「……それにしても、の帰りが少し遅いとは思わないか? 」

 鳳珠の怒りが無事におさまったのは、黎深が自身の湯飲みに三杯目のお茶を注ぎ足して一息ついた頃だった。ようやく平常心を思い出したらしい彼は、ふと我に返ると、すっかりと和みモードに入っている相手に目がけて言葉を投げかけた。

 ちなみに鳳珠が仮面を外している時には、部屋の周囲には人払いがかけられているため、お茶を注いでくれる給仕がいない。そのために黎深は、自分でお茶のお代わりを注ぎ足していた。
 紅家当主にして吏部尚書というその立場ゆえに、人にお茶のお代わりを注がせることこそあれ、自身で注ぎ足すことなど皆無に等しい彼だったが、実に自然な所作でもって湯飲みにお茶を注いでいた。この辺りが何でも器用にこなす黎深らしいといえば、実に彼らしい。

「ああ、そうだね。でもあれだけ腫れてた目をなんとかしようと思ったら、これくらいの時間はかかるんじゃないのかな」
 黎深は、落ち着いた表情に戻った友人の美顔を眺めながら、実に優雅な所作で一服する。そして湯飲みを卓机の上に置くと、五本爪を持つ龍が描かれたそれの縁を軽く爪で弾いてやった。

「人事みたいに言うな、馬鹿。
そもそもの目が腫れたのは、お前とお前の養い子の二人のせいだろうが」

「絳攸はともかく、どうしてそこで私の名前が出てくるんだい。
私はを泣かせるようなことは一切していないよ」

「子の不始末は、親の教育に問題があるに決まってるだろうが」

「それなら言わせてもらうが、鳳珠。あれが極度の女嫌いになったことに、私は何の関係もないよ。関係があるとすれば、一部の馬鹿官吏とその娘たちだろう。
文句を言いたければ、そいつらに面と向かって言ってきてくれ」

 実の事を言えばあの当時、散々官吏連中から縁談話を持ち込まれて困っていた絳攸を『見ていて面白いから』という理由で、黎深は最後の最後まで助けようとしなかった。それゆえに全く関係がないわけではなかったりするのだが、幸いな事にその辺りの事情を鳳珠は全く知らなかったので深く突っ込まれる事はなかった。

「……誰がそんな面倒なことをするか。時間の無駄だ」

「だよねえ。君ならそう言うと思ってたよ。
…………それにしても本当に遅いね。鳳珠、井戸ってどの辺にあったかな? 」

「井戸のある場所なら、ちょうどそこの右から見える」

 黎深は鳳珠に教えてもらった通りに井戸がよく見える場所まで移動すると、早速そこから井戸の方を眺め遣る。

そしてーーーーー。

 滅多な事で動じることのない黎深だが、今回はものの見事に硬直していた。


「どうした、黎深」

「え、いや、なんでもないよ。なんでもない。
どうやらは、まだ目を冷やしているようだから、もう少し待ってみよう」
  すぐに表情を戻す黎深だが、あいにくと10年越しの腐れ縁な間柄である鳳珠に表情が変わったことを隠し通せるはずもなく。すっかりとお見通りであった。

「……………そこをどけ」
 だからこそ鳳珠は、場所を動こうとしない黎深を半ば強引に押しのけようとする。
一方の黎深は鳳珠が気功の達人であることを知っていたから、無理にその場に留まろうとせずに、そのまま彼に場所を譲ってやった。

 人間なんだかんだ言って、やはり我が身が一番可愛いものなのである。


 が目元の腫れを冷やすために使っていた井戸は、実のことを言えばつい先ほどまで彼女がいた部屋――とどのつまりは黎深や鳳珠がいる部屋――から良く見える場所に設置されていたのだ。これは別段深い意味があるわけでもなく、たまたま屋敷を造ったときにこんな風な作りになってしまったというだけのことであったのだが、本日の黎深と鳳珠にとってはこの偶然が幸いしたと言えよう。
 井戸の周囲がばっちり見渡せるその場所から、目的の場所へと目線を動かした鳳珠は、そこで繰り広げられている光景に思わず唖然とし、黎深同様に硬直した。
 否、硬直せずにはおられなかった。

 なぜならそこにいたのはだけでなく、先ほどから鳳珠が怒りの矛先を向けていた張本人である李絳攸の姿まであったのだから当然だろう。

 だがもしも、ただそれだけのことなら、あるいはただ庭先で話してるだけならば。
 あの黎深が硬直するようなことはなかっただろうし、彼がそれを鳳珠に見せまいとする必要も何一つとしてなかった。

 しかしーーーーー。

 当の二人は“鳳珠宅の庭先”で二人だけの世界を構築するだけに留まらず、相思相愛の恋人よろしく抱き合っていたのだから、さあ大変。

 あの時、咄嗟に嘘をついてでも黎深がこの光景を鳳珠に見せまいとしたのも無理はない。
なにせは、鳳珠がそれこそ目に入れても痛くない位に溺愛する大事な大事なお姫さまである。そんな彼女が他の男と仲睦まじくじゃれあっているところを目の当たりにして、果たして鳳珠が理性を保っていられるかどうか。
 しかもその相手というのが、黎深に縁ある絳攸であったからなおのこと質が悪い。
 自分を振った女性の嫁ぎ先が黎深のところであったことから、今なお彼に対してはたちまち感情を露わにする鳳珠の事だ。実の娘以上に溺愛していたを、黎深の養い子である絳攸に横取りされたとなれば、彼の激怒の感情は以前の比ではないだろう。
 鳳珠の心境を例えるならば、「永遠の宿敵である魔王の息子に、最愛の娘を攫われた父親」といったふうだろうか。(どんなたとえ話だ、それは)


「………鳳珠、一応言っておくけどね。絳攸には悪気はないんだよ。
ただ状況が状況だったから、周りのことが見えなくなってしまっている部分があるだけさ。
そもそもあの子は、君がを溺愛してる事を知らないんだから、それを勝手に『自分に見せつけている』なんて思うのは、君の被害妄想以外の何者でもないよ。
……鳳珠、ねえ、聞いてるかい? 」
 言っても聞く耳持つわけないとわかっていながらも、黎深は忠告せずにはおられなかった。

「……明日の朝議で、目にもの見せてくれる………」

 だが、やっぱり案の定。鳳珠は全く黎深の話など、耳に入ってはいなかった。

 なんとか彼を正気に戻してみようと、黎深は彼の視界の先で手をパタパタと振ってみたり、肩を揺さぶったりしてみるが、完全に頭に血が昇ってしまったらしい鳳珠にはまるで効果がなかった。


(やれやれ……、また鳳珠の悪い癖が出たか……)

 黎深は、怒りで生来の美貌をより一層輝かせながら視線を井戸の方へと遣る友人…もとい。心中で怒りを沸々と煮えたぎらせている鳳珠の姿を少し離れた場所から眺めていた。どちらかといえば、あまり感情を表に出さないーーというより通常は仮面を被っているので、それを判別出来る人間が一人しかいない――彼がここまで怒りを露わにすることは、ほとんど皆無に等しい。彼が仮面を被るきっかけとなった事件以来のことではないだろうかと、黎深はふと心中でひとりごちる。


「………にしても絳攸を焚きつけろとは言ったが、少々薬が効きすぎたか……? 」
 そして小声で呟く黎深は、珍しくも苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべていた。
 今回の騒動のおおまかな事情を侍女たちから又聞きした彼は、事態を好転させるべく、すでに手を打っていた。その手の一つが他ならぬ“藍楸瑛を絳攸の元へと遣る事”だったのだ。勘が良い上に女性経験豊富な楸瑛ならば、絳攸に対してなんらかの助言をしてやれるだろうと考えたからだ。
 そして、確かに。黎深の読み通り、楸瑛に焚きつけられた絳攸はに会いに来た。
それだけでなく、おそらくはなんらかの助言をもらってふっきれたのだろう。そのまま自身の想いを打ち明けて、彼女の想いに応えた……そこまではよかった。
 よかったのだが、一つだけ。できることなら場所を考えて告白すればよいものを、他の事には全く頭が回らなかったのが、絳攸の唯一にして最大の失敗であった。

 もしも場所がここでなければ、鳳珠に目をつけられることもなかったろうに。

 妙なところで不器用な自身の養い子に、半ば呆れずにはいられない黎深だったが。
そんなところがいかにも彼らしいと、同時に思わずにはおられなかった。

(さあて、が戻ってきたら一体どうやってからかってやろうか……)

 そして、じきにここへ戻って来るであろう少女に対してどんな言葉をかけようかと算段しながら、黎深は口元だけに忍び笑いを浮かべていた。





 そして、数刻の刻が過ぎたーーーー。


「おかしいね、鳳珠。一向にが帰ってこないじゃないか」
 てっきり絳攸との会話が終われば、此方へ戻ってくるだろうと思われていただが、未だに帰ってくる気配がなかった。訝しげに呟く黎深の言葉を耳に入れたらしい鳳珠は、彼に向かって何を今更と言わんばかりの表情であっさりと告げる。

「何を馬鹿な事を言っているんだ、お前は。
ならとうの昔にお前の養い子と一緒に帰ったぞ」

 数刻前までは他人の言葉も耳に入らないほどに激昂していた鳳珠だったが、具体的に相手を責め立てる算段がそれなりに整ったからだろうか。すっかりと怒りは消え失せ、いつもの麗しの美顔へと戻っていた。

「………私は確か、に戻ってくるように言っていたはずだけどねぇ」

「あの調子なら忘れてるだろ、完全に」
 とりあえず怒りもおさまったらしい鳳珠は、何やら不穏な雰囲気を漂わせる黎深に対して、彼自身の答えに相手が一体どんな反応を示すのか理解した上で、あっけらかんと答えた。

 そして、見事に鳳珠の予想は当たった。

「………ふっふっふ、私よりも絳攸の方が大事だとそう言いたいのかな、あの子は。
その気持ちはわからなくもないけれど、約束はキチンと守るべきだ。君もそう思うだろ? 」
 口元に歪んだ笑みを浮かべたそのままで、黎深はゆらりとその場に立ち上がった。到底笑顔とはほど遠い印象を受ける彼の背後には、何やら不穏な霊気が漂っている。

 だが鳳珠は動じる事もなく、何事もないように自分で入れたお茶を嚥下すると。

「約束を守れと人に強要するなら、お前も自分の仕事くらいは自分でやれ。給料泥棒め」

「鳳珠、こう見えて私は給料分しっかりと働いてるんだよ。まあ、そのことはともかく。幸い絳攸には鳳珠からきつい仕返しがいくみたいだし、何より私はとっても優しいからね。あとでにはちょっとした罰を受けてもらわないといけないかなぁ」

「お前の“優しい”は、世間一般とは別の意味で使われてるようだがな。
少しは自覚しろ。少なくともを傷つけるような事は許さんぞ」
 黎深の方へと視線を向けるでもなく、視線は手にした湯飲みへと落としたままで。すでに何やら企んでいるらしい黎深に水を差すように、鳳珠はさりげなく口を出す。

「失礼だね、鳳珠。あくまでちょっとした罰だと言ってるだろ。
そういう君こそ、絳攸をあまり苛めてくれるなよ。
ああ見えてあの子は、私によく似てとても繊細だからね」
 腰に手を当て仁王立ちになった彼がふんぞり返って堂々と宣言すると、鳳珠は折角の美顔へ勿体ないほどに眉間に皺を寄せた。

「……お前のどこが繊細だ。一度“繊細”の意味を辞書で引いてこい」

「少なくとも私の辞書には、繊細=私のような人間と書かれているんだけど」

「そんな欠陥辞書、とっとと破棄しろ。何の役にもたたんわ!! 」
 叫びながら反射的に湯飲みを投げつけかけて。ギリギリの所で我に返った鳳珠は、持っていた湯飲みを慌てて卓机の上へと戻したのだった。


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「……う〜ん……」
 屋敷へと帰るその道の途中、軒の中でずっと何かを考えている素振りを見せていただが、ついにはいきなり唸り出したから驚かずにはいられない。

「どうした、
 彼女の向かい側に座っていた絳攸は、半ば引きつった表情で訊ねる。

「何か忘れてるような気がするんだけど、どうしても思い出せないの……」
 絳攸の言葉に答えるは、やはりどこか上の空だ。その忘れている“何か”を思い出そうと必死になっているその姿は、いじらしいと言えば確かだが。いかんせん、獣を彷彿とさせる声で唸られては、そのいじらしさもたちまちに消え失せるというものである。

「…忘れて困る事なら、すぐに思い出すだろ」

「……そうだよね。うん、きっとそうだね。じゃあ、気にしない」

 まさかこれより数刻後に、「やっぱりあそこで思い出しておけばよかった!」と頭を抱える事態に陥るなど思いも寄らず。は絳攸の薦めでいともあっさりと、気になったことを思い出すのを放棄したのだった。


 果たして今後の二人の運命や、いかに……?






*後書き…
・一世一代の大告白(裏)、黎深&鳳珠編でございました。ズバリ、後日談其の一です。
こちらのお話は一世一代〜と同じ時間軸ですが、視点を完全に黎深&鳳珠に定めてのお話となります。と絳攸が完全に二人だけの世界に突入している時、黎深と鳳珠はどうしていたのか? というお話なんですが、一応この先のお話への伏線を張りまくった一話でもあります。まだまだもうちょっと後日談として続いていきますので、宜しければ見てやって下さいませませ。
 そしてこの作品を書く一番のきっかけとなったのは、とある方のご感想で「ヒロインは黎深に戻ってくると約束していたのに、そのこと忘れて帰ってしまっていますね」という指摘を受けたからです。言われるまで書いてる当人、すっかりそのこと忘れてました…。
 もっともそのおかげで、連作の続きを書く=シリーズものへと昇格したわけですから。世の中って何が幸いするか、わからないですねぇ……。
 そして、微妙に次々回へと続きます。え、なんで次々回かって? 次の日にする前に、どうしても書いておきたいやり取りがあるからですよ。藍家の光源氏様があのままおとなしく自宅に帰るなんて、とても思えないじゃないですか(微妙に次回予告)。