『今まで私の元にいたのがお前であったことを、私は心から嬉しく想う』
清苑が王宮から追放される日の、前夜。
一度も寝所を訪ねてくることのなかった彼が、訪ねてきて最後に残した言葉と。
きつい抱擁とともに落とされた、最初で最後の口づけだけは。
何年経った今でも、忘れることは出来ないーーーーーーーーーー。
おそらくは二度と会えないと覚悟していたから。
一度は本気で彼との結婚を考えたことさえあったから。
なおのこと、余計に。
最後の別れのときのことは、印象深かった。
しかしーーーーーーーーーー。
「永遠の別離だと思ってた相手と、こうもあっさりと再会出来るとは思わなかったわよね」
常々思っていたことをきっぱりと口にしてやれば、当の言われた相手はそれはもう盛大に表情を歪めてみせた。それこそ苦虫を百匹近く噛みしめたかのように。
「……………殿」
夜空に照り輝く月光を集めたように、鮮やかでまばゆい銀の髪。いささか癖の強いが、ゆるやかな波を描く柔らかな髪は、昔ほどではないにしろ手入れがよく行き届いている。
文句の付け所も無しに整った眉目秀麗な顔立ちも、人外未踏の秘境に佇む美しい湖面を彷彿とさせる一対の澄んだ青い瞳も。
幾月もの時を経てなお、彼の容貌には何一つ変わりない。
それこそ、憎らしくなってしまうくらいに。
「貴方に敬称つけて呼ばれると、妙にこそばゆいわね。
普通に呼び捨てで呼んで欲しいのだけれど………清苑? 」
にんまりと笑みを浮かべたの言葉に、静蘭は思わず瞠目し、慌てて近くに秀麗がいないことを確認した。幸いなことに彼女はまだ厨房にいるようで、彼らのいる場所からはだいぶ遠い位置にいる。それゆえにこの会話が聞かれる心配はないだろう。
そのことに心底胸を撫で下ろしつつ、静蘭は仕方なしに口調を昔のそれに戻した。
「……わかった。だからお前もその名で私を呼ぶのは止めてくれ」
「まあ、いいでしょう」
あっけらかんと言ってのけるは、昔とまるで変わっていない。
いや、むしろ年を重ねた分だけ、策士というか老獪な部分により一層磨きがかかっているのではないかと、静蘭は心の中で呟かずにおられなかった。
「………全く。仮にも藍家の姫が供の一人も付けず、一人で外へと出歩くか?
」
「楸瑛と絳攸だけ秀麗姫の手作り料理にご相伴させるなんて、ずるいじゃない。
だから私もご相伴に預かろうと思ってきたんだけど…、持って来るにも何を持ってきたらいいかわからなかったから、とりあえず邸に来てみたのよ」
さりげなく静蘭のお小言を無視して、ニッコリ笑って話題をあっさりと逸らしてみせたの手には、なるほど確かに何もない。実質的に手ぶらも同然という状態であった。
「まさかと思うが、お嬢様が足りないと言った食材をお前自身が買いに行くつもりか? 」
「そりゃあそうでしょう。いくら私でも食材の買い出しくらい、一人で出来るわよ」
「…………普通の貴族の姫なら、一人で出歩くこと自体が非常識なんだがな」
「たまには私だって、羽を伸ばしたくなることもあるのよ。
それに下街で買い物くらいできなきゃ、万一家が没落したときに困るでしょう? 」
いくらなんでも、彩七家の筆頭名門・藍家に限って『没落』はないだろう。
少なくともその危険性は限りなく少ない上、藍家が没落するような事態が起これば、先ず間違いなく国そのものに大きな影響が出る。
正直なところ、嘘でも言ってはいけないような発言ではあったのだが、に関してはよくあることだと知っていたから。
「お前も相変わらずだな。藍家が没落するなんて、冗談でも言える言葉じゃないぞ」
多少の苦笑いを浮かべて、静蘭は彼女の言葉を軽くたしなめる程度に留めておく。
「冗談だから別にいいのよ。それはともかく、何の食材を買ってくればいいのかしら? 」
「……そればかりは、藍将軍と絳攸殿の袋の中身によるからな。正直私にもよくわからん」
「じゃあ、厨房で切らしてる食材でも買ってこようかしら。
秀麗姫に取り次いでもらえる? 」
「取り次ぐも何も、もう邸の中まで入ってきてるだろうに…」
「あら。客人を案内するのも、家人の立派なお役目の一つでしょう?
それを果たさないなんて、家人失格じゃあなくて? 静蘭? 」
ほほほ、と表面上は優雅に微笑みながら、がこれでもかとばかりにほくそ笑む。
そんな彼女の様子を見ていて、静蘭はようやく彼女の訪問の意図を知った。
「………それが目的か」
かつてが後宮へと上がってきたときに、彼女の高慢な鼻柱をいともあっさりとへし折ったのが、他ならぬ清苑―――とどのつまり彼自身だ。
は聡明な分だけ、自分の非を見つける力にも優れている。
だから鼻柱を叩き折られてもその理由を分析し、自分に非があればどんな相手にも謝罪することが出来る。そして逆に、自分に一切の非がないときに自分から誰かに謝るようなことはけしてしない。
そんな彼女だから、自分の高かった鼻柱がへし折られたことについても、納得がいった上でのことだと。てっきり静蘭はそう思いこんでいたのだが………、どうも現実は違ったらしい。
要するに。彼女は自分が“家人”として働く姿を目に納めに来ただけなのだ。
「何か言ったかしら、静蘭? 」
しっかりと聞こえていただろうに、それでも敢えて聞こえないふりをして聞いてくるに向かって、静蘭は久々に貼り付けただけの笑顔を浮かべた。
「いいや。相も変わらずその性格の悪さは変わってないな」
「そうね。よく鳳珠に『お前と黎深は似たもの同士だ』って言われるくらいだしね」
嫌味として言った言葉に対して、それ以上の開き直った答えを返される。
開き直りというのはある意味非常に質が悪いもので、その先に継ぐ言葉を無理矢理に掻き消されてしまうものである。
無論、今回も例外ではなく。静蘭はその先に並べる言葉を一瞬失った。
「……………せめて性格の悪さくらいは、多少改善されても良かったんじゃないか? 」
「あら、そういう清苑こそ。秀麗姫の前では綺麗に隠してるみたいだけど、相も変わらず腹黒いところは直ってないみたいじゃない? だからお互い様よ」
コロコロと鈴を転がしたような、澄んだ声音で笑いながら。
静蘭の笑顔が作り物であることを見抜いていたは、彼の頬をぐにぐにとつねって無理矢理にその表情を変えさせようとする。
「折角掛け値無しの笑顔を浮かべられるようになったのだから、たまには見せてくれても良いじゃないの。昔はロクに見せてもらえなかったんだから」
の言葉に、静蘭は大きく目を瞠る。
あまりに思いがけない言葉に、過去の記憶が……過去の封じていた想いがかすかに輪郭を帯びてくるのを、慌てて強い意志の力で抑え込む。
今はもう、過去ではない。
すでに過ぎ去った昔のようには、戻ることは出来ない。
静蘭も、も、戻ることを望んではいないから。
だから二人は、互いに互いの心に深く強い戒めを掛ける。
「私が笑顔を浮かべれば、家計が楽になるというのなら……考えないでもないが」
溜息をつきながら、冗談半分でそんなことを静蘭が言ってのけると。
「そうね。じゃあ、貴方が掛け値無しの笑顔を浮かべてくれたら、楸瑛の給料を差っ引いてそこからお代を支払うってのはどうかしら? 」
てっきり否定するものだと思っていたは、いともあっさりと話に乗せられてきた。
尤も彼女にしてみれば、どうせ支払いは弟の経費から落とせるわけであるからして、完全に他人事だからか。あるいはその標的が弟の楸瑛だからか。
「それはまたと願ってもない話だ」
そして静蘭もまた、彼女の実に美味しい提案に思わず表情を綻ばせたのであった。
*後書き…
・アニメ効果って絶大だ…、そんなことを思いつつ書き上げました静蘭夢(?)です。
書いていくうちに意外な過去の関係が明らかになった(自分で書いてて驚いた)二人が、十数年の時を経て再会した後はどうなのか。書いてみたくて衝動的に書いたのですが、どうにも外見が変わっていないせいもあるのか。根本的にはあんまし変わってないようです。
そして……どちらもからかい体質であるのは間違いないようですな。楸瑛、哀れ…(滝汗)。