藍家の末弟・藍龍蓮は、諸国漫遊の旅に出ているのが常であるため、ほとんど家にいることはない。
たまに帰ってくるとしても、数ヶ月に一度という程度の頻度。しかも数日家に滞在した後、すぐに新たな旅に出て行ってしまうので、正直一年に一ヶ月も家にいることはない。
 変わり者で破壊的な横笛を奏でる龍蓮の存在は、屋敷内でもなかなかに歓迎され辛く。正直、家人たちも楸瑛も内心安堵している節があるのだが、唯一だけは違っていた。

 彼女にしてみれば、龍蓮は大事な大事な弟であり、唯一最愛の人なのだから。

 それゆえには、久しぶりに帰ってきた弟を嬉しさを満面に湛えた表情で迎えると、相も変わらず派手な衣装を纏う龍蓮を力いっぱいに抱きしめ………しばらくそこから動かなくなってしまうのだ。
だがもはや当たり前となってしまった出来事であったから、家の者も龍蓮当人も何も言いはしなかい。

 久々の姉弟の対面に釘を差したくないというのも一つだが、何より言っても聞くような人間ではない。
だから、一見するといい加減に見える対象法が、実は最も有効な対処手段であったりするのだ。



 久々に貴陽の藍邸に帰ってきた弟を、は実に上機嫌なままで迎えた。
相も変わらぬ派手な衣装を身に纏った龍蓮を力いっぱい抱きしめると、彼女はいつもいつもしばらくその場から全く動かなくなってしまうのだ。

 そして本日もまた、いつもと同じような光景が繰り返されるのだと、皆が思っていた。
 思っていたのだがーーーーーーー。

 ほんのささいなことから、恒例行事は中断されてしまった。

 いつものように帰ってきた弟を極上の笑顔で迎えただったが、横笛を持つ龍蓮の手の甲に赤い筋が走っているのを見て、途端に血相を変えたのである。

「まあ、どうしたの龍蓮! 手から血が出てるじゃないっっ!!! 」

 一方の龍蓮は、の指摘を受けてようやく傷のことに気づいたようだった。
無理もない。傷といってもさほど深いものでもなく、少々皮膚の皮が切れて血がにじみ出たその程度のかすり傷だったのだから。

「む、完全に避けたつもりだったが、多少かすっていたか。
心配はいらない、姉上。ほんのかすり傷だ」

「何言ってるの! たかがかすり傷だって、馬鹿に出来ないのよ? その傷口から悪い菌が入ってとんでもない病気になることもあるんだから!!! 」
 放置しておけば治ると言外に言う龍蓮の言葉に、は激昂する。そして彼女は有無を言わさずに弟の右腕を掴むと、手近な部屋へと歩き出したのだった。



 に用事があった楸瑛は、姉の部屋を訪ねたところで仕女から龍蓮の帰宅を知らされた。弟が帰ってきたとなれば、がいる場所はもうわかったも同然である。
 そこで早速、無駄に広い屋敷の玄関へと足を向けてみるが。肝心な姉弟たちはどこにも見当たらない。楸瑛は近くにいた仕女を捕まえると、彼らがどこにいるのかを訊ねてみる。すると、おそらく玄関近くの部屋にいるだろうとの答えが返ってきた。
 仕女から姉弟たちの居場所を聞き出した楸瑛は、無駄に広い屋敷の中を最短距離で必死に歩き通して、ようやく姉弟たちを見つけることに成功したのだった。

 しかし。

 姉弟たちがいる部屋に足を踏み入れて、楸瑛は一瞬我が目を疑った。

 なにせ、常に飄々とした態度を崩さない龍蓮がバツの悪そうな表情を浮かべ、そんな彼の前で姉のが怒りの形相を露わにしていたからだ。
 とにかく龍蓮を可愛がって可愛がって可愛がりまくっているは、よほどの事がない限り、彼の前で怒りの感情を露わにする事はない。もっとも楸瑛は、それとはまるで対照的に怒られるか、からかわれるかのどちらかの対応しかしてもらっていないわけだが。

 一体なにがあったのか。はたまた世界に未曾有の事が起こる前触れかーーーー。

 本気でそんなことを頭の中で思い浮かべる楸瑛だが、ふと視線を巡らせてある事に気づいた。

(………おや? )

 龍蓮の右手甲にうっすらと赤い線が走っている。それは、筆を使っている時に誤って赤い墨汁を手につけてしまったーーーという代物ではない。明らかに鋭い刃物のようなものをかすって出来たような傷だった。

 四才の時に“藍龍蓮”の名を襲名した彼は、かれこれ十年以上も流浪の旅を続けている。一見すると華奢に見える彼だが、こう見えてそれなりに腕も立つ。ましてそれ以前に、このド派手な格好に恐れを成して(関わり合いになりたくないとも言うが)盗賊や山賊たちですら避けて通ってくれるのである。
 そのために余計な揉め事に巻き込まれるはほとんどなく、手傷を負って帰ってくる事など一度たりとも無かったのだ。本日を除いて。

 だからこそ、常日頃この弟とあまり関わり合いになりたくないと思っている楸瑛も、自分から問いかけの言葉をかけることにしたのである。


「一体何があったんだい? お前を襲う盗賊なんて、まずいないと思ってたんだけど。
世の中には随分な物好きもいたものだね」

 その言葉に、龍蓮は少しばかり後ろを振り返る。
だが彼は、そこにいた自分の兄の姿を認めただけですぐにまた、顔の位置を元に戻してしまう。

「ここに来る途中で、いたいけな少年によってたかって暴力を振るうならず者たちを見つけたものでな。
そのような無粋な真似をするのは己の品性を貶めるだけだから、やめるようにと忠告してやったのだが、なぜだかそやつらが怒り出して私へと向かってきたのだ。
世俗に関わることはあまり好まぬが、降りかかってきた火の粉は払わねばなるまい。
それで仕方なく一戦交えてきたというわけだ」

 そこでようやっと、楸瑛はらしくない姉弟たちの態度に合点がいった。
殊に龍蓮を贔屓し、溺愛しまくっているの事だ。おそらく彼がかすり傷をつけてきたことに半ば気が動転してしまったのだろう。とりあえず自分の部屋龍蓮を連れてきたものの、ようやく動転していた気が落ち着いた彼女は、早速怪我を負ってきた弟を叱り飛ばしたに違いない。
 そして、楸瑛と違って普段からに怒られ慣れていない龍蓮は、困惑する以外他になくて、あんな表情を浮かべていたのだろう。

(……にしても、本当に姉上は龍蓮の事となると目の色を変えるんだから…)

 彼女の龍蓮溺愛は今に始まった事ではないが、同じ弟としてこれほど差をつけられてしまうのは、やはり面白くない。

 だが外見上はいつもと変わらぬ風を装いつつ、ならず者たちがいきなり怒り出したその理由を理解する事ができないでいるらしい弟に対して、楸瑛は珍しくも単純明快・全くひねりのない嫌味をぶちまけた。

「…そりゃあ、お前にそんな事を言われれば誰だって怒るだろうね」

「他人の忠告を素直に聞き入れぬ事が出来ぬとは、ならず者たちも愚兄其の四も全くもって器量が小さいな」
 対する龍蓮は、本当に思った事そのものを口にしただけ。否、歯に衣着せぬ物言いとも言う。
だがその『思った事を口にするだけ』の行為が、ときに下手な皮肉や悪口よりもはるかに強烈な打撃を相手に残す事があるのは事実である。

「………龍蓮」
 少なくともこの理解不能な弟と会話をそれなりに成立させられている自分は、世間一般で言う“器量が広い人”よりもはるかに器量が大きいと思うのだが。

 相も変わらぬ奇天烈ぶりを発揮する龍蓮を尻目に、楸瑛は深々と溜息をついた。


「楸瑛! 貴方、仮にも自分の弟が怪我して帰ってきたっていうのに、その反応は何?!
普通はもっと心配するなり何なりするんじゃないの?! 」
 そして。龍蓮の事となると見境の無くなる才色兼備な姉は、やはりどこまでも楸瑛に対して厳しい態度を貫き通す。だが彼女の言った言葉は、あながち見当外れなものではない。

「………そういう姉上こそ、私の時と龍蓮の時とあまりに差がありすぎます。
私がかすり傷を作ってきた時には、“舐めとけば治るから舐めなさい”の一言で終わりだったでしょう? 」

「そうだったかしら?
でもね、私つい最近“傷口を舐めるのはかえって良くない”と邵可様から教えて頂いたばかりだから」
 いけしゃーしゃーと言い放つの言葉に、楸瑛は返す言葉もない。

「……姉上は本当に、龍蓮には甘いんですから」

「今更何をわかりきったことを言っているのだ、愚兄其の四」

「私は姉上に言ったんであって、君に言ったわけではないんだけどね」

「そこで龍蓮に突っかかるんじゃないの、楸瑛。
第一ね、貴方は武官でしょう? 武官なら多少のかすり傷、出来て当たり前じゃない。
それをいちいち心配なんてしていられないわよ」

「…………」
 の言っている事は、あながち間違いではない。
間違いではないのだが……、やはり多少腑に落ちない部分があるというか。
彼女が龍蓮を特別視しているのは今に始まった事ではないし、楸瑛自身もそのことを十二分に承知している。承知してはいるのだが………。

 それでも明らかな依怙贔屓を目の前にして、面白いとは思えないのだ。


「姉上は私が大怪我をしたとしても、きっと心配しては下さらないのでしょうね…」
 本当は彼女にカマをかけることを意識して口にした言葉であったにも関わらず、実際に口に出された楸瑛の口調はどこか拗ねた子供を彷彿とさせるそれであった。

 さすがにそんな声を出されてしまうと、いかなといえど放っておくことなど出来るはずもなく。
彼女は溜息を一つ吐き出し、片方の手にとった龍蓮の手は離さぬまま、もう片方の空いている手で隣に座る楸瑛の髪を優しく梳いてやる。

「あのね、楸瑛。仮にも羽林軍の将軍職に就いている貴方に重傷を負わせられるような相手が、この世のどこにいるというのかしら? そりゃあ白・黒大将軍や宋太傅辺りなら出来るかもしれないけど、味方相手に殺気満々で剣を抜くような方々でもないでしょう?
だから私は、貴方の事を心配する必要はないのよ。貴方が強い事は知っているから」

 はそう言って、楸瑛には滅多に見せない弟を慈しむ姉の顔を浮かべる。

 その表情を目の当たりにして、楸瑛は思わず言葉をなくした。

「…………」

「だいたい龍蓮と貴方じゃ、どう見ても貴方の方が丈夫そうじゃないの。
なら当然、私が貴方よりも龍蓮を心配するのは当たり前の事よ。
そのくらいのこと、少し考えればわかることなのに」
 半ば呆れたような口調でぼやくの様子をぼんやりと眺めながら、楸瑛は不思議と心の一部があたたかくなっていくのを感じていた。


 滅多に口にする事のない、の本音。
 自分も彼女の中で“弟”という立場にあるのだと、確かに確認出来るその言葉。

 最愛の姉からもらえたその言葉は、楸瑛を喜の感情へと誘うには十分なものであった。

 突き放すようでありながらも、結局それは自分を信頼してくれているからこその態度。
 過保護に包み込む龍蓮への愛情とは違う、楸瑛だけに与えてくれる確かな愛情の形。

 それは一見すると目に見えないものかもしれないけれど。
 ふとした拍子に目にする事の出来る彼女の愛情は、とてもあたたかくて。



「………だから、私は貴方が愛しくてたまらないのですよ……姉上」
 呟く楸瑛の表情は、珍しくも年齢不相応の。
妙に子供じみた、それでいて朗らかな笑顔であった。



「寝惚けて不埒な事を口走るな、愚兄其の四。
そこらの女だけでは飽き足らず、姉上まで毒牙にかけるつもりか」

「あら、龍蓮。あれは楸瑛の素であって、寝惚けてるワケじゃないわよ。
絳攸曰く、どこでもいつでも楸瑛は“年中常春頭”だそうだから」

 珍しくも不快の色を露わにした、龍蓮の牽制の言葉と。
 いつも通りの不敵な表情を浮かべた、の容赦のない言葉と。

 耳内に聞こえてきた異なる二つの声に反応して、楸瑛はようやく我に返った。
それと同時に、自分が気づけば思考の波に呑み込まれていたことを理解する。


(………全く、私らしくもない……)

 胸中で自嘲の呟きを漏らしつつ、やはり姉には敵わないと改めて実感する。

 一つ一つの言葉と行動と。
 それだけで自分を容易く翻弄させてくれる、ひと。
 恋情とは全く違った形で心の一部分を占める、大切な女性。

 なぜなら彼女は、自分にとってたった一人の姉なのだから。



 そんな当たり前の事を今更ながらに自覚しつつ、顔を上げて。楸瑛は絶句した。


 かすり傷を負った龍蓮の手を両手で包み込み、頬を寄せる
 そして、すぐそばにある彼女の艶やかな黒髪に頬を寄せる龍蓮。

 どこからどう見ても健全な姉弟のあるべき姿ではない。
 断じて。絶対に。

 が龍蓮を必要以上に可愛がっている理由も彼女の想いも、龍蓮がに抱く想いが普通の身内に抱くそれよりも遙かに強いことも。楸瑛は重々承知の上である。

 承知しては、いるけれど。


 やっぱり目の前で弟を必要以上に溺愛する姉の姿を見るのは、正直面白くないのだ。



「………たまには、私も姉上に過保護にされてみたいんですけど……ねぇ」

 疲れたように呟くそれは、楸瑛の嘘偽りのない本音。






*後書き…
・お姉ちゃん過保護の巻。とにかくヒロインは、龍蓮に対してとことん過保護です。
久々に過保護夢でありながら、なんだか微妙に兄弟VS気味に見えるよぉ……。
実はひそかに楸瑛に対しても過保護ですが、彼女は見えるところでそれを出しません。
だから、楸瑛がいろいろと無駄に悩んじゃうわけですね。うん。
しかし。藍家姉弟夢を書いてくうちに、だんだん楸瑛もシスコン気味になりつつある…。
う〜ん……、たまには楸瑛らしい格好いい楸瑛を書いてみたいものです(意味不明)。