[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。






「…………それには及ばぬ」

 秀麗が紅邵可の娘である事を知らないらしい欧陽侍郎の呟きに返すように、瑶佳が付き従ってきた現国王はいきなり扉を開けて言い放つ。
 せめて扉を叩くなりしろ、と瑶佳は思わないでもなかったが、今はそんなことを悠長に話していられる時ではないのだから、まあ大目に見ることにした。


 それよりも問題なのは、扉を開ければ途端に空気に混じる酒の香り。
 部屋の扉を開けただけでこれほどの酒の香りがするということは、酒好きの長官がまた羽目を外して大酒でもかっくらっていたからだろうか。

(酒の香りが漂う工部省なんて、これから後にも飛翔が長官やってる代だけでしょうね)

 今からもう十年近く前の国試――今では悪夢の国試と称されるまさに至上最悪の国試を受けて合格した奇人変人のうちの一人にして、現工部尚書である男・管飛翔。
文官と言うよりは武官と言った方がしっくりくる大柄な体格の持ち主で、とにかく酒を飲むのが大好きな“ざる”体質の男だ。そのくせ一度決めた事は何が何でも貫き通す、強い信念を持った人間で、その貫く様はまさに軍人そのもの。傍目から見ると文官らしくない男だが、その実力は確かなものだ。

 そんなことをゆっくりと思い起こしながら、瑶佳は秀麗姫に用事があるという国王の後に従って、工部省の中へと足を踏み入れる。
 ゆったりとした足取りで一足先に中へと入っていた劉輝はといえば、健やかな寝息を立てていた秀麗姫を両腕で抱きかかえていた伊達男――工部侍郎・欧陽玉の元へと歩いていくと、何やら彼に耳打ちし。彼から受け取った秀麗姫をその両腕で抱きかかえる。

瑶佳。余はこれから秀麗を邵可のところへ送ってくる」

「そうね、そうしてあげて頂戴。間違って黎深が乗り込んでくる事になったら、飛翔と大喧嘩になることは間違いないでしょうから」
 ここの長官とはウマの合わないらしい友人其の一のことを思い起こしながら、瑶佳は苦笑いを浮かべて答える。

「うむ。それでは、失礼する」
 劉輝はそう言い残すと、両腕に秀麗姫を抱えたままで颯爽とした足取りで工部省を後にした。
 後に残されたのは、呆然としている欧陽玉と机案の上で夢の世界へ旅立っている管飛翔、そして女官用の着物に身を包む瑶佳の三人だけだ。


「にしても……珍しいこともあるものね、飛翔のやつが酔い潰れてるなんて」
 瑶佳は、遠慮無しにずかずかと机案のそばまで歩いていくと、すっかり寝入っている飛翔をこれまた遠慮無しにジロジロと眺め回す。管飛翔とはもう十年来になる間柄――それほど親しいわけでもないがーーである瑶佳ですら、彼を撃沈させることが出来た人間は欧陽玉の他に見た事がない。
 先にも後にも飛翔を上回る“わく”体質の人間にお目にかかれるとは思っていなかったのに、なんと事もあろうに18才の女の子がそれを達成してしまうとは。正直、瑶佳は驚きを隠せなかった。

 そして、飛翔を酔い潰れさせた秀麗に驚いている瑶佳と同様に、玉もまたそのことに驚いていたが。
男性官吏として宮城に仕官しているはずの瑶佳が、なぜか本日に限って女官姿――とどのつまり男装しないままでここにいることも、彼の驚きを誘う要素の一つであった。当の瑶佳は全く気づいてはいないようだが。
 男装している時は藍楸瑛に瓜二つの貴公子然とした容姿だというのに、変装をやめてしまえばたちまち麗しの美姫としての姿を露わにする瑶佳。彼女が男装している事を知っている玉でも、その本来の姿を目の当たりにすると思わず言葉すら無くしてしまう。

 背を流れる艶やかな漆黒の髪に、深い英知の輝きを宿す紺碧の瞳。
女官姿をしてはいるものの、一挙一動からは気品が香り立つ。誰の目から見ても一目で高位貴族の姫とわかるのは、持って生まれた気品は隠しきれないものだからか。
女性特有の艶めかしさと、涼やかな威厳とを持ち合わせた幽艶な佳人は、まさに藍家長姫の名にふさわしい。

 長くもないが短くもないその間、半ば惚けたように玉は瑶佳の姿を見つめていた。

「あのお嬢さ………いえ、紅州牧が奮闘して下さいましたからね」
 瑶佳の視線が飛翔からこちらへ移るのとほぼ同時に、玉は慌てて視線を別へ移す。
そして辺りに好き放題に置かれた盃や徳利などへ目をつけると、それらをテキパキと片づけながら、何食わぬ顔で彼女の言葉に答えた。

「……さすが、あの母君にしてこの娘ありってところかしらね。邵可様もかなりの“ざる”だと聞いているし、下手をすれば貴方よりもお酒に強いかもしれないわよ、玉」

「邵可様の娘御でしたか、彼女は。
……それにしても、瑶佳殿。なぜ女官の格好でここへ? 」

「劉輝……主上の様子がちょっと不安定だったから、気になってね。
急遽主上付きの女官に扮装して、彼のそばにずっといたのよ」

 なんのことでもないかのように、さらりと告げる瑶佳だが。
 その言葉は、玉の心の片隅に抜けない小さな棘を突き刺した。

「……それならば、主上の後を追っていかれなくてよろしいのですか? 」

「大丈夫よ。今の主上には、彼にとって一番の安定剤がそばにいるから」
 そう言って瑶佳は、穏やかな笑みを浮かべる。慈愛の情がこもったその笑みは、弟たちによく向けられるそれとよく似ていた。

「……………」

 玉は何も言葉を返さない。否、返せなかった。

 劉輝のことを話す彼女の言葉が、彼女の笑顔が、やるせないほどに彼の胸を締めつける。

 自他とも認める年下好きの瑶佳のことだ。
 大方劉輝のことも“弟”のような目で見ているのだろうということは、容易に予想がつく。

 十二分にその可能性を承知していながらも。
 そこまで瑶佳に心配してもらえる劉輝に、もやもやした感情を抱かずにはおれず。

 そんな自分の感情に気づき、玉は自嘲の笑みを浮かべる。


「まあ、それはともかく。久方ぶりね、こうして会うのは。元気にやってる?
………と聞きたいところだけど、飛翔の相手をしていられるんだから、心配する事もなさそうね」
 盃や一升瓶を片づける手を止めてしまった玉のそばへ寄ると、瑶佳は硬直している彼の顔を間近から覗き込んだ。

 一方、いきなり相手との距離が詰まったことで一瞬混乱状態に陥った玉は、思わず手に持っていた盃やら器やらを床にぶちまけそうになる。すんでのところでなんとか持ち直したが、それでも一度激しくなった動悸はなかなか鎮まることを知らない。

「……っ、心臓に悪い事はやめて下さい! 瑶佳殿」

「あらどうして? 私の顔はそんなに見るに堪えない顔かしら? 」

「わかってて言わせないで下さい。貴女もよくよく意地の悪い……」

「そりゃあ、伊達に黎深の友人やってないからね」
 心底愉快そうな笑みを浮かべてあっさりと言ってのける瑶佳に、玉はなんとも言えずに苦笑いを漏らすのみに留めた。

 そんな玉の額を軽く指で弾くと、瑶佳は近づけていた顔を元に戻した。
 そして、未だばらばらと机案の上に転がっている盃や酒瓶などを手際よく整理していく。



 机案の上に転がる盃や酒瓶の整理を、二人で黙々と片づける。
 そんなことをしばらくの間、続けていただろうか。

 突如ふととして思いついたのか。
 瑶佳は誰に言うまでもなく、口を開いて独りごちる。


「………それにしても。世の中って、どうしてこう思い通りにいかないものなのかしらね」

 ぽつり呟かれたその言葉は、すぐ近くで黙々と作業していた玉の耳に容易く届いた。

「貴女らしくもないお言葉ですね」
 男装して国試及第し、性別を偽ったままで官吏を続ける彼女にしては随分な言いようだ、と。
玉は言葉を口に乗せながら、心底そう思った。

「そうかしら? 私にだって思い通りにいかないものくらい、いくらでもあるわよ。
どう足掻いても、人の心だけは自分の思い通りにすることなんて出来ないでしょう? 」

「…………」
 思うところがあったのか、玉は何も答えない。

「今まで私は多くの人の心を傷つけてきたわ。
かけがえのない友人である黎深や鳳珠、悠舜の心すらもね。そして、貴方の心も。
それでも求めてやまないのは、この世でただ一人だったから。
いっそ皆、私以外の人を求めてくれればよかったのに。
世の中には素敵な人が数多くいるのだから。そう、思う自分がいるのよ。
………全くもって浅ましいこと。
私自身の心を傷つけたくないからといって、他人の好意を素直に受け入れられないなんて。
本当に…………、最低な女ね。私は」
 淡々と語る瑶佳の表情は見えない。見えないが、けして明るい表情でその言葉を語っているのではないことは、間違いないだろう。

「最低…ですか? 他人を傷つければ己の心も傷つく心を持ち合わせている、貴女が? 」

 世の中には他人を傷つけることに全く躊躇しない人間もいる。
人を傷つけ、他人の血を浴びることを好む殺戮者すらいる。

 他人を傷つけて心傷つける者とも他人を傷つけても心痛めぬ者。
誰もが後者こそ“最低”と罵りこそすれ、前者を罵ることはないであろうに。


「最終的に行き着く先は、自己保身の道だからね」
 自嘲気味に顔を歪めて、瑶佳はそう吐き捨てる。

 そんな彼女を目の当たりにして、玉はほとんど無意識に行動を起こしていた。
そばにいた瑶佳を背中から掻き抱いて身を寄せ、仄かに薫香の香る彼女の黒髪に頬を寄せると相手の耳元で静かに口を開いた。

「…………私から言わせて頂けるのなら、求婚を蹴った男の前で弱い部分を露わにするところが、貴女の最低なところですよ。いつも凛として常に先を見据え続ける気丈な貴女だからこそ、余計に弱音を吐いた時の姿は弱々しく、儚い……。
今なお貴女に恋い焦がれ続けている私が、そんな貴女の姿をただ見ているだけでいられるはずはないと、わかっているのに敢えてそれを強制するのですから」

 聞いている方が心締めつけられるような、切なさを帯びた口調で。
 より一層瑶佳を抱く腕に力を込めて、玉は哀愁漂う笑みを浮かべた。

「玉」

「愛しています、瑶佳。あの時も今も変わらず、私の瞳は貴女だけを映し続けている。
どうか、私の妻になっては頂けませんか………? 」

 声量はけして大きなものではなく、囁くような小さなものだったが。
 声音の奥に込められた熱情は、けして小さなものではなかった。
 押し殺したように告げるその言葉の裏には、彼の抱く想いが確かに見てとれる。

 湧き出す溢れんばかりの想いを押し殺して、心情を吐露する。
 そんな彼の姿に、瑶佳は心痛めずにはおられなかった。

 どんなに求められても、応えることなど出来るはずがないのだから。
 彼女が求めるのは、ただ一人。藍龍蓮の名を持つ異母弟だけだ。


「………貴方も、十二分に最低だわ、玉。人がさんざんに罪悪感を感じているその矢先に、こうしてまた私に罪悪感をより募らせる言葉を吐き出させるのだから」

「そうですね。でも、お互い様でしょう? 」
 さらりと告げてくる玉の声音は、先ほどの様子が嘘のように消えていた。
要するに、いつもの調子に戻っていたというやつである。

「…………ええ、その通りだわ。黎深とは別の意味で食えない奴ね。
だからこそ、私は貴方が好きなのだけれど」
 気持ちの切り替えが早い玉の様子に、半ば呆気にとられながらも、瑶佳は自身もまた不敵な笑みを浮かべて切り返す。

「そんな小狡いところも、傲慢なところも、自己保身に走るところも。
私は愛していますよ、瑶佳。人間らしくて良いではないですか」

 玉が言葉を返すタイミングは、驚くほどに正確だ。
 人がこんな言葉を欲しいと無意識に思っているその時に、最高の言葉を投げかける。

 それゆえに、当人はまるで自覚無しだが、彼は非常にもてる。

 なにせ瑶佳の友人・珠翠は、後宮の女官を束ねる女官長なのである。それゆえに女官たちのいろいろな情報を、彼女から容易く手に入れることが出来る。弟の不始末を詫びる為、度々珠翠の元を訪れる瑶佳はそのついでに女官たちに人気のある官吏のことについても相応の情報を得ていたのである。
 その情報をもとに検討していくと、楸瑛や絳攸ほどではないにしろ、玉もまた非常に多くの女官ファンをもっていることがよくわかる。


「…………その気になれば、貴方、楸瑛も凌ぐ妓楼のお得意様になれるわよ」

「あいにくと、私は貴女以外の女性を抱きたいとは思いませんので」
 端から聞いていれば惚気にしか聞こえない言葉を、玉は容易く口に乗せる。

「……………一生独身を貫くつもり? 」
 楸瑛顔負けの口説き文句を羅列する玉に対して、半ば呆れの色を浮かべつつ。
瑶佳は苦々しげに、訊ねた。

「貴女がそうするのなら、それもいいかもしれないですね」

 本心からなのか、そうでないのか。
 なんとも判別しがたい口調で答えてくる玉に、瑶佳は思わず笑みを零した。

「本当に返ってくる反応一つ一つが面白いわね。だから貴方とこうして話すのが、一番好きなのよ」

 瑶佳のその言葉に、玉は一瞬息が詰まる。
 否、息が詰まるような錯覚に襲われた。

 好きだ、と告げられたその言葉がイタイ。

 あくまで彼女が自分に向けてくれるのは、友愛の情がこもる“好き”だけで。
 けして愛情の意味がこもる“好き”を与えてはくれないから。


「私が欲しいのは、貴女の愛情と心だけ。
貴女が私を好きだと言って下さるその心が“友愛”の形なら、私はいらない……」

「じゃあ、友情破綻ということで。二度と貴方の前に姿は現さないわ」

 あっさりきっぱりと告げられた言葉に、玉は深い溜息をつかずにはいられなかった。

「………人の話は最後まで聞いて下さい。
欲しいのは貴女の愛情、友情ならいらない。そう思っているはずなのに、貴女の口から私を好きだと言って下さるその言葉は、私をたやすく狂喜乱舞させる。
結局……、私は貴女が自分の傍にいてくれて、貴女の瞳に少しでも自分の姿が映れば、それだけで嬉しいのですよ。無論、貴女が私を愛して下さるというのならば、これほど嬉しいことはありませんが」

「………じゃあ、これからも時々貴方に愚痴零しに来てもいいわけね? 」

「ええ、いつでもお待ちしてますよ」
 穏やかな、ほんのわずかに哀愁漂う声音でそう告げて。
愛しいその人の身体をほんの一瞬強く抱きしめると、玉は名残惜しげながらも瑶佳の身体を開放した。

「貴方も、飛翔のことで愚痴零したいなら、いつでも藍邸にいらっしゃい。
黎深や鳳珠は滅多にうちに来ないし、うちでじっくり愚痴を零せる相手と言えば楸瑛くらいだもの」
 玉の腕から解放された瑶佳は、なんとも複雑な面持ちで無理矢理笑みを浮かべている彼の頬に手を触れて。いたわるような慈しむような光を明眸に浮かべて、さらりと告げる。

「いいんですか、そんな安請け合いして。
あの鶏頭もとい、酔いどれ尚書の愚痴なんて、毎日毎日腐るほどにたくさんあるんですよ?
そうすると必然的に毎日藍邸に通わざるを得なくなるんですが………」
 そう言いながら玉は、すっかり酔い潰れて、暢気に鼾までかいている飛翔の方へと視線を向けた。
向けられた視線がけして優しいものではないところから、いかに彼が苦労しているのか、その一端が垣間見えるというものだ。

「毎日毎日うちに通えるほど、工部侍郎の職は暇なものじゃないでしょう?
まあ、暇がある時にでもいつでもどうぞってことよ。
それでも週一あるかないかでしょうからね」
 なまじ飛翔の性格を知っているだけにーー何せ進士時代、皿洗いしている鳳珠を手伝うふりをして厨房に入り、隙あらば手当たり次第に酒樽を空にしていた男だーー、瑶佳はなんとも苦い顔をした。
 六部省一仲の悪い尚書と侍郎と言われているが、あながち嘘でもないらしい。それでも仕事はきちんとなされているのだから、ある意味驚きな部署である。

「……つくづく貴女という方は、敵に回したくない方ですね」
 悪く言えば抜け目ない瑶佳の観察眼に、玉は恐れ入るやら呆れかえるやら。
吐き出された溜息は、随分と深く、長いものだった。

「黎深を敵に回すよりは、いささかましでしょう? 」

「………どっちもどっちですよ」
 魔窟と称される吏部の長官・紅黎深を嬉々として引き合いに出す瑶佳の言葉に、玉はなんとも複雑な表情を浮かべて呟いたのだった。





 欲しいのは愛情、友情ならいらない。

 それでも。

 貴女とこうして話が出来て、貴女の瞳に自分の姿が映るのなら。
 嬉しいと想ってしまうのは、仕方ないことかもしれないですね。

 叶わない想いと知ってなお、諦めきれないこの想い。

 私の心は、貴女の姿を求めてやまないのですからーーーーーー。





*後書き…
・一部6巻沿いで、お初の欧陽侍郎夢でした。いかがでしたでしょう。
玉→ヒロインという完全一方通行な設定ですが、何とぞご容赦を。
どうかお願いですから、石投げないで下さいね(汗)。

この人で龍蓮以外の人と絡めようとすると、どうしても片想い話になるなぁ…。
てか、求婚蹴った相手といつまでもお友達でいようとするヒロインって、かなり極悪な気もするんですが………気のせいでしょうか? 否、気のせいではないだろう。
邵可様も「心から惚れ抜いている女性から、『良いお友達でいましょうね』と言われることほどつらいことはない」と言ってたし。じゃあ、それを有言実行してるヒロインは……?
やぱり極悪だと思うんです。自分で創っておいてなんなんですが。

にしても、相手を一度設定しちゃうとその他の相手との夢がなかなか書けないところが、ある意味固定ヒロインの欠点ですかね。無論、番外として無理矢理書くのもありですけど。
藍家ヒロインで書いてみたいのは、黎深夢と玉夢の二つ。でも鳳珠夢も捨てがたい…。
書いてみたら、皆さんどう思うんでしょうねぇ………(遠い目)。意見、求む。