた席へと戻ろうとした私を見とがめ、克也は大胆にも私の腰を引き寄せてそのまま自分の方へと引き寄せてくれた。公共の場で何をしてるんだ、と怒られてもおかしくない行為ではあるが、彼にしてみればまだまだ序の口だ。
ひどいときなんて人通りの多い大通りの中で同じことをやられて、それはもう肩身の狭い思いをしたことがあるのだから。
ほとんど動じない私の反応が気に食わなかったのだろうか、彼はかすかに口元を歪めた。かと思いきや、いきなり克也は私の耳元に顔を寄せてきた。
「嫌がる相手を組み伏すのも面白いが………、まあいい。今はお前の意見を尊重してやる。ただし、おあずけをくらう期間が長い分だけ、こっちも理性のタガが外れやすくなる事も忘れるなよ」
「は…………い? 」
耳に心地よいその美声で囁かれたことも当然ながら、彼の吐息が耳にかかるのが妙にくすぐったくて。ぞくりと背中に言うも言われぬ何かが突き抜けていくのをハッキリと感じながら、私はかろうじて問いかけの言葉を口にした。
すると。克也は喉の奥で笑いながら、再び耳元で囁いてくれる。
「最初だからといって手加減してやれるほど、理性が残ってるかどうかもわからんということだ。次の日一切足腰が立たなくなっても、一切責任は負わないからな。恨むなら散々俺に据え膳を食わせてきた過去の自分を恨む事だ」
響いてくる愛しい人のその声に心奪われながら、ぼんやりとしていたのも束の間。
その囁かれた言葉の内容をゆっくり噛み砕いて、消化して。
ようやく克也が一体なんのことを言っているかを理解した。理解したくなかったけど。
一瞬、本気で視界がフェードアウトするかと思った。
「ちょっと、克也……」
「もっとも……据え膳を食わされようが食わされまいが、状況はさほど変わらんだろうが。
俺なしでは生きていけない身体にしてやるから、せいぜい覚悟しておく事だな」
そう言って不敵な笑顔を浮かべると、克也は私の額を指で軽く弾いたのだった。
そして。とんでもない宣言をされてしまった私はと言えば。
ただただその場に硬直する以外、何の術もなかったのである………。
私の20才の誕生日…もといタイムリミットまで、あと半年。
*後書き…
・本来別の短編の一場面…にするはずだったお話ですが、あんまりにも熱が入って書いていたらものすごい文量になってしまいまして。独立した短編として完成させました、糖度高めの克也夢となります。
先に「大人の味覚、子供の味覚」をご覧になっているといいかもしれません。多分。
一言フォームで「克也とのラブシーンを!」というご要望があったので、さりげなくお答えしてみました。
付き合ってても恋人らしい雰囲気が皆無な二人…と思いきや、たま〜に相思相愛カップルらしい雰囲気もそれなりに醸し出せるんです。ただし、その後アダルト展開直行ですが。
あまりに両極端な傾向のある二人だな……、自分で設定しておきながらそんなことも思ったりします。
書いてて楽しかったのは確かですけど…。
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