「久しいの、柴彰。姉君も変わらず元気かえ?」
人が近づく気配もなしに、唐突に背後から掛けられた声に振り返り。
算盤を弾く指すら一瞬止めて、彰の表情が驚愕の色に染まった。
「貴女は……」
一言でその雰囲気を現すなら、前人未踏の高い雪山に積もる穢れ一つない白雪。
常人とはどこか威風を画する清浄な気を纏いながらも、同時にただ清らかなだけでなく、羽扇を片手に佇む様子は威風堂々。毅然とした威厳すら感じ取れる。
祖母譲りの美貌と気の強さを兼ね備えた、高貴にして稀なる異能の姫――茶。彰のお得意様にして、元茶州州牧・浪燕青の妻。そして更に付け加えるならば、現在彼女は茶一族によって祖母・縹英姫と共に茶家本邸に幽閉されている囚われの姫君。
で、あるはずだったのが………。
その姫君が、あろうことか茶州の州城であるはずの場所で、相も変わらぬ様子で婉然と佇んでいるのだから、驚くなという方がむしろ無理な注文である。
それは、常日頃全商連を取り仕切りまとめる立場にあり、日々手練手管を駆使している柴彰であろうとも例外ではなかった。
そしてーーーー。
珍しくも驚愕の表情を露わにし、擦れた声を口に乗せた彰の様子を目の当たりにして。
はしてやったりとばかりに、実に満足そうにほくそ笑んだのだった。
【私に不可能はない】
「愉快じゃのぉ。
まさかおぬしのそんな顔を見れるとは、さすがのわらわも予知できなんだ」
喉の奥でくつくつと笑いながら、は実にご満悦といった表情を浮かべている。
そんな彼女の様子は、幽閉される前と幾分変わりのないものであったから。
相も変わらぬの様子に半ば呆れながら、その片隅で彰はひそかに安堵の念を抱いた。
「まるで鬼の首を取ったような言い方ですね」
だが表面上はそんな素振りなど露も見せず、彰は算盤を弾く手を止めないままでいつもとなんら変わらぬ様を装って言葉を紡ぎ出す。
「まちごうてはおるまい?そなたは‘金儲けの鬼¨であるではないか」
「まぁ……、その意見に関しては否定しませんが」
が嫌味で言った言葉を、彰は素であっさりと受けとめた。
もとより彼は、燕青や姉の凛からも似たようなことを言われ慣れている身である。
ゆえにの言葉など、既に嫌味のうちに入っていないに違いない。
一方のは、嫌味をまともに返されて顔をしかめずにはおられなかった。
「…あいも変わらず、一筋縄ではいかぬ奴じゃの」
「貴女にしては、随分と今更なお言葉ですね。
それより、今日は燕青にお会いにきたのでしょう?
あれならもうすぐ帰ってきますから、座ってお待ちください。
あぁ……、何でしたらその辺にある書類を整理して下さっても一向に構いませんよ」
「……彰。こういうときには茶の一杯も出すのが、礼儀というものではないか?
それともこれが大商連流の客人のもてなし方かえ? 」
「ご冗談を。客人のもてなし方を知らぬような者は大商連には在籍しておりませんよ。
商談をより確実に成立させるには、相手への気配りともてなしは必須ですからね」
「ならば茶の一杯も寄越してはどうじゃ。わらわも客人じゃぞ」
「いいえ。あいにくと貴女は私の客人ではありませんから。
貴女をもてなすべきは、私ではなく燕青でしょう?
ですから、あれが帰ってきましたら、好きなだけお茶をどうぞ」
「……彰」
「そんな恨みがましい視線、寄越すだけ無駄ですよ、殿。
それに、貴女にはむしろ感謝して頂きたいくらいなんですけどね。
燕青が帰ってくるまで、ただ待っているだけではつまらなかろうと、退屈しのぎの術をオススメして差し上げたのですから」
定位置からかすかにずれてきた鎖つき眼鏡を人差し指で押し上げながら、彰は実に人の良さそうな笑みを浮かべていけしゃあしゃあと言い放つ。
そしてそんなことを宣言された、当のはといえば。
既に知っていたとはいえ、改めて彰の抜け目の無さに呆れるやら、感心するやらで。
それでも怒りがこみ上げてくるのは止められずに、目の前の男を今すぐはり倒したい衝動がこみ上げてくるのも押さえることは出来なかった。
だが、あいにくと彼女の身長では彰の顔をはり倒したくても、まず手が届かない。
だからといって「その面ひっぱたいてやるから、少しかがめ」と言ったところで、聞き入れられないのは重々承知していたから。
渋々ながらも、は彰をはり倒すのを諦めるより他無かったのである。
「……それにしても。つくづく貴女という人は、たいしたものですね」
手持ちぶさたでやることもなかったので、仕方なしに書類整理をしていたの背に向かって、彰の声がかかる。
かけられた声に振り向けば、感心したような面持ちで視線を向けてくる彰の姿があった。
今更のようにそんなことを言ってくる相手に対して、はやや訝しげな視線を向ける。
「今更愚問じゃの、彰。燕青が州牧になって以来、わらわとてあやつと一緒に山のような書類を整理してきた身じゃぞ。この程度の書類なぞ、ものの数分で片づけられてあたりまえであろう? そなたとて州城に顔を出すことも多かった身、わらわの実力は十二分に承知していると思っておったがの」
「ええ、まあ……そうなんですけどね。
貴女の実力を目の当たりにするとつい、大商連に引き抜きたくなる衝動に駆られるもので」
算盤を弾く指は止めぬままで、彰はいともあっさりと本心を暴露してくれた。
「……書類整理ならともかく、わらわに商才はありはせぬよ」
半ば疲れたような溜息を吐くであったが、あいにくと彰はそんな彼女の気持ちをほぐしてやれるような術を一切持たなかったから。
「そうでもありませんよ。素質は十分にありますし、今からでも鍛えればゆくゆくは大商連の幹部にもなれると思いますが」
いつもと変わりなくこれまたあっさりと、言いたいことをすっぱりと言ってのける。
だが。彰の紡ぎ出す言葉には、嘘偽りの色は全くない。
だからこそは、半ばはぐらかすようにその先の言葉を告げた。
「あいにくと、商人になるつもりも商人の嫁になるつもりもさらさら無い」
の返答は取りようにとっては話の筋がずれているようにも聞こえるがーー商人の嫁というのがそれだーー、彰も特に気にした様子はない。
「……これはまた、随分とつれないお返事ですね。
私としては、貴女と比翼の鳥になってみるのも悪くないと思っていたのですが」
それどころか、彰はこれまたさらりと爆弾発言を落としてくれる。
「おぬしのような減らず口と添い遂げなぞしては、寿命が半分は縮んでしまうわ」
種類の違う書類を少し遠い位置にある書類置き場にポイッと投げ捨てつつ、は言葉でもまた、彰の爆弾発言を適当にあしらう。
「そうですか? 貴女なら間違いなく、何があっても長生きなさると思いますけどね」
「その言葉、そっくりそのままおぬしに返すぞ、彰」
嘘か誠か、まるでその本心を見せぬ笑みを浮かべたままでぬけぬけと言い放つ彰に対して、はこちらも負けず劣らずの不敵な笑みを浮かべて返した。
「…でもほんと惜しいですよ。貴女ともっと早くお会いしていれば、今頃貴女が私の右腕になってくれていたかもしれないと思うと、切に」
「何を抜かしておるか、彰。たとえそなたと先に出会っておろうとも、わらわが求めるのは燕青ただ一人。おぬしの出る幕なぞどこにもないわ」
胸を張って自信満々断言するの姿を見て、彰はなんとも複雑な表情を浮かべた。
「随分と自信たっぷりに断言なさいますね」
「当たり前じゃ」
「……そうですか。でもあいにくですが、一度目をつけた物をそうそう簡単に諦められないのが、商人の悲しい性でしてね……」
「未練がましいことこの上ないのぉ」
ズバリと失礼なことを言うだが、そのことについて彰は特に何も言わない。
言わないままで、さっさと話を進めていくだけだ。
「いくらでも好きに言って下さい。
ですが…、必ず貴女を全商連に取り込んで見せますよ」
彼の眼鏡の奥に灯る光は、真剣そのもの。
深い黒褐色の双眸が、研ぎ澄まされた刃の如く、鋭い光を放つ。
「……彰」
相手の瞳に宿る光の強さに押されて。
はかろうじて、相手の名を呼ぶことしかできなかった。
しかし。彰は唐突に、瞳に宿る鋭い光を自らの意志で掻き消した。
「たとえ“貴女”を私の物にするのが無理だったとしても、絶対に有能な働き手である“貴女”は手に入れて見せますから。くれぐれも覚悟しておいて下さいね」
先ほどの真剣みはどこへ行ったのやら。
いけしゃあしゃあと言い放つその様子は、いつも見慣れた相手の姿そのものであった。
「………おぬしにとって、わらわは単なる“有能な働き手”かえ……」
だがそのおかげで、もいつもの調子をなんとか取り戻すことに成功する。
「まあ、八割方はそんな感じですよ。
あとの二割は……ご想像にお任せすると言うことで」
人懐こい笑みを浮かべながら、彰は相も変わらぬ調子で飄々と言ってのける。
だがその心中に。
幾重にも折り重なる複雑な感情が取り巻いていたことを、は知らない。
否、彰がそれを知られるのをよしとしなかったからではあるのだが。
「……本気でわらわを全商連に取り込む気かえ?
随分と自信たっぷりに言うが、わらわはそう簡単に陥落してはやらぬぞ」
半ば呆れたような口調でもって宣言してくるに向けて、彰はこの上なく自信に満ちあふれた満面の笑みを返す。
「ご心配なく。商品取引で私に落とせない品は、一切ありませんから」
絶対の自信に彩られた、彰の言葉と笑みと。
それらは、商人に必要な要素全てを修めた“大商人”としての顔を、目に見える形で如実に指し示すのには、十二分過ぎるほどのものであったから。
(……とんでもない相手に目をつけられてしもうたものじゃな……)
今更ながらには、彰を挑発したことを心底後悔したのであった。
「あ、それからもう一つ言っておきますけど。
万一燕青が借金を払いきれなかった場合には、殿…“貴女自身”でもって借金を払ってもらうつもりですから、そのつもりでいて下さいね」
本当に何気なく。
蛇足を付け足すように、ポツリと囁かれたその言葉に。
の怒りが一気に頂点にまで昇り詰めたことは、無論言うまでもない。
*後書き*
・Web拍手第3弾、同じく燕青夢の予定が……。
前振りが長くすぎて、今度は柴彰夢が出来上がってしまいました(汗)。
とにもかくにも、彰→ヒロインというような感じの話ではありましたが、
シリアスよりはいささかほのぼの寄りに仕上がったかなぁ…。
このヒロインで彰夢を書くのもいいかも…と思ったりして。
皆様としてはいかがでしょうか?
(06.04.16up)
→戻る