「主上、今年度の国試に関する最新資料です。
さっさと目を通して、直すべきところとそうでないところと、ご指示を」
扉を叩くことすらせず、いきなり彩雲国王の執務室へとずかずか入り込んできた青年は、これまた躊躇することなく王の机案上――書類の山がない場所へと持っていた書類の束を叩きつけた。
「………さっさとしたいのは山々なのだが、まだこちらの書類に目通しを……」
ちょうど目通しをしていた書類に一筆書き添え終わると、劉輝はおそるおそる顔を上げた。本来ならここで部下の非礼を責めることさえ出来る立場にありながら、彼の腰は限りなく低い。
対する部下――礼部侍郎・は、国の最高権力者を前にしても、まるで怯むことなく毅然としたーー否、あまりに堂々とした態度で劉輝を見下ろしている。
「最終国試も間近なこの時期に、礼部以外に優先すべき部署がどこにありますか。
しかもその書類、本来なら昨日には済んでいておかしくない書類でしょう。放置しておいても平気ですよ。あちこちからこの書類に関することで処理が遅いと文句を言われたら、全て黎深に押しつけてしまえばいいんですから。
……そもそも期限過ぎてからようやく書類を送ってくるあいつが悪いんです。
主上が責任逃れをしたところで、誰も責めませんよ。
少なくとも、私は責めませんね。黎深が何か言ってきたら、私が責任をもってやりこめますから、どうぞ安心して此方の書類に目通しをお願いします」
劉輝の言葉を堂々と遮って、は淡々と簡潔に己の意見を述べる。
その意見というのは、なるほど確かに道理にかなったものであったから、側近役の二人も口を出そうにも出せず。やむなく沈黙を守っていた。
もとより側近の二人は、それぞれこのという人物のことをそれなりに知っていたので、敢えて口を出さなかったとも言えよう。
しばらく後、結局折れたのは劉輝の方だった。
「……わかった…、そなたの言う通りにする………。
………ところで、万一にも紅尚書から苦情がきたら………」
彼はの持ってきた書類の束を取り上げると、それを自身の目の前に置いた。それはとりもなおさず、それらの書類へ目を通すという意思表示に他ならない。
だが劉輝は書類に目通しする前に、すぐそばに佇むへと視線を向ける。
そうして相手の機嫌を伺うかのように、おそるおそる訊ねた。
「心配いりませんよ。苦情なんて、一言たりとも漏らさせませんから」
するとはわずかに目を瞠ったかと思うと、先ほどとは360°違う表情を浮かべた。
有能な官吏としての顔は完全になりを潜め、その代わりに浮かんだのは自分の子供に母親が向けるような慈愛のこもった微笑みである。
もともとが美しい顔立ちをしているのこと、その表情は人目を引かずにはおれないほどの魅力を醸し出していた………のだが。
「………出来ればそういう表情は、冠をとった状態でして欲しい………」
なぜか劉輝は疲れたな表情を浮かべて、机案の上の書類へと視線を落とした。
「殿……頼みますから、男装したままでその表情はやめて下さい……。
端から見ると、楸瑛が笑っているようで気味が悪い………」
そして偶然にもその様子を目にしていた絳攸は、やや控えめながらも申告する。
なんとか気力を保ってはいるようだが、顔色はお世辞にもよろしくない。
「それもそうね」
、と呼ばれたにも関わらず、はただ肩をすくめただけであっさりと受け入れる。
名前を間違えて呼ばれたのなら、まずするであろう反応をしないというのは少々奇妙ではあるが、それもそのはず。というのは、彼の本来の名であるのだから当然だ。
「じゃあ………これならいいのかしら、絳攸? 」
彼――いや彼女は、ほとんど余人がよりつかない部屋であるのをいいことに、本来の口調へと話し方を戻す。そればかりか、朝廷内では冠をかぶるのが礼儀であるにも関わらず、あっさりとそれを外してしまったのだった。
冠を支えていた紐を無造作に引くと、紐で固定していた髪がこぼれ落ちる。流れ落ちてきたのは、癖一つない真っ直ぐな漆黒の髪。濡れた黒鳥の羽を思わせる、艶めいた烏羽玉の絹糸は、首をわずかに傾けるそれだけで彼女の肩先を滑り落ちていく。血筋なのか、代々藍家直系の者たちは皆美しい黒髪を持つ。彼女の容姿を見れば、藍家直系ではないにしろ、それに近い血筋の者であることは推察するも容易い。
傍系ではあるものの、直系筋には男子しかいないがゆえに“藍家長姫”の肩書きを負う一の姫――藍。もしも清苑公子が流罪にならずに王座に就いていたなら、彼の貴妃として後宮に入っていたであろうその人は、こともあろうに男装してちゃっかりと政務を執り行っているのであった。だが幸いにもその事実を知る人間は、本当にごくごく一部でしかない。否、ごく一部でなかったとしたら、たちまち彼女は官吏の資格を剥奪されていただろうが。
彼女は纏うその空気をまるっきり本来の物に変えると、絳攸に向かって微笑んでみせる。
男を装う都合で本来するべき化粧を全くしていないにも関わらず、浮かべる微笑みはまさに大輪の華の如く艶麗かつ優美。まさに女性特有の微笑みそのものである。
ゆえに自他とも認める女嫌いである絳攸にとっては、ほとんど免疫が無いことも相まって、いろんな意味で目の毒であったことは言うまでもない。
「………っ、俺は別にそういう意味で言ったわけじゃ………! 」
完全に調子を狂わされて、自称・鉄壁の理性は脆くも崩れ去ってしまった。
すでに口調が本来の物に戻っていることにも気づかないまま、絳攸は椅子を蹴倒す勢いでその場に立ち上がった。
「あら、じゃあ一体どういう意味なのかしら。
お姉さんにもわかるように、説明してもらえない? 」
は、劉輝の傍を離れて絳攸の方へと足を進めていく。
そうして彼のすぐそばまで来ると、腕を伸ばして、相手の頬へと手を伸ばした。
「姉上………」
真っ赤になって狼狽える絳攸の頬を優しく撫でながら、嬉々とした表情を浮かべる異母姉の姿を見て。楸瑛は他人事ながら同情しつつも、その反面で姉にしつこくかまってもらえる親友にほんの少しばかり嫉妬の念をも抱いていた。
なぜならは、実の弟である楸瑛には驚くほどに素っ気ない態度しかとらないのだ。
無論楸瑛は、彼女が自分のことも弟としてみてくれていることは知っているし、時折それを匂わせる仕草や言動をしてくれることもあることも承知の上だ。
それでもやはり、赤の他人ばかり可愛がって自分を顧みてくれない姉に対して、幾分の不満を抱いていたし、抱かずにはおられなかった。
なぜならは、楸瑛にとってただ一人の姉であり、尊敬と思慕の対象でもある人であったから。
「殿! 巫山戯るのもいい加減に……! 」
一方の絳攸は、頬に伸ばされたの手を無理矢理振り払うと、相手を諫める勢いで言葉を吐き出した。吐き出したのだが……。
「あら、巫山戯てなんかいないわ。
私はただ、貴方が可愛くて仕方ないから構っているだけよ」
振り払おうとした手を逆に掴まれて、そればかりか至近距離まで顔を近づけられてしまい、逆に更なる動揺を煽られてしまう。
「#@*&〜っ! 」
もはや、絳攸は言葉すら出ない。
もとより黎深や百合姫に対する敬慕の念とはまた別に、幼い頃からひそかな憧憬の念をに対して抱いていた彼である。なんだかんだ言いつつも、最終的にどこか彼女に対して甘いところが出てしまうのは否めない。
「そうやってすぐに顔に出るところも、素直で可愛いわ。
その点、楸瑛ときたらすっかり女慣れしちゃって、全然面白みがないったら。
もうずっとそのまんまでいて頂戴ね。万一いき遅れになったところで、私がちゃんと婿取りしてあげるから、その辺は心配ないわよ」
一方のはと言えば、果たして冗談なのかそうでないのか。
どちらともつかないことをさらりと言ってのける。
その冗談(多分)をまともに真に受けた劉輝は、書類を片づける手を止め、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いでその場に立ち上がった。
「そっ、それは駄目だ! は余の義姉上なのだぞ!!
義姉上を絳攸にやるくらいなら、余が後宮に召し上げるっ!!! 」
「いやですね、主上。いくら主上でも許せることとそうでないことがあるんですよ。
姉上を娶るつもりなら、その前に秀麗殿を口説き落としてから言って下さいね。
まあ、当分無理でしょうけど」
勢いよく立ち上がった劉輝を諫めるような物言いで、その実半ば脅しの入った物言いで劉輝の言葉をすっぱりと切り捨てるのは楸瑛だ。
「楸瑛! いくら冗談を真に受けたからと言って、その歳になってもまだ、言って良いことと良くないことの区別もつかないの? 劉輝に謝りなさい! 」
「姉上こそ、冗談でも言って良いことと悪いことがあるのがわかりませんか?
主上に一人の妃もいないことを危惧する高官たちが多い中、万一今の言葉がその誰かの耳に入ったらどうなるとお思いです? 藍家長姫という立場上、即後宮入りになってもおかしくはないのですよ? 私は姉上のことを考えて、敢えて言わせて頂いただけです」
普段なら姉の言葉にあっさりと退く楸瑛だが、今回ばかりは違った。
尤も今回は事情が事情だけに、そうならざるをえなかったと言うべきだろうか。
「別に貴方に心配してもらうようなことではないでしょう、楸瑛。
自分のことくらいは自分でどうにかできるわ」
「姉上こそ政治の世界に身を置きながら、まだ政を理解しておられないようですね。
貴女は官吏であると同時に、藍家直系に限りなく近い血を引く姫でもあるのですよ。
過去に藍家の姫が王家に嫁いだ事例が多くあることを、知らないわけでもないでしょう。
いくら貴女がどうしたところで、一度後宮入りの話が出てしまえば逃れることも出来ないことは、貴女が一番よく知っているはずです」
「ええ、そうよ。だからこそ一度は、表沙汰になる前に叩きつぶしたんじゃないの」
「今回はたまたま運が良かっただけですよ。
兄上たちの周りで起こっただけの縁談でしたから、貴女が叩きつぶすことも出来ただけのことです。二度目も前のようにうまくいくとは限りません」
「……今日はやけにつっかかってくるわね。
私が絳攸ばかり可愛がるから、妬いてるのかしら? 」
聞かん気のない子供を相手にするように、はやれやれと肩をすくめる。
「………そうですよ」
「楸瑛? 」
返ってきた予想外の言葉に、そして何より言葉を返してきた楸瑛の表情に驚いて、は大きく目を瞠った。
「そうやっていつも貴女は、龍蓮や絳攸ばかりかまって、私のことなど見向きもしない。
……私がその度にどれほど苦しい思いをしているのかなんて、知りもしない」
ゆっくりとその場に立ち上がった楸瑛は、周りが完全に静まりかえる中、静かに足を進める。
「貴女は龍蓮の姉である前に、私にとってもたった一人の姉上なのに」
楸瑛の瞳が真っ直ぐにを見据える。
どこか飄々としていながらも、常に毅然とした態度を貫く近衛府の将軍としての姿はない。
そこにあるのは、肩書きを一切負わぬ藍楸瑛という一人の青年の姿だけだ。
「………楸瑛」
そのまますがりつくように、掻き抱かれて。
はただ、弟の名を口にするしかできなかった。
「私の姉上は………、貴女ただ一人なんですよ。
貴女が龍蓮や兄上、絳攸に向ける複数の想いを、私はただ貴女だけに注ぐしかないのに」
「………貴女は、いつも私を顧みてはくれない」
龍蓮が諸国漫遊の旅に出た後、部屋に塞ぎ込んだままになった。
幾度となく楸瑛が訪ねていっても、彼女は一向に部屋から出てこようとしなかった。
龍蓮から送られてきた向日葵を持参して行った、その日まで。ずっと。
自分では駄目なのだと、声にならない声で宣言されたように思えた。
が必要とするのは、あくまで龍蓮だけで。
楸瑛は必要としないのだと。
ただ血の繋がった家族という、それだけだと。
言い切られたような錯覚すら、覚えたことも多々ある。
自分は、これほどまでに姉の愛情を求めているのにーーーーー。
「……ホント、うちの家系は揃いも揃って難儀な連中が多いわね。
特に楸瑛、貴方は本当に難儀な性格だわ」
苦笑するようなの声と共に、楸瑛の頬にひんやりとしたぬくもりが触れる。
「あんな馬鹿兄貴と私と、龍蓮の間にいるからかしら。
必要以上にしっかりしちゃったのよね。だから……、全然気付かなかった」
飄々とした態度にすっかり惑わされて、本当の心の内に気付けなかった。
否、楸瑛が気付かせようとはしなかったのだが。それでも気付けなかったのは、己の落ち度と言うほかにない。
「楸瑛、貴方はね、自分の弱いところも見せないようにするのが上手すぎるのよ」
「そうでもしないと……、自分を保つことなど出来はしませんでしたよ……」
一方通行でしかない、家族愛。
懸命に求めても、けして手に入らないあたたかな笑顔。
どれほど求めても、姉はけして自分を顧みてはくれないと知ってしまったから。
あとはもう、自分自身を心の底で押し殺すしかなかった。
「……楸瑛」
自分の黒髪に顔を埋めて、年不相応の拗ねた声音で本音を吐き出す弟の背を、は優しく抱き寄せる。
「私がいつ、貴方を嫌いだとかいらないとか言ったの?
私にとっては、貴方も大事な弟の一人なのよ。……まあそう思えるようになったのは、貴陽に出てきて、国試に受かっていろんな人と接するようになった後だけど。
幼い頃は、私にも余裕らしい余裕なんてほとんどなかったんだもの。
自分のことで精一杯で、とても貴方のことを気遣う余裕なんてなかったのよ」
淡々と語りながら、が思い起こすのは昔のこと。まだ彼女や楸瑛の父が当主をしていた、それこそ彼女にとっては毎日が苦悩でしかなかった日々のことだ。
あの頃は誰もが自分を、藍家の一の姫としか見ていなかった。
だから、自分は藍家の一の姫としか価値がないのだと。
そう思いこんですらいた、遙かな昔。
あの時、唯一心の支えになっていたのは龍蓮だけで。
他の兄弟のことなんて、もとより見向きすらしなかった。
…否、出来なかったのだ。
(藍家の一の姫であるよりも、まず自分が一人の人間であることを認めて欲しかった。)
自分自身の存在する、その理由。
自分を自分として認めてくれる、誰かの存在。
それをひたすらに求めて、必死だった。
それゆえに。
とてもではないが、他の兄弟のことを顧みる暇なんてありはしなかった。
「勿論それは、結果として単なる言い訳にしかならないのだけれど。
何はともあれ、貴方を長い間邪険にしてきたことは間違いがないわけだし。
今更謝ってどうなるものでもないし、これからも今までと態度は変わらないと思うけれど………ごめんなさいね。これからはもう少し、気をつけるようにするわ」
優しく背中を撫でてくれるの手のぬくもりが。
かすかに表情を曇らせた彼女の紅唇から滑り出す声が。
その何もかもが、あたたかくて優しい。
「姉上」
少しずつ満たされていくような、不思議な高揚感を覚える中で楸瑛は口を開く。
「なあに、楸瑛? 」
やんわりと返されたの言葉に、楸瑛はわずかに言い淀むような兆しを見せるが。
それでも彼は閉じかけた口を無理矢理精神力でこじ開けて、口を開いた。
「姉上は、私のことも愛して下さっていますか? 」
「………馬鹿ね、当たり前じゃない」
返ってきた答えは、至極当たり前のことを聞くなと言わんばかりの口調。
顔を見なくとも、答えを返すが微笑んでいることはその声からもわかる。
わかっていたはずだった。
彼女が自分のことを、想ってくれていることは。
それでも。どうしても。
確かめずにはおれなかった。
愛しい姉のその声で。
確かに、自分が愛されているのだというその証拠が欲しかったのだ。
(……この年になって、まだ姉離れ出来ていないなんて……)
自嘲気味に心の声は呟くものの、姉に愛されているのだという証拠を彼が欲しがっていたのは、まごうことなき心の真実。
それゆえに楸瑛の腕は、を掻き抱く力を緩めることはしない。
「……姉上……」
愛しいたった一人の姉の名を呟くたび、心に広がる波紋はひどく優しい。
広がる波紋は、たちまちに楸瑛の心の隅々まで浸透し、広がっていく。
「……いい加減にしろ、。お前自らが王の仕事を妨害してどうするつもりだ」
気付けば藍家姉弟のわだかまり修復の場になっていたところへ、新たに執務室へ入ってきた人物の声が水を差す。どこまでも呆れが色濃く残った、くぐもった感じで聞こえてくる声音は、のよく知ったものであった。
「おや、誰かと思えば奇人じゃない。貴方自らがここへ来るなんて珍しいわね」
同期の友人の姿を認めて、は顔だけを少し上げて奇人の方へと向ける。
様々な諸事情から朝廷内でも常に仮面を装着していることで、周囲から奇人変人と言われ続け、それならいっそ奇人に改名してやると思い切って改名したという彼は、が国試を受けた年と同じ年に国試を受けて及第したーーいわば「悪夢の国試組」の一人である。実のことを言えば「悪夢の国試」と呼ばれるその理由は、他ならぬ彼自身によって引き起こされたことだったりするのだが、本人の名誉の為その辺りは敢えて秘密にしておく。
「礼部から提出されるはずの書類が、まだこちらへ届いていない。
そのことでお前に苦情を言いに来たんだ。別に好きでここまで足を運んだわけではない」
「あらそう。私が手がけた書類は全部処理済みだから、あとは他の官吏たちの仕事よ。
文句は私ではなく、蔡尚書に言って頂戴。私は今、取り込んでるの」
あっさりと言い切るに対して、奇人とてそのまま退くつもりは毛頭無い。
「実質的に礼部を取り仕切っているのはお前だろう、。
もとより蔡尚書に言ったところで、適当にはぐらかされるのがオチだ。
お前に言った方が確実だからと、わざわざここまで足を運んでやったんだがな」
「……ったく、つくづく使えない禿デブ尚書だこと。
仕方ない。奇人、私が許可するから礼部官たちを詰問しなさいな。
あんまりグダグダ言うようなら、礼部官全員減給してやるとでも法螺吹いて構わないから。
そこまで言えば、いくらなんでも書類を差し出してくるでしょう」
名家の令嬢らしくもなく、は舌打ちした上に上司の悪口を平気で吐き捨てた。
自分がいないとロクなことをしない部下と上司へ説教したいのはやまやまだったが、それでもやはりの中で最優先すべきは楸瑛のことであったから。あくまで、自分自身が礼部まで出向こうという気はないらしい。
「あくまでお前自身が出向くつもりはないと、そういうことか」
「あいにくと馬鹿な礼部官の為に、珍しく甘えてきてる弟を放置するほど、私は鬼畜じゃないのよ。あんまり邪魔すると、いくら奇人でも容赦しないわよ? 」
「………この弟馬鹿が」
呆れも色濃い声音で、きっぱりと呟く奇人だが。
「やかましい。いいからとっとと礼部に言って、詰問してきなさいよ。
時間が勿体ないんでしょう? ここで私と問答してたって、時間の無駄よ」
これまたはその言葉に、きっぱりはっきりと即答を返してくる。
もはや彼女の意志に揺らぎはないことを直感で悟った奇人は、仮面の奥で深い溜息を漏らした。そうしたかと思うと、彼はそのままくるりと踵を返して執務室を退出していく。
「悪夢の国試」と呼ばれる年からずっと、と同僚という間柄で付き合っている彼は、彼女が一度言い出したら、そう簡単に意見を覆さないことはよく知っていた。
それゆえに彼は、頑固なと言い合いをしているより、礼部官を詰問して書類を提出させた方がずっと時間が有効に使えると判断したのだろう。
奇人の下したその判断は、寸分も間違えてはいない。
「やれやれ……。あ、主上。悪いんだけど、当分楸瑛使い物にならないから。
執務室の奥にある仮眠室、しばらく借りても良いかしら? 」
奇人が部屋を出て行った後、は視線を劉輝の方へと向けた。
その様子を見るに、はすっかりと仕事をする気が失せてしまったのだろう。
「……構わないが、どうする気だ? 」
既に休憩モードに突入しつつあるに対して、劉輝は小首を傾げて訊ねてみる。
「ゆっくりと姉弟水入らずで、話がしたいのよ」
(今までも、十分に姉弟水入らずで話をしていたような気もするが……)
ふとそんなことを思わないでもない劉輝だったが、確かに自分が楸瑛と同じ立場だとすれば、兄弟二人だけで話をしたくなるのも仕方ないと考えて、首を縦に振った。
「……わかった。絳攸も異存ないな? 」
「ありませんよ。今のままじゃあ、全く使い物にもならないですから。
……その代わり、楸瑛の分までしっかりと働いて頂きますよ、主上? 」
劉輝に話を振られた絳攸は、どこか疲れたような苦笑いを浮かべて同意を示す。
が、それも束の間。途端に口元を吊り上げたかと思うと、不敵な表情を浮かべながら視線を劉輝の方へと向けてくる。
「…………せ、精一杯頑張らせて頂きます……」
新人苛めの噂が多い魯官吏や、礼部の裏尚書と呼ばれるほどの威力はないにしろ。
絳攸のしごきは相応に厳しいスパルタ方針である。そのことを身をもって知っていた劉輝は、逆らうことなく素直に従った。
「まあせいぜい頑張って頂戴ね、主上。
いくら冗談とはいえ、少々聞き逃すには洒落にならない禁句を口にされた罰ですよ」
「………」
「私も黎深と同じく、敵には容赦しない質なんですよ。
これ以上駄々こねて、私をあまり困らせないで下さいね、主上? 」
瞳の全く笑っていない形だけの笑みを向けられて、劉輝は背筋にゾクリと悪寒が走ったのをしっかりと感じ取る。
「……………はい……」
ゆえに。
彼は文句一つ言わず、の言葉に従う道を選んだ。
「わかったらさっさと席に着く! だいぶ仕事が止まってましたから、急いで処理して頂かないと、締め切りに間に合わないものがたくさんあるんですからね! 」
ビシビシと一つ一つを指示する絳攸の言葉に、文句一つ言わずに素直に従う劉輝の姿を見る限り、王の威厳などあったものではない。
「……それじゃあ、後のことはよろしく頼むわよ、絳攸」
そう言って笑みを浮かべながらも、は楸瑛を抱く手を離そうとはしない。
「無論です。そこの馬鹿が復活するまでの間、主上にその分まで頑張って頂きますから、心配はいりません。ですから、楸瑛のことはお願いします」
穏やかな表情で厳しいことをスラスラと言う絳攸だが、最後に楸瑛のことを話題に出す辺り、彼は彼なりに相棒(本人に言ったら即行で首を横に振るだろうが)のことが心配なのだろう。
なまじいつもが飄々としていて、心の内を他人に見せない楸瑛だからこそ。
心配もひとしおなのだろう……きっと。
「………愚問ね、絳攸。当然じゃないの。だって私は、楸瑛の姉なんだから」
弟のことを気に懸けてくれる、絳攸の気持ちを嬉しく思いながら。
はこみ上げる嬉しさを隠さぬまま、柔らかな心からの笑みを浮かべたのだった。
*後書き…
・久々にお題沿いで書いてみた藍家姉弟夢。
というか、本来お題沿いにするつもりはなかったのに、気付けば話が脱線していたという……(阿呆)。
いつもいつも「次は楸瑛を格好良く」とか言ってましたが、ついにいくとこまで…。
楸瑛が弱音を吐くなんて、限りなく彼らしくないですよね。でもたまにはそれもいいかなぁ、なんて…。
蛇足ながら結構長く続けてしまいましたが、鳳珠とヒロインの会話とか、絳攸とヒロインの会話とか自分で書いてて気に入ってたもので……つい。