ざんばらな長い髪は、目元を覆うほどに長く。髪の隙間から垣間見える双眸に宿るのは、何かに飢えたような貪欲な光。身に纏うすりきれた服は、淡い桃色を基調としたワンピースとカーディガン。まだ春には到底早い季節だというのに、全く寒さを感じていないらしい。当然のことだろう。おそらくは、彼女は現世の人間ではない。
不自然に折れ曲がった腕と骨が突き出ている両足と。不自然な方向を向いた首と半分陥没した顔と。生きた人間ならば、到底歩く事も出来るような状態ではない。身体に走る激痛は想像だにできるものではなく、首の折れ方を見ても確実に脳と脊髄がやられている。
 そのあまりに異様な様子が、彼女がすでに鬼籍にある人である事を物語っていた。
にも関わらず、彼女を取り巻く存在感はとても無視出来ないほどに強い。それこそ生きている人間の存在感よりも何十倍も。


 そして、こみ上げてきたのは生理的な嫌悪感と言うに言われぬ恐怖感。

「…………!!! 」

 悲鳴すら声にならない。声すら声帯の奥でかすれて出てこない。
なんとか自分の足で立っていられたのは、もはや奇跡にも近かった。
いっそ気絶してしまえたら、いっそあの女性の姿を視界から遮断出来たならば。
どれほど楽になった事だろう。

 だが硬直した脳は、思うように働いてはくれない。
理性は“顔を背けろ”と命令するのに、感情が先走っていてまともに命令が届かない。
嫌だと思いながらも、視線は死んだはずの女性の姿に釘付けになっていた。


「……馬鹿っ! あれほど後ろを振り返るなと言っただろうが!!! 」
 足を動かさなくなったーー正確には動けなくなったーー私を振り返って、置かれた状況の全てを把握した有田克也の口から強い叱責の言葉が吐き出される。

 だが神経感覚が麻痺していた私には、全くこの声が届く事はなかった。
 いっそ届いてくれた方が、どれほどよかったことか。

 まるで陽炎のようなオーラを纏った鬼籍入りの女性が、こちらへ向かって手を伸ばす。
 それは生者を捕らえようとするようでもあり、救いを求めているようにも見えた。
 だがあいにくと、私も有田克也も神様でもなければ、聖職者でも僧侶でもない。

 …あ、でも浄化させる事は出来るか。少なくとも後ろの彼ならば。


「……時間外労働、だな」
 ぼやくような声音で呟くと、彼は一歩前に足を踏み出す。
ちょうど、その場に固まって動けない私を背に庇うような形で。

 すると私の視界は遮られ、女性の霊(多分)の姿が見えなくなる……はずだった。

 視界に入るのは、有田克也の背であって。
 間違えても、女性の霊の姿ではないはずなのに。

 私の目が視界に捉えているのは、間違いなく女性の霊。

「なん、で………」

 私は透視なんて超能力は持ってない。
 それ以前にどうして霊の姿が視えるのか。霊感もないのに。
 私は、一般ピープル。平々凡々な一般庶民だ。



 なのに、どうして……。

 思考回路はもうパニック寸前、回線が切れる一歩手前だ。
こうなってしまうと、人間とはどういうわけか現実逃避をしてしまうもので。
かくいう私もすっかりと現実逃避の世界へと走っていた。



(そういえば、今日の音楽の授業で夏の合唱コンクールで歌った曲を歌うんだった。
懐かしいな。歌詞はまだちゃんと覚えてるよね?)

『出だしは確か、ラオダーテ プエリ…』

 Laudate pueri Dominum  
 Laudate nomen Domini nomen Domini
 Sit nomen Domini benedictum….


 頭の中で曲を流していると、途中でその曲は途切れてしまった。
 忘れたわけではない。
 瞳が、まるで熱を持っているかのように、熱くて。考えていられなかったのだ。

 ふわり、と。
 身体が浮いたようにも感じたのは、錯覚か。


 そして再び、私の視界は一面の青に染まったーーーーー



**********************


 ところは変わってこちらは、煉瓦造りの建物――官公庁の部署が密集する庁舎の屋上にひっそりと建つプレハブの建物の中だ。当然のことながら、ここもまた官公庁の管轄下にある部署の一つだ。さすがにプレハブだけあってさほど大きくはないが、こじんまりとした部屋の中に流れる雰囲気はひどく穏やかである。
 そしてその中には、出来るだけ限られた空間を効率よく使えるようにといろいろ工夫が成されていた。幾つかの事務机は無駄なく綺麗に並べられ、戸棚の中身もこれまた無駄なく綺麗に収納されている。
それゆえに狭くとも、それほど息苦しい感じは、まるでない。

 そんな中で二人の男性が黙々と仕事を続けていた。

 がーーーーー。

 なんの物音もしなかったはずなのに、一体何を感じ取ったのか。
 二人の男性は、ほぼ同時期にそれぞれ何らかの反応を起こした。

「何か来たな……」

 日当たりの良い位置にある机の上にある書類から顔を上げたのは、壮年の男性だ。机の位置からしておそらくは、管理職にあるのだろうが、デスクワークの人間とは思えないほどに体格が良い。がっしりとした肩と欧米人を彷彿とさせる大柄な体躯、だがそれとは裏腹に瞳の光は穏やかなので、どことなく象やサイのような大型の草食動物を彷彿とさせる。
 ついさっきまでは日差しの心地よさに目を細めていた彼だが、現在はすっかりと眠気も覚めてしっかりと両目が開いていた。

 文部省文化庁文化財保護部の中でも最も特殊な課である“特殊文化財課”の課長を務める彼――万来望は、あさっての方へ遣っていた視線を部屋内にいたもう一人の職員の方へと向ける。


「そのようですね。どうやら場所も近い事ですし、少し様子を見てきますよ」

 そう言って席を立ったのは、二十代半ばの青年だった。スポーツでも嗜んでいたのか、大柄な身体つきをしている。しかも体格がいいだけに肩幅が広く、上背もかなりあった。特別顔立ちが良いというわけでもないが、不思議と人を惹きつける何かがある人だ。穏やかな表情を浮かべる彼の第一印象を他人に聞けば、十人中十人が“良い人”または“優しい人”と答える事だろう。内面の輝きが人を惹きつけるというが、彼はまさにその典型的な人間だ。

「いや、悪意はなさそうだし、放置しておいて構わないだろう。
仕事に戻ってくれ、耕作」
 わずかに考える素振りを見せた後、すぐに結論を下すとさっさと書類へと目を戻してしまう上司に、青年――溝口耕作は苦笑いを浮かべながら切り出した。

「そうしたいのは山々なんですが、こいつにせっつかれまして…。
そろそろアリも帰ってくる頃でしょうし、出迎えがてらに確認してきますよ」

 その言葉に反応したのか、真っ白い小さな頭が突然姿を現した。かと思うと、たちまち真っ白な身体が姿を見せる。どこからともなく現れたその小動物は、小さな手足を駆使して、耕作の背をするするとよじのぼっていく。そうして肩の上まで昇りきると、尻尾を彼の首に巻き付けて身体を固定する。
 雪山に住むオコジョによく似ているが、それよりはいささか小さい。そして何より他の小動物と一線を画しているのは、黒真珠のような瞳に宿る知性の輝きだ。


「あまり遅くならないようにな」

「わかってますよ」
 仕事がまだ残ってますからねと、耕作は至って涼しい顔で課長の言葉を流す。
そうして、痺れを切らしたかのようにポーンと外へ飛び出していった真っ白い小動物――オサキの姿を追って、彼もまた部屋を後にした。


****************



 尋常でない、圧倒的な霊気と。清冽な気と。
 その場を支配する青い光と。

 それを私はぼんやりと見ていた。
 まるで自分が自分でないような、まるで夢の中で自分を見ているような錯覚。
 錯覚は錯覚ではなく、それが真実なのだとはまさか思えるはずもなく、私はただ時の経過と共に流れる事態を呆然と見守っているだけだった。



『…ドコ、ニ、イケバイイノ………』

 自身でも信じられなかった己の死。
それをハッキリと自覚し、死にたくないと願ったその時の強い想いに引きずられて。
女性は、肉体を失ってもなお現世から立ち去ることが出来ないでいた。
どれほど嘆いても、話しかけようとしても、肉体を持つ人々に彼女の声は届かない。
その悲しみが彼女をより一層現世に縛り付けた。縛り付けられて、成仏する事すら忘れて。ただひたすらに己の死に場所で嘆き続けるしかなかった。

 それを開放してやるのに、なんの迷いがあろう。
 迷える魂を導くのが、私の使命。
 死に行く人の霊魂を月へと送り届ける事など、この手にかかれば造作もない事だ。

「哀れな人の子よ…、今はただ眠れ。
天へと還り、再び地上に下りるその日までを神の御許で過ごすといい……」
 許しの言葉と共に差し伸べた手を、女の霊は拒む。

『ドコ、ニ、イケバイイノ……』
 嘆く声は先ほどよりも幾分和らいでいた。だがまだ、天に還るには至らない。
現世のしがらみーー現世と魂を繋ぐ想いの全てを断ち切らない限り、天に還る事は出来ない。それは、古来より定められた絶対の理だ。

「そうか。行くべき場所すら、もう覚えてはいないか……。
ならば私が、お前に行くべき道を導き示そう……」
 私はゆっくりと右の手を持ち上げ、親指と人差し指で天を指し示す。
そうして目の前の人の子を天へ導くため、現世とのしがらみ全てを断ち切るために。
霊魂を天へと導く為の言の葉を唇に乗せて、解き放つ。


『ビスミ・ッラーヒ・ッラフマニ・ッラヒーム』
(慈悲深き慈愛あまねく神の御名において)


 それは神より与えられ給うた、許しの言葉。
 霊魂やこの世ならざる者を現世の外へ解き放つための呪言。

 解き放たれ、天へと昇る霊の姿を視界に納めながら。
 同時に私を取り巻く光もまた、静かに効力を失っていったのだった。


 そうして私は、ゆったりと深い意識の核倉へと沈んでいったのである。


*************                                           


「………なんなんだ、こいつは…」
 完全に意識を失ってその場に崩れおれた少女の身体を抱き留めながら、克也は思わず呟かずにはおられなかった。

 彼女の瞳が何らかの力を秘めていることには、当然気づいていた。
 気づいていたのだが、どうにもただの瞳ではなさそうである。
 青い光を発する事も奇妙だが、最後に彼女が口にした謎の異国語とそれだけで強い怨念を宿す地縛霊を昇天させてしまう力といい、全くもって未知の能力としか言いようがない。

「……それに小娘の分際で、ずいぶんと偉そうな口を利いていたか」
 どっからどう見ても耶蘇教の信者には見えないというのに、一体どこであんな口調を覚えてきたのやら。まるで耶蘇教の司祭か聖職者のような口調で霊に語りかけていた少女の姿を思い出し、彼は盛大に口元を歪めた。


 仕方なしに少女の身体を抱き上げる克也だが、その視界を真っ白いものが過ぎる。
普通なら多少なりとも驚くところだろうが、あいにくとその白いものの正体に心当たりがあった彼は、全く動じた様子もない。

「耕作か」
 抱き上げた少女の腹の上で尻尾を振っている小動物に冷たい視線を向けたまま、彼は言葉を発したが、驚くほどにきちんと答えが返ってきた。

「やあ、アリ。もう帰る頃だと思ってね、迎えに来たよ」
 もちろん答えを返したのは、オサキではなく、彼の主の溝口耕作である。

「言っておくが、土産はないぞ」

「誰も期待はしてないよ。で、一体どこで拾ったんだい、そのお嬢さんは」

 耕作の言葉に、克也はなんのことはなしに肩をすくめるだけだ。

「面霊気が外れなくなったから、仕方なく連れてきた」

「……面霊気が、外れない? 」
 あっけらかんと答える克也とは対照的に、耕作は訝しむような表情を隠せない。
それはそうだろう。面霊気――とどのつまりお面であるーーが外れないというのは、一体どういう状況下で想定される事故だというのか。少なくとも面の裏に接着剤が着いていたというのでもない限り、あり得ない話だ。

 そう、例えこれが“いわくつきの物品”である“面霊気”であろうともだ。

「俺にも詳しい事はよくわからん。だが面霊気がこいつの顔から外れなくなった。
もっとも顔の皮と一緒にはげば、剥がれるかもしれないがな」
 口元にうっすら笑みを浮かべて吐き捨てる克也の言葉に、オサキがビクリと反応する。そうかと思うと彼(彼女?)は一目散に少女の身体から離れると、本来のご主人様のところへとあっという間に帰ってきてしまう。

「物騒な事を言うんじゃない、アリ。それより心当たりはあるんだろう? 」

 耕作は震えるオサキの背を撫でてやりながら、克也をたしなめる。

「まあな。課長に結界を張ってもらえれば、難なく外れるさ。
面霊気を惹き付けているのは、どうもこの娘の瞳のようだから」
 だがたしなめられても、克也はまるで堪える様子も素振りもない。
もっとも、この辺りのやり取りは日常茶飯事といっても差し支えないことだったから、耕作も特にそのことに気をかけた様子もなかった。

「瞳が……? 」
 返ってきた予想だにしない言葉に、耕作は一瞬目を瞠った。
だがそれもほんのわずかの間の事で、すぐに持ち直す。
 そうして彼は、包帯でグルグル巻きにされている少女の顔、特に目の辺りをまじまじと覗き込んだ。だが包帯と面霊気の二つで固く覆われた少女の瞳は、全く見えない。

「ああ。危なく俺まで餌食になるところだった。全くもって恐ろしい“邪眼”の持ち主だ」
 彼女と睨み合いをしていて、危うく引きずられそうになったところを寸前で回避したことのある克也は、半ば呆れとも疲れともとれる溜息を漏らした。

「邪眼……、凶悪な破壊力を持つ瞳か。目を合わせるとその相手を病気にしたり、石にしてしまったり、最悪の場合殺してしまうという魔性の瞳の事だな」

 “邪眼”またの名を“邪視”,“イービル・アイ”と称されるこれらは、イタリアを中心に世界各地で恐れられていた呪いの力の一つだ。この邪眼に射止められた者は怪我をしたり、病気になったりと不幸に見舞われるという。さらに強い邪視ともなれば、相手の意志とは関係なく他人を服従させたり、ときには天災を巻き起こすことすら出来るという。
 この“邪眼”と密接な関係があると言われているのが、大天使のひとりであるサリエルだ。彼は人の霊魂や罪を負った天使たちを監視するのが仕事とされているが、同時に月や魔術にも通じる力を持っていた死の天使の一面も持っていた。なかでもとりわけ有名なのが、サリエル自身が“邪眼”の持ち主だったらしいという。

「ああ。だがこいつの場合、それに加えて“視線を合わせた相手を引き寄せる力も持っているらしい。面霊気もさっきの地縛霊も全部こいつの瞳が呼び寄せたものだ」

「…………」

「それから、その地縛霊を異国の言葉一節で浄霊しやがった。
お前も見ただろう、こいつの力……」

「うん、最後の方をちょっとね。それにしても、あれって一体何語だろうね?
あんまり聞かない言葉だったけど」

「さあな。響きからして英語圏の言葉ではなさそうだが…」

 険しい表情を浮かべる克也に、耕作は穏やかな笑みを浮かべたままで言った。

「どちらにせよ、今回の収穫物と一緒にこの子も課長に紹介した方がよさそうだね」

「もとよりそのつもりだ」
 耕作の言葉を、克也は今更だと言わんばかりの口調で吐き捨てたのだった。





*後書き…
・ふっ、ようやく女王様を除くヤミブンキャラが一通り出てきたか…。
さらにヒロインの力の一端も垣間見せる(堂々と出てたような)こともできたし。
その代わりと言ってはなんですが、またしても名前変換が少ない。というかほぼ皆無。
だってほとんど会話がないんですもの。何せ相手が克也だからな…。
彼からしてみれば、ヒロインは単なるお荷物的な感覚でしかないと思うのですよ。
………少なくともこの時点では。それゆえに名前なんて、呼んでくれるはずがない…。
今後は当分、克也以外のキャラに期待するしかないですね。
とりあえず次回では、耕作さんに期待しよう。うん。

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