最初見た時、まるで見知らぬ人間に怯える猫のようだと思ったのを覚えている。 「……そんなところにいたのか、」 春のあたたかな風に煽られて、癖のある銀色の髪がふわりと宙に舞う。 どこまでも続く蒼穹の色をたたえた双眸は、目の前にある大木の幹の上へ真っ直ぐと向けられている。鼻筋の通った端正な面立ちは美青年と呼ぶに充分にふさわしいが、同時に人の手で精巧に作られた人形のように無機質な印象すら漂っていた。宮廷内であるにも関わらず、髪は結い上げることもせず束ねているだけで、着ているのは簡略化した着物。そのくせ身につけているそのどれもが、値打ちをつけるなら一級品間違いなしのとんでもなく豪華な代物ときている。 だがなにも彼が怠惰であるとかそういうわけではない。なぜならここは宮廷だが、同時に彼の住まいでもあるのだから。私的な時間にどんな格好をしようと、それは本人の勝手というもので。宮廷と同じ敷地内にある城に住まう王族である彼――劉輝ならば、自分の庭のような感覚でこの辺りを散策していても咎められる心配はない。 「……桜の木の傍が、一番気持ちいいから」 未だ桜の幹に身体を預けたままの体勢ながらも、自分の方を見上げている劉輝の方へとわずかに視線を落として、は答えた。 肩越しをわずかに過ぎたばかりの短くもなく長くもない髪は、まったき漆黒。結い上げるには短いので、何もせずそのまま無造作に背に流している。あたたかな陽気と桜花の香りとに眠気を誘われたのか、劉輝の方へと向けられた闇色の双眸はわずかに潤んでいた。 「そうか。私もそこへ行ってもいいか? 」 「劉輝が? でもそんな格好でどうやって……」 言いかけたは、途中で言葉を切った。 彼女の問いかけなどまるで無視した劉輝が、さっさと木に足をかけて登ってきたからだ。 (…仮にも王族なのに、こんなことやってもいいのかなぁ……) ふとそんなことを考えていると、劉輝はもうのいる高さまで昇ってきていた。 王族とはいえ、彼は国一番の猛将と名高い宋太傅のしごき(もとい手ほどき)についていけるだけの力量を持つ剣士としての一面も持つ。この程度の木を登るくらいのことは、難なくやってのける。 「の言う通りだ。あたたかいし、桜は綺麗だし、良いところだな。 ずっとこんな場所を独り占めにしているなんて、ずるいぞ。 私だって、知っていたら毎日ここに来ていたのに」 幹の上に陣取るの身体をひょいと持ち上げて、劉輝は今まで彼女が陣取っていた場所に腰を降ろす。そうして自分の足の上にの身体を乗せると、彼女の小さな身体を両腕で包み込むように抱きかかえた。 「ずっとここに住んでいるから、てっきり知ってると思ってた」 “自分の兄”に年の近い異性に対して異常なまでの警戒心を頂くだが、こと劉輝だけは例外中の例外だった。 一時は落命の境界を彷徨ったにどこまでも親身に尽くしてくれた上、身寄りのない事情を知って彼女を引き取ってくれた劉輝。ゆえににとってみれば、彼は命の恩人であった。最初の内こそ身体の拒否反応はあったものの、自身でその拒否反応を抑えようとしたせいもあったのか、一週間も経った後にはすっかりと普通に接することができるまでになっていた。 それには自身の努力もあるだろうが、劉輝が同じように心に深い傷を抱え込んでいたことと今もその傷の記憶にさい悩んでいたこと。その事実が彼女本来の姿を引き出すのに一役買っていたことは言うまでもなく、の警戒心や緊張を解きほぐした最大のきっかけとも言えよう。 だから劉輝に半ば抱き込まれるような姿勢にあっても、暴れることはなく。まるで借りてきた猫のようにおとなしく、はされるがままになっていた。 「木の上に登ったことはなかったからな」 抱き込んだの背を撫でる劉輝の視線は、遙か蒼穹へと向けられていた。 空から降り注ぐ日光は、夏のそれよりも弱く、冬のそれよりは遙かにあたたかい。 穏やかで優しい日の光は、地上にある全ての者たちに惜しみない愛情を注ぎ込む。 そのあたたかさに、は心地よさそうに伸びをしたかと思えば、小さな欠伸を漏らした。眠そうに両瞼を擦るその姿は、まるで子猫が顔を洗っているような錯覚すら覚えさせる。 「眠いのか? 」 「うん……、ちょっと」 「なら寝ればいい。私があとで起こすから」 「ん……、おやすみなさい……」 劉輝の言葉にこくりと頷くと、はそのまま眠りに落ちていく。 健やかな寝息を立て始めた少女の髪を、劉輝はなんとはなしに撫でる。 柔らかな髪は、まるで毛並みの良い猫を撫でているように手触りが良い。 「……」 呟くその名は、この辺りでは聞き慣れない異国の響きを帯びていた。 それでも。その名は劉輝にとってかけがえのない響きであり、かけがえのない存在でもあった。 (そなたに、心からの感謝を………) 誰にも顧みられることのない、いらない子供。 唯一可愛がってくれた兄はもう、この朝廷にはいない。 誰からも相手にされず、ただ存在し続けるしかなかった劉輝。 その闇の中から救い出してくれたのは、傷ついて死にかけていた一匹の子猫だった。 異なる形状の服を着た異郷の娘。それゆえに皆から腫れ物のような扱いを受けていたにも関わらず、彼女はどこまでも真っ直ぐに。そしてひたすらに自分を慕ってくれた。 自分以外の年頃の青年には異常なまでの警戒心を抱くにも関わらず、劉輝に対しては全く構えることのなかった少女。彼女には帰る場所も家もなく、唯一のよりどころとなるのが劉輝であった。今まで人に顧みられることがなかった劉輝にとっては、自分を頼ってくれることが何よりも嬉しかった。 「願わくば、これからも………」 これからも、この猫の子と一緒にいられますように。 胸中で呟いた劉輝の言葉は、誰の耳に届く事もなく掻き消えるーーー *********************** 書翰が積み重なる部屋の中に響くのは、たった二つの音しかなかった。 一つは書翰に筆を走らせる音、もう一つは極めて健やかな寝息だった。 劉輝はふと筆を走らせる手を止めて、気持ちよさそうにうたた寝しているの方を見遣った。卓机の上に頬を乗せ、なんとも気持ちよさそうに眠る彼女を見ていると、こちらまで一緒になって寝てしまいそうな錯覚にすら陥る。 おそらくは、昔のことをふと思い出したのもそのせいだろう。 「どうなさったんです、さっきから。顔がにやけてますよ? 」 劉輝が我に返ってみれば、楸瑛もまた筆を走らせる手を止めていた。 もっともこれは絳攸が今、部屋にいないからこそ出来ることである。 「顔に出ていたか? 自分では隠していたつもりだったんだが……」 「ええもう、それは面白い位にはっきりと出てましたよ」 「…………」 楸瑛の容赦ない返答に、劉輝は返す言葉がなかった。 「……少し昔のことを思い出していた。余がまだ王に即位する前、と一緒に王宮で過ごしていたときのことを……」 「そういえば、一番最初にを引き取ったのは他ならぬ主上でしたね」 「そうだ。あの頃はまだ、皆が朝廷内を建て直すのに忙しい時で、とてもに構っているだけの暇のある人間はいなかったし、私を構ってくれるような人間もいなかった。だから、私がを引き取った」 引き取ったのは、ほとんど独断。 異質な存在である彼女が誰にも顧みられないことは、なんとなくわかっていたから。 他ならぬ自分と同じ思いを、あの傷ついた子猫にさせたくはなかったから。 だから彼女を、引き取った。 「……誰でも、よかった。兄上もおそばにいなくて、邵可も宋将軍も余の事を相手にする暇もない事を知っていた。だけど、誰かに側にいて欲しかった…。 結果的に余は、を利用した。自分の寂しさを埋める、ただそれだけのために…」 ゆっくりながらも動いていた劉輝の筆が、止まる。俯いた劉輝の表情は、結われないままになっている銀の髪に隠れて見る事が出来ない。 「を引き取ったことを、悔いていらっしゃるのですか? 」 楸瑛の思いも寄らない言葉に、ビックリして。劉輝はすぐに顔を上げると、全身全霊の力をこめて彼の意見を否定した。 「悔いてなど……いない」 結果的に彼女を利用したのかもしれない。 だけれども、彼女が自分に与えてくれたあたたかさは偽りのないもの。 秀麗とはまた違った意味で、は自分を助けてくれた。 それを否定するつもりなどさらさらない。 「それに……余は、に充分な恩返しが出来た。もし余が彼女を引き取っていなければ、彼女が紅尚書の目に止まることもなかったろうから…」 「………確かに。彼女を利用した分の見返りは、きちんと払っていますね」 王が異郷の娘を寵愛しているらしいと噂が広まり、それは紅黎深の耳にも入った。興味本位でに会いにやって来た黎深は、どんな経緯を経たのか不明だが、彼女をたいそう気に入ったようで。数日後にはもう、は黎深に引き取られていた。 もしここで黎深に引き取られていなければ、彼女は絳攸と今のような関係ではいられなかっただろう。逆に言えばここで彼と出会っていなければ、は今のように輝けたかどうか。彼女が内包する輝きの半分は、全身全霊で絳攸に恋しているがゆえの輝きだ。 「には幸せになって欲しいと思っていたから、あのとき彼女を引き取ったことを悔いてはいない。彼女を引き取って余がから幸せをたくさんもらったように、そのおかげでにも幸せをあげられたのだから」 劉輝の瞳に柔らかな光が灯る。穏やかで優しげに細められた双眸は、まっすぐにの方へと向けられている。その瞳に宿る光は、守り庇護するべき大切な者へと向けられるもので。同時に慈愛に満ちあふれてすらいた。 「本当に主上はが可愛くて仕方ないみたいですね」 「それは楸瑛も同じだろう。見るとよくをからかって遊んでいるではないか」 劉輝の言葉に、楸瑛は掛け値なしの笑顔を浮かべた。真っ直ぐで優しい少年王と無邪気で愛くるしい少女へと向けられるそれは、どこまでも穏やかであたたかい。 「まあ私の場合、可愛くない弟しかいませんし。何人かいる異母妹ともそれほど親しくしているわけでもないですからね。身近にあんなに可愛い猫の子がいるんですから、可愛がるなと云う方が無理ですよ」 「なにせあの絳攸でさえ、目に入れても痛くないくらいに溺愛するくらいだからな…」 自他とも認める女嫌いとして有名な絳攸だが、なぜかに関してはその特殊ステータスが無効化されている節がある。本人曰く『あれは飼い猫みたいなものだ』だそうだが、実際と一緒にいる彼を見ている限り、とてもそうとは思えない。 なにせ彼ら二人が仲良くお話している様は、相思相愛の恋人顔負けの雰囲気を醸し出しているのだ。それでいて二人ともまるで自覚がないというのだから、両者とも相当な恋愛下手である。 「本当に。あれで女嫌いだと言うんですから、笑っちゃいますよね」 楸瑛と劉輝はどちらともなく顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。そうした二人の視線はなんとはなしに幸せそうに眠りについているの方へと向けられる。 一方、噂のご当人はと言えば、二人が普通くらいの声量で会話を続けていたにも関わらず、一向に起きる気配もない。健やかな寝息を立てたままで、は未だ眠りの世界を彷徨っていた。 到来している季節がまだ春であることもあって、開かれた窓から薄紅色の花弁がはらはらと舞い降りてくる。部屋の中に吹き込む風は優しくてあたたかい、春風そのものだ。 春の陽気と少女の愛らしさとに感化されたのか、なんとはなしに執務室内には穏やかな空気が漂う。 が、そんな和やかな時は長くは続かなかった。 「………ずいぶんと暇をもてあましているようだな、そこの二人」 音もなく扉が開くとともに、聞き覚えのある声が執務室に響き渡った。 その声の主が誰だか頭で理解した瞬間、劉輝はビクンと身体を震わせた。否、震わせずにはおれなかった。 一方の楸瑛はまるで対照的に、卓机に頬杖をついたその姿勢のままで、声の聞こえてきた方へと流し目をくれただけだ。 「こ、絳攸っ……」 まるで、親との約束を破って遊んでたところを親に見つけられた子供のような、罪悪感と恐怖感とが絶妙に入り交じった声音で呟く劉輝。 「私がここを出て行く前に、片付けておくように言っておいた書翰は全て処理し終えましたか、主上? 」 だがそんな劉輝に容赦なく、絳攸は口元を吊り上げる。表面上はにこやかな笑顔を浮かべているものの、目元が全く笑っていない。それどころか完全に目が据わりきっている。 どうやら今回の仕事さぼりの件が、よほど彼の怒髪天を衝いてしまったらしい。 「…………あと、少し残ってる……」 「ほお……、最低限度の量も終わらせないうちからさぼっておられたわけですか、貴方は」 棘のついた怒気混じりの言葉が、絳攸の口から容赦なく発せられる。 それでも本人の性格が出るのか、某尚書や某公子様ほどの毒舌威力はない。 だが。政務を執るようになって以来、ずっと絳攸にしごかれ続けている劉輝にとってしてみれば、十二分に応える言葉でもあった。 「…………す、すまない……すぐに終わらせるから………」 「なら今すぐにさっさと終わらせろっっ!!!! 」 ここで問答を繰り返す時間も惜しいとばかりに、ぴしゃりと言い放つ絳攸。 慌てて手元の書翰に筆を走らせていく劉輝に監視の目を光らせる親友――彼が聞いたら即座に却下するであろうがーーの姿を見ていた楸瑛は、やれやれとばかりに息をついた。当然のことながら、彼の手は全く動いていない。 「絳攸、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」 しらじらしく、かつぬけぬけと言い放つ楸瑛の言葉に、絳攸の額にくっきりと青筋が走る。 「人ごとみたいに言ってるが、貴様もそこの馬鹿王と同罪だ!!! さっさと仕事をしろ! まだ処理する必要のある書翰は山ほどあるんだぞ!!!!」 だが劉輝とは違って、絳攸の扱いはお手の物である楸瑛のこと。 怒気も露わに怒鳴りつけられたところで、彼にしてみればのれんに腕押しも同然である。 「そうでもないよ、絳攸。 この程度の量ならちゃんと今日中に終わるから、そうカッカしないでおくれ」 相も変わらず余裕綽々の表情を崩さぬまま、楸瑛は腐れ縁の同僚に語りかける。 「今日中に終わるなら、さっさと終わらせろ! 終わらせてから休め!! 」 「あんまり怒鳴らないでおくれよ、絳攸。でないと彼女……、起きちゃうよ」 やれやれと肩をすくめると楸瑛は、絳攸に向かって意味深な笑みを浮かべて見せた。そうしてふと彼が視線を移したのは、他ならぬのところだ。 「怒鳴らせてるのは貴様だろうが、この万年脳内桃色馬鹿が…………」 面の皮の厚い同僚に心底怒りを覚えながらも、絳攸は思わず気になって、楸瑛の指が指し示す方向へと視線を向け…………、知らぬうちに続けるはずの言葉を無くしていた。 視線を向けた先には、彼の定位置である卓机に頬をペタリとつけて眠っているの姿があった。気持ちよさそうに眠る彼女の柔らかな髪を、時折吹き付ける春風が優しく揺らしていく。その悪戯な風に乗って舞い降りた薄紅の花びらは、の黒い髪や頬に乗り、彼女の姿に彩りを加えるように卓机の上にちらほらと舞い落ちていた。 「ね。あんなに気持ちよさそうに眠ってるところを起こすなんて、忍びないと思うだろ? 」 確信犯の笑みを浮かべる楸瑛だが、どことなくその微笑みは穏やかだ。 「……………」 楸瑛の言葉に、絳攸は何も答えない。 答えぬままで彼は自分の卓机へと歩み寄ると、あちこちの部署からもらってきた書翰を机の端に積み上げた。その一連の動作は、無造作でありながらも静かだ。眠っているを起こさないようにという彼なりの配慮だろう。 「…………あと一刻だけ、だからな」 半ば自分自身に言い聞かせるような響きでもって、絳攸は呟いた。 苦虫を噛みつぶしたような表情ではあったが、すぐそばで眠るの髪に手を伸ばせば、その色はすぐに消えて。柔らかい穏やかな色にとってかわる。 穏やかな表情で眠る虎姫の髪を撫でる絳攸を、劉輝はやや恨めしそうな表情で見遣る。 「…………は余の妹も同じなのに、絳攸ばかり構ってずるい」 「何か言ったか? 」 一瞬で険しい色を宿した藤色の双眸に射すくめられて、劉輝は思わず言葉に詰まる。 「………いや、その、なんでもない」 まるでお気に入りの子猫を取り合う子供のような二人のやり取りを眺めながら、楸瑛は誰に言うでもなくひとりごちる。 「………本当には、みんなから愛されてるねえ…………」 そんな彼の呟きは、窓から吹き込んでくる春風に乗って溶けるように掻き消えた。 *後書き… ・王様と虎姫の関係をもう少し明らかにしてみよう、という試みから書き始めたお話だったのですが、最終的には王様+双花菖蒲のお話になりましたね……あはは。 藍将軍を出すとどうしても絳攸を出したくてたまらなくなるようです、自分めは。 そして本来メインになるはずだった王様、絳攸が出てきた途端にやられ役になってます。けして王様が嫌いなわけではないんですが、どうにも劉輝と絳攸を一緒に出すと、ひたすら絳攸に言い負かされてる王様の図しか浮かびません…。そして藍将軍は、そんな二人を 傍観する役に回る、と。どうにも私が書く夢は、いつの間にか逆ハーめいてくるな…。 ヒロインさんは一度も話してませんが(ずっと眠ったままだしね)、とりあえず若手三人組にたっぷりと愛されてることですし、まあ良いですよね………。え、よくない? |