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「あぁ、やはり降ってきてしまったね」 感慨もなく、淡々と告げるその声音は、静かな部屋の中に妙な余韻を残して響く。 その言葉に玉が顔を上げてみれば、窓の外はすっかりと雨模様だった。 【雨だれの小夜曲】 天の住まう神仙が盥の水でも零したかのように、曇天の空から水が落ちてくる。 落ちてくる天津水は、絹糸のように細かい雨粒ではない。清らかな乙女が流す大粒の涙を彷彿とさせるほど、粒の大きな雨である。 霧雨ならば傘をささぬままで家に帰ってもさほど害はないだろうが、これほど大粒の雨ともなればそういうわけにもいくまい。間違いなく家に着いた頃には、後日風邪をもらう副賞付きで全身濡れ鼠状態であろう。 「…まいったな。楸瑛はもう帰った後だろうし、かといって傘は持ってきてないしね…」 机の上に積み上げられた書翰を綺麗に整理する傍らで、大地に降り注ぐ清露へと視線を投げた藤瑶犀,は、憂い顔も麗しく、半ば独り言のようにぼやいた。その容姿は異母弟である藍楸瑛に瓜二つの容貌ではあるが、窓の外へと向けられた紺碧の双眸が、瑶犀,と楸瑛の違いをはっきりと周りにしらしめている。 「それならば、軒で帰ればよろしいのではありませんか? 」 同じ室内で書翰に筆を走らせていた青年は、筆を走らせる手はそのまま。顔を上げる事もしないままで、瑶犀,に問うた。 癖のある鮮やかな蜜柑色の髪と、官服を彩る数々の装飾品と。その二つの特徴を併せ持つ人間は、いかに外朝広しといえども工部侍郎・欧陽玉ただ一人である。 「おや、少し会わなかった間に忘れてくれたのかな。 あいにくと、私は軒に乗るのがあまり好きではないんだよ」 まるで左近衛将軍――つまりは瑶犀,の実弟ーーによく似た口調で言葉を返されて、玉はなぜか返すべき言葉を失った。 しかし、それもほんの一瞬の事で。 「それは知っていますけれど……。でしたらなぜ、遅くなるとわかっていながら、貴女は私の仕事を手伝いに来て下さったのですか? 」 すぐに持ち直した玉は、書翰に落としていた視線をゆっくりと上げる。そうして翡翠色の双眸を、外をぼんやりと眺め続ける相手へと向け、つい数刻前からずっと抱き続けていた疑問をぶつけた。 「………玉。君の目には、私が『上司の不甲斐なさで残業せざるを得なくなった友人を尻目に、高笑い一つ残して去っていく』人間に見えているのかな? 」 けだるげな様子を残したまま、その人は紺碧の双眸をゆっくりと玉の方へ視線を移す。 振り向くのとほぼ同時期に発した言葉は、相手にしては珍しくも抑揚の少ない淡々とした声であったが。言葉の裏に隠された感情は、けして険呑なものではなかったから。 玉はかすかに苦笑いを浮かべると、溜息混じりに返答する。 「…………いいえ。貴女がそんな無体な事を出来るような方でない事は、十二分に知っていますからね、瑶佳」 相手の言葉の中に、さらりと流すわけにはいかぬ言葉を認めた相手――瑶犀,は、かすかに眉を潜めるが。 「玉。外朝ではその名で呼ばないようにと……………、まあいいわ。 こんなに遅い時間に残ってる連中なんて、指で数える程度しかいないでしょうしね」 途中でふっきれたのか。彼…いや彼女の顔に、実弟と瓜二つの余裕の笑みが戻ってくるまでには、さほどの時間を要さなかった。 そして彼女は、外朝内にいる際に外すべきではない頭冠をいともたやすく取り払う。すると冠が外れるのに比例して、見るも鮮やかで艶めいた漆黒の髪が彼女の背を滑り落ちていく。そうしてしまえば、弟そっくりの容貌もまるで違って見えてくるから不思議だ。 現礼部侍郎・藤瑶犀,。のちに“悪夢の国試”と呼ばれる年の国試に四位で及第し、眉目秀麗・頭脳明晰の誉れも高く、有能さに加え、その徹底した部下の教育ぶりから「礼部の裏尚書」とすら呼ばれる能吏である。藍家当主の命で数年藍州へ連れ戻されてさえいなければ、間違いなく礼部尚書になっていたと噂に上るのは、外朝に務める者の多くが知るところだが。 その正体が彩七家筆頭名門、藍家長姫――藍瑶佳であることを知る者は多くない。 そして欧陽玉は、藤瑶犀,の正体を知る数少ない一人である。 「仮に残っていたとしても、工部を訪れる者がいるとは限らないですからね」 このまま筆を握っていても、筆先の墨が乾いてしまうだけだろうと判断したのか。 玉は持っていた筆を卓の上に置くと、代わりに両肘を卓につき、組んだ両手の上に片頬を乗せる。そうして、視線だけを瑶佳の方へと向けて答えを返した。 「……そういうことよ」 彼が返した言葉は、今まさに瑶佳が言おうとしていたことそのものであったから、 言うべき言葉を失った彼女は、仕方なしに同意を示す言葉だけで相手への返答を済ませる。 だがその内心では、「打てば響く」ように的確な言葉を返してくる玉の間の良さに対して、舌を巻く思いでいっぱいであった彼女である。 「相変わらず、良い時に良い頃合いで言葉をくれるのね、貴方は」 「別に意図してそうしているわけでもないんですけどね」 瑶佳の穏やかな微笑を目の当たりにして、玉は慌てて彼女から視線を逸らす。 そして何気ない返答をしつつも、彼は心からこの場が薄暗いことに感謝せずにはおれなかった。その上、手元を照らす灯りは柔らかな橙色の炎を灯していたから、頬が赤いのを火に照らされたせいだと言い訳も出来る。 「そうね、それが貴方の自然体ですものね。 でも………だからかしらね。貴方の前に来るとつい、弱音を吐きたくなってしまうのは」 予想だにしなかった瑶佳の言葉に、玉は弾かれたように顔を上げた。 顔を上げーーーーー、彼は驚かずにはおれなかった。 穏やかに微笑んでいたはずの瑶佳の表情が、全く別のものに変わりつつあったからだ。 彼女の顔に浮かんできていたのは、哀の色。 哀の色を彷彿とさせるその表情は、どこまでも深く、どこまでも儚い。 「……雨は嫌いですか? 」 「そうねぇ……、嫌いではないけれど好きでもないわね。 雨の日には良い思い出はないけれど、空知らぬ雨を隠してくれるのは嬉しいわ」 席を立ち上がって、窓際まで歩み寄ると。 瑶佳は敢えて視線を外へ彷徨わせたままで、訥々と言葉を紡ぎ出す。 「瑶佳」 いても立ってもいられなくなり、玉は立ち上がると瑶佳の方へと足を進める。 「ごめんなさいね、玉。急にこんなこと言い出して。 すぐにいつもの調子に戻るから、ちょっとまっ………」 相手の方を振り返り、申し訳なさそうに言葉を紡いでいた瑶佳だが。 近づいてきた玉に、有無を言わさず抱きしめられて、思わず言葉を切った。 「戻る必要はない。無理して戻る必要なんてありません」 懇願するように囁かれた言葉に、瑶佳はかぶりを振る。 「そういうわけにもいかないわ。他人に甘えてばかりはいられないもの」 「甘えて下さい、瑶佳」 更に懇願するように、小さくも力強い口調で囁かれて。 瑶佳はわずかに困惑する。 「玉……」 「貴女のそんな脆い姿を見られるのは、私にとって喜びでもあるのですよ? 貴女がこうして弱い部分をさらけ出すのが、私の前でだけだというのなら、なおのこと」 「…………」 「いつもの凛とした姿も美しいですが、弱音を吐く時の貴女はなおのこと美しい。 憂いを秘めたその眼差しも、かすかに震える紅唇も。貴女の全てが愛おしい……」 熱に浮かされたかのように囁くと、玉は瑶佳の顎に手をかける。 そうして彼女が何か物を言うよりも先、その紅唇を自分の唇で強引に塞ぎ込んだ。 だが瑶佳はそれに抵抗することなく、そのまま相手の口づけを受け入れる。 口溶けの良い酒を飲み干したのと同じ、ほろ苦くも甘い口当たりに。 若い二人はしばし、酔いしれて。溺れゆく。 そうしてひとしきりの口づけに満足すると、玉はやんわりと相手を解放した。 「………場所を、少しはわきまえて欲しいものね」 解放されるやいなや、瑶佳は目の前の相手の頬を右手親指と人差し指で軽くつねる。 けして彼の口づけが意に沿わなかったわけではない。ただ、自分たちがいる場所が工部省の侍郎室であることに、いささか気分を害しているというだけである。 「貴女がそれをお望みなら、仰せのままに」 一方の玉は、頬をつねられたことに苦情を申し立てるでもなく、相手の右手首を掴んで、頬をつねる行為をやめさせただけだ。 その双眸に浮かぶ光は、どこまでもあたたかく柔らかく。 目の前の瑶佳に対する、彼の強い想いがそのまま浮き彫りにされているかのよう。 「本当に、貴方という人は……おかしな人ね。 いつもは滅多に私に触れようとしないのに、なぜか私が弱音を吐く時だけ妙に大胆」 自分を愛おしげに見つめてくる相手の視線がくすぐったくて。 瑶佳は照れ隠しの笑みを浮かべつつ、玉の胸元に額を預けた。 「弱音を吐いている時くらいしか、貴女が私に甘えてくれる事はありませんからね。 そう思っているのなら、もう少し私に甘えて下さってよろしいのですよ? 」 愛しい相手の思いがけない反応に、玉はやんわりと笑顔を浮かべる。 こみ上げてくる嬉しさを隠せぬままに紡いだ言葉は、端から聞いてもわかるほどにとろけていた。 「………善処するわ」 ぼそりと呟かれた瑶佳の言葉には、己に対する不甲斐なさを恥じる心がありありと滲み出ていた。 「とはいえ、不必要に甘えられても困るんですけどね。 文官不足の今、貴女のような有能な官吏に抜けられると困りますし」 「誰も家庭に入るといった覚えはないのだけれど? 」 相手が言外に含ませた意味を読み取った瑶佳は、いささか機嫌を害したのか。 反論の意志をたっぷりと含ませた鋭い瞳で、玉の双眸を射る。 しかし、相手も心得たもので。 「最愛の女性に甘えてこられて、何もしないでいられる男が世の中にいるとでも? 」 なんでもないことのように、さらりと爆弾発言をかましてくれる。 「…………玉。言っておくけど、今ここでこれ以上何かしてこようとしたら、容赦なく縁切るからね? 」 ジト目で相手を睨みつける瑶佳だが、その頬は真っ赤に染まっていた。 ゆえに睨みつけられた相手が怯むはずもなく、彼女の一連の行動は相手の庇護欲を掻き立てるだけに終わる。 「無論、心得てますよ」 極上の笑みを浮かべてそう答えると、玉は瑶佳の漆黒の髪に頬を寄せた。 滑らかな心地よい感触を残す彼女の髪からは、仄かな薫香が香る。 その香しさは言葉に例えようもなく、彼はしばし薫香と心地よい肌触りとに酔いしれる。 「………仕事しなさいよ、玉」 「わかってますよ、瑶佳。あと少しだけですから」 咎める彼女の言葉に、玉はなおも華奢な身体を抱く腕に力を入れる。 「…………本当に、あと少しよ? 」 瑶佳は呆れの溜息と共に言い放つが、その言葉はひどく優しいものだった。 降り注ぐ香雨は、まるで歌うように大地の上に舞い降りる。 雨だれの音色に耳寄せて、恋人たちはしばし休息の時を過ごす。 空から流れ落ちる天津水は、一向にやむ気配をみせないけれど。 彼女の心の雨はもう、すっかりとやんでいた。 *後書き… ・玉夢普及を掲げて頑張ってみたのですが、張り切りすぎてかなり筆が滑ってる作品。 いろんな意味で突っ込み処満載ですね。ヒロイン、男装の意味ないし、性格が変わってるし。 一度このヒロインで玉夢を書きたくて仕方なかったので、個人的には満足してるんですけどね。 珍しくも糖度高めですが、妄想フィルター二重がけで見た私的玉さん像はこんな感じです。 なんというか、ヒロインよりよほど乙女…? お願いですから、石だけは投げないで下さいね………(滝汗)。 |