『あねうえ、これ……』

 まだ5つにも満たない少年が、そっと差し出してくれたのは、一輪の花だった。
彼が持ってきたのは、今の季節ならどこを探してもすぐに見つかるような花。まして藍家本邸の庭には、各地から持ってきた様々な種類の花が植えてあるのだ。

 なのに、どういうわけかには、それがそこらの花と同じ花には見えなかった。

 自分に向けられた真っ直ぐな黒曜石の瞳は、どこまでも曇り無く澄み切っている。さすがに血は争えないのか、彼女の上の異母兄たちと似通った面差しを持つ少年の容貌は、文句なしに整っていた。癖のない真っ直ぐ伸びた髪は、見事なまでに艶やか。まるで黒い絹糸のように、柔らかで滑らかだ。
 そして何よりも、を惹きつけてやまないのは、彼の浮かべる邪気のない笑顔だった。
裏の全くない屈託な笑顔は、彼女がどれだけ望んでも誰からも与えられなかったものであったから。
 女の身でありながら手習いや刺繍といった芸事よりも学を好み、武芸にも励む藍家長姫。それを当主である父は、あまり好ましく思ってはいなかった。名門藍家の姫君でありながら、姫君らしくないを、父は腫れ物にでも触るようにしか見てはくれなかった。唯一自分の味方であった母も彼女が幼い頃、何者かが送り込んだ暗殺者によって命を奪われた。

 それ以来、はずっとこの広い屋敷の中でひとりぼっちだった。
 誰一人として、彼女をかまってくれる者はいなかった。
 唯一の例外が藍家の長子であった三つ子の兄たちだったが、彼らはけしてを妹として見ているのではなく、あくまで“藍家長姫”としてか見てはくれなかった。
 本当のを見て、彼女の全てを知った上で認めてくれる人間など。
この屋敷には存在しなかった。

 ただ一人、藍家直系を名乗れる幼い末弟を除いては。

『ありがとう、綺麗な花ね』
 は幼い弟の手から花を受け取ると、そっと花弁に唇を寄せた。
ほんのりと甘い香りを漂わせるその花は、いかなる金銀・高価な宝玉など比べものにならぬほど美しく、価値あるものだった。

 その花をくれたのが、唯一が心を許し、愛するたった一人の弟であったから。

 はもらった花を髪に挿すと、そばにいる最愛の弟を抱き寄せる。

『…あねうえは、やっぱりきれい。お花もきれいだけど、あねうえのほうがもっときれい』
 ほんのり頬を紅く染めて、可愛らしい笑顔を浮かべる彼の言葉に、嘘は一つも見えない。
嘘のない心からの讃辞だと分かるから、は弟の身体を抱く腕にほんの少し力を込めた。

『  』

 言葉にならない声で、は弟の名を呼ぶ。

 もうすぐ彼は彼でなくなってしまう。わずか4才にして、大の大人も凌ぐ聡明さを持つ彼は、“藍龍蓮”の名を与えられることが決まっていた。藍家の象徴である“双龍蓮泉”から名を取った“龍蓮”というこの名は、真性の天才と呼ぶべき天つ才の持ち主のみが継承できる特別な名前だ。この名を持つ者は、藍家当主の決定すら覆す権力をその手にできる。それゆえにこの名を持つ者は、ほぼ自動的に藍家当主の座が約束されるのである。
 だがその絶大な権力と引き替えに、ほぼ一生涯の“孤独”をも約束される。藍家当主の座に落ち着けば、そう易々と外の世界へと出ることは敵わない。それはまだ幼い弟にとって、けして良いことではないとわかっているのに、父は躊躇いもなく彼を当主に推すのだろう。

(……つくづく反吐が出るほど、最低な父親だこと)

 だが、たとえそうとわかっていてもにはどうすることもできない。

 それがとても苦しくて。辛くて。

 は弟を抱きしめずにはおられなかった。


『あ、あねうえ……泣いてるの?』

『………大丈夫、大丈夫だから……』 

 心配そうに見上げてくる弟が、何よりも愛おしい。
 愛しいこの子に辛そうな顔をさせるのが、嫌だったから。

 は、心配するなとばかりに言葉を告げる。

 それでもあふれ出す涙は、一向に止まるところをしらないーーーーー



********************



『姉上、入りますよ』

 いつも聞いていた末弟の声ではない。

 それはそうだ。彼が“藍龍蓮”の名を襲名するに至り、藍家直系の長子である三つ子たちが藍家当主の座に就いた。三つ子の当主というのは今までに全く前例がなかったから、彼らが当主に就任した当時は不吉だと散々に騒がれたものだ。
 だが彼らが当主に就任したおかげで、龍蓮は藍家という檻から解放された。兄たちが与えてくれた自由を、彼は国中を放浪する時間に変えた。よって今、藍龍蓮の名を襲名した末弟の姿は、この藍州本邸にない。

 そのことがきっかけとなって、は一切部屋から外に出なくなった。もともとこの家に居場所の無かった彼女にとって、もはや龍蓮のいないこの屋敷に未練も何もない。だが一人でやっていけるだけの力は悔しいことになかったから、家を出て行こうにも出て行けず。その苛立ちや様々な感情の絡みとが、結果として引きこもりという形を取るに至ったのである。


 楸瑛はそんな異母姉の部屋へ入ってきたのだった。
このままずっと部屋にこもったままでは、彼女のためにならない。
あの三つ子の兄たちですら、時に舌を巻くほどの才を持つ聡明な異母姉。その才をここで失ってしまうのは何とも惜しい。
 そして何よりも。美しくも誇り高く、武芸にも通じた才色兼備な彼女を、彼はひそかに尊敬すらしていたのだ。今までは父がいた手前、なかなか話すことも出来ずにいたのだが、兄に当主の座を譲った父はもうすでに隠居している。もう彼の言うことを聞く義理もないし、そもそも姉に近づくなという命令なら聞くつもりすらなかった。もっとも兄たちが目を光らせている以上、父の不必要な干渉はまずここまで下りてこないはずだ。

 彼女の中で唯一絶対と認識されている末弟・龍蓮。
 それが少し妬ましくもあったし、正直悔しかった。
 自分の方が姉に年が近くて、弟よりもずっと頼りになれるはずなのに。

(馬鹿な父のことなど気にしなければよかった……)

 余計なことに気を取られていたから、彼女の一番になる機会を逃した。


姉上、いつまでそうしておられるつもりですか? 』 

『貴方には関係のないことでしょう』
 感情もなにもこもらない声音が、淡々と単語の羅列を紡ぐ。

『関係なくはありません。私にとっても貴方は大事な異母姉ですから』
 楸瑛がそう言うと、はその言葉を鼻で笑った。
そうしたかと思えば、相変わらず感情のない冷淡な声が言葉を刻む。
『………今更よくそんなことが言えたものね。あの三馬鹿兄たちにでも言われてきた?
藍家長姫を部屋から出してこい、とでも?』

 は嘲りの感情を色濃く浮かべるが、楸瑛はものともせずに首を横に振った。

『いいえ。兄上たちからは、特に何も。私が来たいと思ったからここへ来ました』

『帰りなさい。貴方がここにいても出来ることはないわ』

『あります。少なくともこうして姉上と話すくらいのことは、出来ますでしょう?』

 楸瑛の言葉に、は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。

『………口だけはたいそううまいこと』

『口だけではありませんよ。姉上、私はずっと昔から貴女を敬愛しています。
文武両道にして才色兼備な貴女は、私の自慢の姉ですよ』


 ぬけぬけとそう言ってきた弟は、持っていた花をの前に差し出した。
まるで太陽のように大きくて、華やかな花。この付近ではあまり見かけないものだ。


『珍しい花でしょう。暑い地方に生える花で、“向日葵”と言うそうです。先だって、一言しか書いていない匿名の手紙と一緒に届けられたんですけどね。
“敬愛”という花言葉を持つ花だそうですよ』

『……その手紙には、なんて?』

『これで姉上が立ち直らなかったら、楸兄上は愚兄決定だ…と書かれていましたよ』
 全く予想だにしていなかった言葉に、は大きく目を見開いた。

 ――――あぁ、なんてこと。

 それはまぎれもなく、彼女が溺愛する末弟・龍蓮からの贈り物に違いはなかった。


『姉上、龍蓮はずっと帰ってこないわけではありません。ですからそんなに気をお落としにならないで下さい。姉上が沈んだままでは、弟も気兼ねなく諸国漫遊の旅に出来ることも出来ませんし、嘆いたところで事態が好転するわけでもないでしょう。
……それに、貴女にしかできないことは、世の中にたくさんあると私は思いますよ』

『………私にしか、出来ないことですって? 』 

『姉上、私に学問を教えては下さいませんか。
国試を受けられない姉上に代わって、私が国試を受けて官吏になります』

『楸瑛………、貴方まさか……』 
 は驚きに目を瞠る。初めて弟の名を呼んだことすら、気づかぬままで。

『姉上が何を望んでいるのか、知っています。
貴女が学問を修めようとしているのも、武芸を修めるのも………』
 楸瑛は姉が自分の名を呼んでくれたことに喜びを噛みしめながら、掛け値なしの笑顔を浮かべた。それでいて口から滑り出す言葉は、的確にの心内をついてくる。

『…………驚いたわね。そこまで私の心を見抜いていたなんて………。
………いいわ。私でいいというのなら、とことん厳しく鍛えてあげようじゃないの』

『お手柔らかに頼みますよ、姉上』
 大人びた年不相応の表情を浮かべていた楸瑛の顔に、初めて年相応の笑顔が浮かぶ。

 は驚くほどに気の回るこの二歳年下の弟を、何も言わずに抱きしめたのだった。



**********************


「………あれでも昔はまだ、可愛かったのにね………」

 王の執務室で楸瑛と絳攸の仕事の補佐をしていたは、前触れもなく唐突に呟いた。部屋の中にいる者たちは皆、せっせと各々に振り分けられた仕事をこなしている最中だったものだから、彼女の言葉は思いの外、部屋の中一帯に響き渡った。

「唐突にどうしたのだ、
 書翰に筆を滑らせる手を止めて、半ば困惑気味に首を傾げて訊ねてきたのは劉輝だ。
そんな彼に、は筆を走らせる手を止めぬままで答えを返す。
「いや、ちょっと昔の事を思い出して……」

「昔の事? 」
 訝しげな声を上げる絳攸とは裏腹に、楸瑛の顔は微妙に引きつっていた。
この姉が昔の事を思い出す時には、決まって自分が関係していることを知っているがゆえだ。そう、彼女はとにかく自分をからかって遊ぶのが好きなのだ。たとえそれが、愛情の裏返しと知っていても、あまり嬉しいものではない。

「楸瑛だって、ああ見えて昔はまだ可愛げもあったのよ。なのに………」
「今では女泣かせの帝王だからな」
 が切々と語れば、その言葉を受け継ぐかのように絳攸が先を続ける。

「………あのね、絳攸。そういう言い方は……」
 まるで悪の帝王張りの言われように、さすがの楸瑛も表情を崩さずにはいられなかった。
一応無駄とは知りつつも、口を開いてはみるものの。

「事実よね」
「珠翠からいつも苦情が来ていて、余も正直言って困っているのだぞ」
 はもちろん、劉輝にまで先手を打たれてしまった。

「………………」
 これにはもはや返す言葉もなく、楸瑛は黙り込むほかない。

「全くどこをどうしてこんなになっちゃったんだか。
まあ、そもそも楸瑛に可愛さを求める方が間違っているのかもしれないけどね………」
 は、はふぅと可愛らしい溜息を吐くと、窓の外へと視線を向けた。あさっての方へと向けられた遠い目は、彼女の言葉が隠された本音であることを暗に物語っている。

「姉上……、姉上が昔部屋に引きこもっていた時に私が励ましたことをお忘れですか? 」

 駄目もとで恨み言を漏らしてみる楸瑛だが、やはり相手の方が一枚も二枚も上手だ。

「あら。あの時に私を励ましてくれたのは、龍蓮が送ってくれた向日葵の花よ? 」
 龍蓮の名前を出すだけで機嫌が良くなるの姿を見ていて、気づけば本人の意志よりも前に、この言葉が口をついて出ていた。

「…………そんなに私よりも龍蓮の方が可愛いですか? 」

「当然じゃない」
 太陽が東から西へ沈む覆せない物事の真理を語るように、はあっさりきっぱりと言い放つ。彼女が龍蓮に対して特別な思い入れがあることを知ってはいるのだが、これにはさすがの楸瑛も黙ってはいられない。

「………姉上がそんなだから、私もつい遊びが過ぎてしまうのですよ」
 いつも余裕綽々の彼にしては珍しく、子供が拗ねたような響きのある声音で反論する。
もしもここにいるのが一人ならば、案外と情に訴えかける事もできたかもしれない。
なんだかんだ言っても、彼女は身内にとことん甘い。なかでも自分より年下の兄弟に関しては、黎深の兄馬鹿・姪馬鹿に匹敵するほどの弟馬鹿を発揮するほどだ。

 だがあいにくと、ここにいるのはだけではなかった。


「よくもまあ、自分の悪癖の原因を姉に押しつけられるものだ。
一体どこまで面の皮が厚いんだ、貴様は」
 呆れて物も言えんと言わんばかりの視線と口調で吐き捨てたのは、腐れ縁の同僚。

「全くもってその通りだな」
 深々と頷きながら絳攸の言葉に同意を示したのは、天然・世間知らずの称号をほしいままにしている若い彩雲国王だ。

 そんな二人の様子を慈愛の籠もった眼差しで眺めていたは、まるで恋の熱に浮かされた乙女のような溜息を漏らした。
当然の事ながら、間違えても楸瑛にはそんな視線を送ってくれた事は一度もない。

「絳攸も劉輝も本当に可愛いわねえ……。いっそ私の弟に欲しい位よ」
 ちょうど自分から一番近い位置にいた絳攸を後ろから抱きしめると、やや癖のある水色の髪を撫でつけるように優しく触れる

 自分にはちっとも優しくしてくれないくせに、なぜか赤の他人にべたべたと優しい姉の様子を見ながら、楸瑛がなんとも複雑な心情に陥ったことは。


もちろん、言うまでもないことである。






*後書き…
・兄弟で10のお題、第一弾「昔は可愛かったのに…」をお届けしました。
全然お題に沿ってないじゃん、という突っ込みはできれば無しの方向でお願いします。
どうにも私は楸瑛をからかい苛めるのが好きなようです。
というよりも、楸瑛に対して鋭い突っ込みを入れる絳攸を書きたいだけな気もしますが……。
なんだか書いてるうちに、楸瑛が哀れになってきました…。
次回は是非彼にも花を持たせてあげようかと思います(本当かよ)。
にしてもやはり、双花菖蒲+王様のメンバーは書いてて楽しいですねえ。