時々、意味もなく貴方に抱きしめてもらいたいと思う時がある。
【それはまるで、襲い来る津波のように】
足を踏み入れれば、そこには様々な部署から寄せられた書翰の山が大量に連なっていることは、彩雲国王の執務室ではけして珍しい事ではなかった。というのも、一国を取りまとめる王ともなれば、自然とやらなければならないことは多いからである。そして王を補佐する側近である彼ら二人もまた、相応にかなりの量の仕事をこなす羽目になる。
………そう、たいていの日は。
だが時折、仕事の量が多くもなく、皆が真面目に仕事に取り組む日というのもある。
それは滅多に訪れる事のない日ではあったが、本日は奇しくもその滅多にない日に該当する日であったようだ。
「……………」
手持ちぶさたというのは、まさに今自分が置かれている状況の事を指すのではないかと、は何とはなしに思った。
仕事の量が少ないということは、雑用もそれほど多くはないのは当然で。いつもの通りにやることをやり終えてしまえば、あとは意味なく時間を持てあます羽目になる。
各部署に書翰を届けるのも彼女の役目ではあったが、あいにくと本日は他の部署へと持って行く書翰というのも特にはないようであった。無論、書翰の二つ、三つならあるのだろうが、それらだけのためにわざわざ広い外朝内を歩くのも、いまいち気分が乗らない。
(……はぁ………)
皆の邪魔にならないよう、後ろに控えている身ではあるのだが。ついつい溜息をつきたくなってしまうのは、仕方あるまい。
手持ち無沙汰でやることもなく、ただなんとなく部屋にいるだけしかできないの視線は、本人も無意識のうちにある人物へと向けられていた。
だが当の本人はまるでそのことに気づく様子もなく、一心不乱に書翰に筆を滑らせていた。彼の手によって次々と処理されていく書翰は徐々に山を作り始めている。しがない雑用係である彼女の面目躍如の時は、もう間近に迫っていた。
と思いきやーーーー。
「………さてと。それじゃあ私は、仕上がった書翰を各部署に提出してきますね。
主上もずっと座ってばかりでは疲れるでしょう? ご一緒しませんか? 」
いつの間にやら仕上げた書翰の山を綺麗に揃えながら、楸瑛は何のこともなげに口を開く。
だが、その内容というのがあまりに突拍子もないものだった。そのため、彼に話を振られた主上こと劉輝だけでなく、ひたすら書翰に筆を走らせていた絳攸も思わず動かす手を止め、顔を上げていた。
「余も一緒に行かなくては駄目なのか…? 」
苦い口調で零す劉輝の表情は、いかにも嫌そうに歪んでいた。
各部署へと書翰を回すということは、とどのつまり各部署に顔を出すという事に他ならないわけで。場合によっては部署の長官クラスの人間と顔を合わせる羽目にすらなる可能性もあるのだ。
吏部省の長官である紅尚書と戸部省の長官である黄尚書。特に後者に関して無意識下の苦手意識を持っていた劉輝にしてみれば、当然の反応である。
「ええ。ずっと座ってばかりでは疲れるでしょう? たまには歩く事もしませんと」
女性に向けたなら十人中十人が魅了されるに違いない微笑みを浮かべて、楸瑛は劉輝を促す。
「………むぅ」
確かに座りっぱなしでは腰を痛めるし、いい加減書翰との睨めっこにも飽きてきていた劉輝は、楸瑛の言葉に心揺り動かされる。その心中は、劉輝の表情を見れば一目瞭然だ。
作ろうと思えば無表情を装う事も出来るものの、基本的に彼は側近たちの前で形を作らない。それは彼らを無条件に信頼している証でもあり、本音で付き合ってくれる二人に対する相応の態度であった。
迷う劉輝の感情を読み取った絳攸は、半ば呆れたような視線を同僚へと向ける。
「あのな、楸瑛。お前の言う事には確かに一理あるが、どうしてそれが今である必要がある。
行くならそこにある仕事を全部終えてからにしろ」
生真面目な絳攸らしいその言葉に、楸瑛はなぜかクスリと笑みを漏らした。
「………鈍いね、絳攸」
「………は? 」
まるで関連性のない楸瑛の言葉に、絳攸は思わず間の抜けた声を返していた。
「主上もわからないとは言わせませんよ? 日頃、彼女にはさんざんお世話になっているんですから、たまには逆にお返ししてあげてもよろしいのでは?
女性からもらいっぱなしで返す事をしないなんて、男としては最低ですよ」
「…………わかった。余も一緒に行く」
わけのわからないことをサラリと言ってのける楸瑛だが、驚いた事に劉輝にはそれで彼の意図はちゃんと伝わっていたらしく。劉輝は下ろしていた腰を上げると、机の上に乗っていた書翰の山を手にする。
「ちょっと待て、お前たち。わけのわからない話をして、俺をごまかすな! 」
「ごまかしてなんていないよ? ただね、いつもいつも健気に働いてくれている可愛い妹にたまには良い目を見せさせてあげたいと思うのは、兄として当然の感情だと思わないかい? 」
怒気混じりの絳攸の声音にも動じる様子もなく、楸瑛は含みのある視線と共にこれまた含みのある言葉を返す。
「そういうわけだ。心配ない、書翰を届け終わったらちゃんと真っ直ぐにここへ帰ってくる」
「そうそう。だから心配せずに、ゆっくりと休んで欲しいものだね、絳攸」
「………おい、楸瑛……」
未だ理由のわかっていない絳攸の言葉は無視して、楸瑛と劉輝の二人は各部署へ届けるべき書翰を持ってさっさと部屋を後にしてしまう。まさか追いかけていくわけにも行かず、絳攸はもやもやとしたものを抱えたままで、仕方なく一人仕事に戻った。
そして。本来雑用係であり、書翰を各部署へ持って行く仕事を担うはずのは、仕事を楸瑛と劉輝の二人に横取りされてしまい、実に不満そうな表情を浮かべていた。
本当は先ほどの三人の会話の中になんとか口を挟もうと機会を伺っていたのだが、あいにくとそのことは楸瑛に見抜かれていたのか。
彼は全くが口を挟む隙を与える暇もなく、さっさと逃げていってしまったのだ。
なんとなく釈然としない思いを抱きつつも、はとりあえず今の自分に出来る事をしようと執務室に備え付けの給湯室へと足を運んだのだった。
「絳攸も少し、休んだら? 」
給湯室でお茶を入れてきたは、表情をしかめたままで机の上の書翰を片づける絳攸に声をかけた。
「……そうだな」
小さく息を吐くと、絳攸はが机の上に置いた湯飲みを手に取った。
ほんのりと芳しいお茶の芳香は、不思議と身体に溜まった疲れを取り除いてくれるかのような錯覚にすら陥る。
「………全くなんなんだ、あの二人は」
口当たりが良く喉ごしの軽いお茶を一口啜ると、自然と絳攸の口から言葉が漏れる。
確かに彼からしてみれば、楸瑛と劉輝の会話は全くもって意味不明なものにしか聞こない。
だが当のは、実のことを言うと半ば当事者である。それゆえに、彼らの言葉の内容をおおまかに捉える事が出来た。あの二人が珍しくも書翰届けをしてくるなどと言い出したのは、おそらく彼らなりの配慮――つまりは気を利かせてくれたのである。
(本当に藍将軍は鋭いんだから………)
部屋の隅で所在なく立っていたの心境を、彼女の仕草や態度からあっさりと見抜いてしまった楸瑛の勘の良さには全くもって恐れ入る。
全く藍龍蓮といい、藍楸瑛といい、藍家の人間はどうしてああも人の感情を機敏に読み取る事が出来るのか。彩七家筆頭の大貴族であるという点だけでなく、そんなよくわからない面でも藍家のすごさを実感してしまうであった。
そんなことにふと思考を寄せつつも。
気づけば一つの思いが、たやすく彼女の思考すらも奪っていく。
喉を通って声になりそうになる思いを、は理性でねじ伏せる。
それでも一時の衝動は抑えきれるものではないけれど。
衝動の波がおさまれば自然とおさまることだと、今までの経験で知っていたから。
だからこそ。
何気なくかけられた絳攸の言葉に、は驚かずにはいられなかった。
「………どうした、? 何か俺に言いたい事でもあるか? 」
「なんで……? 」
大きな目をより一層見開いて驚愕の色を浮かべるに、絳攸は苦みを帯びた微笑を浮かべる。
「お前がこうやって人の服の裾を掴んでる時は、たいてい何か言いたいことがあるときだろうが」
「あ………」
言われて気づけば、の両手はしっかりと絳攸の服の裾を握っていた。だが彼女自身は無意識下でやっていた事だから、彼に指摘されるまで全く気づかなかったのだ。
「言いたい事があるなら、口で言え。俺は楸瑛ほど勘は良くない。
そのくらいのこと、お前ならわかってるだろう? 」
「……………」
口で言え、と言われても。
言える事と言えない事があるわけで。
(………抱きしめて欲しいなんて、言えない………)
恋人同士ならいざ知らず、ただ自分が一方的に想っているだけの相手にそんなことが言えるはずもない。まして絳攸は基本的に女性嫌いなのだ。
そんな彼にどうしてそんなことが言えよう。いや、言えまい。
促されても答えるに答えられず、は目を伏せた。
「? 」
顔を俯かせたまま、一向に顔を上げようとしない少女に、絳攸は声をかける。
だが彼女は、その声が聞こえているのか、否か。顔を上げようとはしない。
浮き沈みの激しい彼女の事だ、また何かささいな事で思い悩んでいるのだろう。
絳攸は何も言わないまま、俯くの頬に手を当てて無理矢理に顔を上げさせた。
そうして露わになった彼女の表情を見て、彼は無理に顔を上げさせた事に後悔する事になる。
伏せ目がちに開かれた黒曜石の瞳に宿る光は、ゆらゆらと波間を漂うように揺れている。
その漂う光は、なんとも儚げで頼りなく、いつ消えてしまってもおかしくはないほど。
揺れる漆黒の双眸は、ほんの少し衝撃を加えてやればたやすく大粒の涙を零すだろう。
だが。憂うように、悲しむように伏せられた瞳とは裏腹に、服の裾を掴む手の力は全く緩む気配がない。
ここしばらくはあまり見せなくなったものの、彼女が黎深宅に引き取られてきたばかりの頃によく浮かべていた独特の表情。
手を伸ばしたくても、つい躊躇って伸ばそうとした手を引き込む。
逡巡と迷い、求める思いとは裏腹に踏み切る事の出来ない臆病さに溢れるその色は、一途な想いを裏切られて捨てられた子猫が、差し伸べられた別の優しい手を取れないでいる様子を彷彿とさせる。
それは彼女が人恋しくてたまらない時によく浮かべていた表情。
誰かに構って欲しくて、甘えたくて。
それでも思いを口に出すだけの勇気を振り絞れずに、途方に暮れていた猫の子。
『甘えたい時は、いつでも言えばいい。
俺でいいなら、好きなだけ甘えさせてやる』
何度彼女にそう言った事だろう。
それでも彼女は、猫のように自分から甘えてくる事はほとんどなかった。
ただ甘えたくて仕方ない時には、いつもこうして服の裾を掴んでくるのだ。
それがいつしか、彼女の精一杯の意思表示なのだと気づいた。
まあ……振り返ってよく考えてみれば、年頃の少女がさほど年の離れていない男性に対して「甘えさせて」などと言うのは相当抵抗のある事である気もするのだが…。
あのときはどちらかというと、猫の子という印象しかなかったのでついついそんなことを言ってしまったのだが、ふと思い返してみれば我ながらとんでもないことを口走ったものだと思う。
「…………」
が一体何を自分に求めているのか、朧気ながらも理解すると。
楸瑛や劉輝の不審な行動や言動にも、すんなりと納得がいくというものだ。
「………あの、ね……絳攸………」
絳攸の着物の裾を握る手に力をこめて、は訥々と言葉にならない言葉をたどたどしく紡ぎ出そうとする。
しかしその様子は、今にも枯れてしまいそうな水の流れのようにひどく弱々しい。
そのまま放っておけば、言いたい事の半分も言えぬままで流れが止まる事は明白だった。
「何も言うな。黙ってろ」
の性格をよく知る絳攸は、今のような状況で何をしてやる事が最善の策であるか、頭で考えるよりも経験で知っていた。
ゆえに。彼は服の裾を握るの片腕を掴むと、少女の身体をぐいと引き寄せる。
いきなり前触れもなく腕を引かれたは体勢を崩して、ぐらりと前に倒れ込む。
だがそうなることをあらかじめ承知していた絳攸は、彼女の背を支えて自分の方へ引き寄せる事で転倒を回避する。
その結果、は絳攸にすっぽりと抱きかかえられる形になったわけである。
最初の内は目を瞬かせて呆気にとられていただったが、すぐに自分を包み込む人肌のぬくもりにそのまま身を任せた。
あたたかくて、優しい抱擁。
すぐそばにある、確かな人のぬくもり。
一定のリズムを刻む心音とほんのり香る香木の残り香。
そして何より、大好きな人の腕の中にいられるという至福の幸福感。
それらに酔いしれるように、は頬をすり寄せる。
その様子はまさしく、甘えてじゃれつく猫そのものだ。
「………俺も甘いな……」
自覚はある。
今は仕事中だし、まだ書翰処理の全てが終了したわけではない。
それでも、このままを放っておく事も出来なかった。
他人に迷惑をかけるならと、自分を抑えつける癖すらついている彼女を。
そのまま放っておけば、間違いなく前と同じことを繰り返しかねないから。
それに何より。
こうして無防備に甘えられるのは、けして嫌ではなかったから。
幸せそうな笑顔を浮かべてしがみついてくるの髪を撫でながら、絳攸はふと自嘲の溜息を漏らす。
だがその表情は、自嘲とは到底ほど遠い穏やかなものであった。
*後書き…
・かなり久々になります、虎姫ヒロイン・絳攸夢の更新であります。
実はかなり前から出来上がっていたものに、多少手を加えただけという代物ですがね。
所謂「衝動」と呼ばれるものが今作品の中核を成してますが、虎姫の場合は「ぬくもりが恋しくなる」というパターンです。彼女の場合、過去のこともあって人のぬくもりに飢えてるところがありますので。多分場合によっては、「天然毛皮(虎)が恋しい」なんてこともあるんでしょうね、彼女ならば。そうして何も言わずに山へ行って、虎と思う存分じゃれてきてから家に戻ってきて、そこで絳攸に怒られる。と。
このパターンを書いてみるのも面白いかも(笑)。