「……これが多分、私がお前にする最初で最後の頼み事だ」

 公子一優秀と謳われ、事実優れた資質を持っていた第二公子・清苑。
狐狸妖怪にも匹敵する裏を抱えた連中から、常に視線を向けられるその境遇ゆえか。
表面上は穏やかな表情を浮かべながらも、彼はけして他人に心を許すことはしなかった。

 が知る限り、清苑が心を許していたのは唯一人。幼い弟の劉輝のみだ。
かくいう彼女は清苑の貴妃候補として後宮に上がってはいたが、家の思惑を多々に含んだ後宮入りーー公には中流貴族の娘が侍女入りしたという情報しか流されていないがーーましてそれが彩七家筆頭門下藍家の関係者ともなれば、必然的に彼が警戒するのも無理はない。

 招かれざる客。
 清苑の中で、はまさにこの言葉に該当する人間としか認識されていない。


 ………そう、思っていたのだが。


「…………私で、宜しいのですか?」
 一瞬、聞き間違いだとさえ思ったから。
は読んでいた本から顔を上げ、唐突に話を切り出してきた清苑の方を振り返る。

「お前以外に頼める者がいない。だから頼もうと言うのだが、不満か? 」

「不満ではありませんが……、意外ですね。
家柄上、警戒されているものだと思ってましたから」

「藍家の思惑と、お前自身の思考とは随分と異なっているようだからな。
……それにお前は、兄弟たちから劉輝を何度も庇ってくれた。そのこともある」
 鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を見せるに、清苑はなんとも言いにくそうに切り出した。否、言いにくいのではなく、口に出して言うのがこそばゆかったせいだろう。

「別に、貴方に気に入られたくて彼を庇ったわけではないんですけどね。
もとより自分たちと血の繋がった弟をいたぶって楽しむなんて、質が悪すぎます。
彼らが公子でなければ、鉄尺で引っぱたいた挙げ句、急所を蹴り飛ばして差し上げているところです」
 まるで機嫌取りをしているように言われて、は心外だとばかりにいささか表情をきつくする。
本音をあっさりと吐き出す彼女の言葉の中には、内容的に問題のあるものも多少あったわけだが、清苑は特にそれを咎めようとはしなかった。

 それどころか。

「…………いかにもらしい」
 そうして彼にしては珍しく裏のない微笑を浮かべていたから。
は驚きの余りに、両目を何度も瞬かせずにはおられなかった。

「公子? 」

 自分を真っ直ぐに見上げてくる紺碧の瞳には、一切の曇りもない。

 野心も野望も、醜い権力への執着心も。

 そのどれもが藍姫の双眸には、まるで見受けられなかった。
鮮やかな一対の紺碧は、暮れなずむ黄昏時の空のように穏やかで、それでいて昏い。
闇とも光とも違う、そのどちらの要素も内包した輝きは、素直に美しいと称賛できる。


 今なら、その存在を愛おしいと。
 心から思える。

 近いうちに自分の腕の中から消えていくとわかっている少女の身体を、清苑はやんわりと抱き寄せた。華奢な肢体は柔らかく、綺麗に結い上げられた漆黒の髪からは芳しい香の芳香が鼻先を掠めていく。

 思えば少女に触れたのは、これが初めてだった。
普通なら彼女が自身の元に馳せ参じたその夜に、寝所を共にしてもおかしくはないーーというよりそれが一般的だろうが、彼はそれをしなかった。
彼女を抱けば、嫌が応にも藍家の思惑に嵌ってしまうことを、肌で薄々と感じ取っていたがゆえに。

 だが……。

 近いうちに彼女を手離さねばならない、今。
 手放そうとするその手を伸ばすことを躊躇するのは、なぜなのか。


「清苑で構わないと、前に言っておいたはずだが」
 耳元に唇を寄せ、囁けば。
腕の中のがかすかに身じろぎしたのがわかった。

「…………頼み事というのは、十中八九劉輝のことですね」
 それでも内心の動揺は表に全く出さぬまま、あっさりとは問題の核心に触れてくる。

 高慢ともとれた気位の高さはなりを潜め、高潔な人柄はそのままに。
思慮深くも聡明で、何より自分のあるがままに振る舞う強い心の持ち主である彼女は、深窓の姫君であるにも関わらず、芯が強い。儚いのではなく、凛とした清冽な印象を残す才色兼備の美貌の姫は、どこまでも自分の予想を裏切ってくれる。

 それも、常に良い方向に。

「私がいなくなったら、あの子を守る者はいなくなる。
私が流罪になれば、近いうちにお前も藍家に戻ることになるだろう。
それでも……ここにいる間だけでいい。あの子を……劉輝を守ってやって欲しい」

「何も貴方に言われずとも、そうするつもりでしたよ。
……でもまあ、他ならぬ清苑の頼みです。
出来る限りここにいて、私の力の及ぶ限り劉輝を守りましょう」
 ニッコリと笑顔を浮かべてはいるものの、の眼差しは真剣そのものだ。
彼女もまた、近いうちに起こるであろう事態を既に察しているのだろう。

「………確かに頼んだぞ」

「必ずや、ご期待に沿えて見せますわ」
 は口元をかすかに歪め、不敵な笑みを浮かべてみせる。
彼女がこういう表情をするときは、どこかに十分な確信があるときだ。
この分ならば、任せておいても大丈夫だろう。

 清苑はホッと肩を撫で下ろした。
そして同時に、他人の前で素の表情を見せていたことに気づく。


一体どこまで自分は、目の前の藍姫に心を許すようになっていたのか。

 そこまで考えるに至って、かすかに心の奥にあった未知なる感情の存在に気付くものの。
今それを引き出したところで、けして叶わぬ願いになることはわかっていたから。
敢えて心の奥にしまい込んだままで、その上に幾重もの鎖を掛けてその想いを封印する。



 彼らが別離する日は、もうーーーーそう遠い日のことではなかった。

 それゆえに。




 清苑は今ならまだ届くところにある少女に、それ以上触れることを自らに禁じた。







*後書き…
・書いてみたい、書いてみたいと思いながらようやく書くに至った清苑夢。
なんだか微妙にシリアスと言うか、清苑が偽物…というか。とにもかくにもお届けします。
ちなみにヒロインはまだ十代半ばくらい…のはずです。相変わらずの性格ですが(笑)。
清苑→ヒロインのような仕上がりになりましたが、実質的には両想いも同然でした。
……書いていけば書いていくほど、このヒロインは逆ハー要素が強くなってくるなぁ。