「ふんふん、ふふ〜んふ〜ん♪」

 陽気に鼻歌を歌いながら、は実に手慣れた動作でテキパキと調理を進めていく。
昨晩あらかじめ寝かせておいた手作りパンをオーブンで焼きながら、朝食のメインメニューとなるスクランブルエッグを作るため、溶いた卵にチーズと塩を加えてまた混ぜる。そんなことをやりつつ、年代物の珍しいコーヒーメーカーに水と挽いたコーヒー豆をヒットして。冷蔵庫から取り出した新鮮な野菜を軽く水洗いして、食べやすい大きさに切っていく。

 野菜サラダの盛りつけを3人分終えたところで、はまた時計を見る。

『午前5時48分』

 もうそろそろトレーニングに行った次兄も帰ってくる頃だ。
 
 はそれを頭にしっかりと入れた上で、サラダを並べるために一旦台所を出た。
 台所を出てすぐ隣の部屋がこの家の居間になっている。檜のように白い地肌をもった木で作られた食卓の上には、白い花を生けた花瓶が中央に飾られ、すでにフォーク類や小さな小皿が並べられていた。はお盆の上に乗せていた小さなサラダボールをそれぞれの席に置くと、クルリと方向転換して台所へ戻る。

 …否、戻ろうとした。

 しかし、180°方向転換しようとしても、後ろから誰かに抱きすくめられているため、方向転換することが出来ない。


「…おはよう、。」
 想像していた通りの声が聞こえたので、は苦笑いを浮かべて見せる。

「…おはよう、リシャルト兄様。ようやくお目覚め?」
 苦笑いを浮かべたまま、が少し顔を上げて仰ぎ見れば、そこには穏やかな笑顔を浮かべる長兄の姿があった。本当に今起きたばかりらしく、いつもなら整えられているはずの黒褐色の髪は珍しく乱れている。それでも目はすっかりと覚めているようで、黒縁の眼鏡の奥に見える深い海の色を宿す双眸には、いつもと変わらぬ穏やかな光が宿っていた。

「ああ、香ばしいパンの香りに誘われてね。それにしても、は早起きだな。」

「私よりもヴェルハルト兄様の方が早いわよ。
それに、私が朝早いんじゃなくて、リシャルト兄様が寝ぼすけなだけでしょ?」

「ああ、そうだね。だけど、仕方ないじゃないか。
そうでないと今度は寝不足になってしまうんだから。」
 リシャルトはそう言うと、頬をふくらませて自分の行動を諫めてくるの髪を愛おしげに撫でる。艶々と彼女の背中に流れ落ちる漆黒の髪は、まるでビロードのような心地よい感触を手に残していく。

「寝不足はもっとダメ。兄様ってば、ただでさえ身体の調子が良くないんだから…。
せめてもう少し夜早く寝るようにしてよ。」

「…が添い寝をしてくれるなら、考えるけどね。」
 そう言って、リシャルトはを抱く腕に力を込める。

 しかしは、そんな彼の頭を持っていたお盆で軽く殴った。

「馬鹿なこと言わないの。もしそんなことしてみたらどうなると思う?
兄様、ヴェルハルト兄様に斬られるわよ?」

「…それはちょっと勘弁してもらいたいな…。」

 リシャルトの弟ヴェルハルトは、このパルテでも一,二を争うほどの強さを誇る大剣使いだ。その実力は、実質パルテ最強とされる元ブラキアの英雄グルガが認めているくらいだから、相当なものである。
 普段は物静かな性格なのだが、熱くなると我を忘れてしまう癖があり、なかでものことが絡むと周囲が全く見えなくなるという欠点がある。

「そう思うのなら、冗談言ってないで早く支度してきてよ。
ほら、髪に寝癖が尽きっぱなしじゃないの」
 どうにかして身体の向きを変えることだけには成功したは、ところどころ跳ねているリシャルトの髪に手を伸ばし、跳ねているところを撫でつける。

「わかってるよ。でももう少しだけ、こうさせていてくれないか…」
 いつものリシャルトならば、この辺でいい加減離れてくれそうなものなのに、今日に限って彼はをまだ腕の中から解放しようとはしなかった。

「…リシャルト兄様、何かあったの?」
 心配そうにが訊ねると、リシャルトは彼女の肩に顔を埋めたままで呟く。

「…が、いなくなる夢を見たんだ…。」
 呟くリシャルトの腕にさらに力がこもる。
その言葉に、は今朝見た夢を思い出す。

「あ…、私は元の世界にいた頃の夢を見たわ。ボールを追いかけて、誤って足を踏み外して落ちそうになって…、そしてその後気付いたらこの世界にいたのよね…。」



 足を踏み外して、次に来る痛みを覚悟した後。
 多分、何らかの理由では今いるこの世界へと召喚された。

 召喚された先は、ロマリア。
 街も城も(空中城を除く)滅茶苦茶になって瓦礫の山と化していた街の中に、彼女はたった一人で立っていた。「大災害」で皆が混乱で慌てる中、はどうしたらよいかわからなくて一人で泣いていたのだ。
 そんな時に、不思議な声が彼女を導いてくれたのである。
 導かれるままに歩いていたを発見したのが、リシャルト・ヴェルハルト兄弟だったというわけだ。今のがあるのも、彼らのおかげと言っても過言ではない。


「確かには、私たち兄弟と血の繋がりはない。だけど、私もヴェルハルトものことを本当の妹だと思っている。それでは、ダメなのか…?」
 深い海の色を宿すリシャルトの瞳が、真っ直ぐにの漆黒の双眸を射る。その瞳には、深い哀しみの色が灯っていた。

 そんなリシャルトの言葉を否定するように、は大きく首を振る。

「そんなことない!今の私があるのは、リシャルト兄様とヴェルハルト兄様が私を育ててくれたおかげなのよ?!血の繋がりがなくたって、二人は私の大事な兄様だもの!」

「…。」

「私はすごく感謝してるの。兄様たちのおかげで、私は今こうして生きている。一人だったら、もしかしたら死んでいたかもしれない。だから私にとって兄様たちは、命の恩人で、大事な家族なの。リシャルト兄様…私、約束する。私、絶対いなくなったりしないわ。ずっと兄様たちと一緒にいるから…。」

 本当のことを言えば、自身にもずっとここにいられる確証はない。
 よくわからないままに異世界へ召喚されてきてしまったのなら、同じように突然元の世界へ戻される可能性だってないとは言えないのだから。
 それでも彼女は帰るつもりはなかった。
両親を恋しく思うことは、確かにあったけれど。
けしてこの世界へ来たことを悔いたことなど一度もなかったから。
 そしてそう思えたのは、リシャルトとヴェルハルトという二人の兄がいてこそなのだ。
 
 はその思いを打ち消そうとするかのように、リシャルトの胸に頭を預けて、彼の背中に手を回した。優しく抱きしめてくれる兄のぬくもりが、自分という存在が確かにこの世界に在るのだと、安心させてくれるから。
 
 リシャルトはそんなの頭を優しく撫でてやりながら…ふと、あることを思い出した。

「…そう言うけど、。君は一度、私たちに一言もなしに過去の世界へ旅立ったような気がするんだが…?」

「…そ、それはっ!私の意志じゃなくて、精霊の導きだもの!!私は被害者!文句があるなら、五大精霊の誰かに言って!!!」
 言われてハッと気付いたは、慌てて弁解を試みる。

 確かに一度、彼女は過去の世界へとタイムスリップしていた時期があった。当然のことながら、いなくなることを事前に兄たちに報告しておけるはずもなく(なにせにとっても突然のことだったので)、約一週間ほど行方不明になっていたのだ。

 一生懸命に言い訳するを微笑ましく眺めていたリシャルトは、不意に顔に浮かべていた笑みを消した。穏やかな光を浮かべていた双眸には、まるで剣の切っ先のように鋭い光が灯る。
…。」

「リシャルト兄様?」

「私がいいと言うまで、目を閉じていてご覧。」

「???」
 何がなんだかよくわからないだが、それでも言われた通りに目を閉じる。

「…いい子だね、。」
 リシャルトはそう呟くと、彼女の頬にそっと手をかける。そして頬を撫でるようにして手の位置を下ろすと、彼女の顎に軽く手を当てて上を向かせた。

「兄様、まだ目閉じてなきゃダメ?」

「まだ、だよ。あともう少しだから…」

 はおとなしくその言葉に従う。

 全面的に置かれているその信頼を、自ら裏切るようで気が引けるのも確か。だが、今はそれ以上に彼女を欲する心の方がさらに強くて。
 ほんの少し触れるだけだ、と自らに言い聞かせ、リシャルトはに顔を寄せる。

 一方のはと言えば、リシャルトがどうして突然目を閉じるようにと言いだしたのかわからないまま、それでも素直に目を閉じ続けながら悩んでいた。

(一体何の意味があるって言うんだろう?)

 そう考え続けるの鼻が、パンの焼ける香ばしい香りを捕らえる。

(アレ…、そういえば私、パンをオーブンにかけっぱなしじゃ…)

 それに、そろそろトレーニングに行っていたヴェルハルトも帰ってくる頃だろう。もう朝食の準備を始めないと、彼が帰ってきた時にすぐ朝食を食べ始めることが出来なくなってしまう。

「あのね兄様、そろそろ朝食の準備を…」

 がそう言いかけたのと、部屋の扉が力任せに開かれたのとはほぼ同時だった。


バタァァァァッン!!

 近くに他人の家があれば、間違いなく筒抜けだったに違いないくらいの大きな音を立てて開かれた扉の向こうにいたのは、背中に自分と同じくらいの長さの大剣を背負った青年だった。
 肩越しまで伸びる銀色の髪と、切れ長で曇り一つない青玉を思わせる美しい青の瞳。ややきつめの印象を与える面立ちで、研ぎ澄まされた剣の切っ先を彷彿とさせる美貌の持ち主だ。容姿はあまり似ている点はないが、彼はまぎれもなくリシャルトの弟――ヴェルハルトその人である。

 力任せに扉を開け放ったヴェルハルトは、一瞬目の前で繰り広げられていた光景に絶句するが。すぐに正気に返り、怒りの形相も露わに叫んだ。
「兄さん!!俺のいない間にに何をしようとした!!!」

 その叫び声にリシャルトの手からわずかに力が抜ける。それを好機に、はリシャルトの腕の中から抜け出すと、急いで台所へと走っていった。

「おや、お帰りヴェルハルト。ずいぶんと早かったね。」
 折角の機会を不意にされたことを怒ってはいるものの、至極穏やかな笑顔を浮かべてリシャルトはヴェルハルトを迎え入れる。

「兄さん、話をはぐらかさないでくれ!俺が聞きたいのは、さっき兄さんがに何をしようとしたか、それだけだ!!!」
 ヴェルハルトはズカズカと足音も荒く足を進めると、間近でリシャルトを睨みつける。
 ちなみにヴェルハルトとリシャルトは、ほぼ一回り年の差があるのだが、身長の差はたいしてなかった。むしろわずかにヴェルハルトの方が高いくらいだ。

「ちょっと悪戯心を起こしただけじゃないか。そうムキになることでもないよ。」

「ちょっとですむことか!!」
 リシャルトの言葉にカッとなったヴェルハルトは、思わず胸ぐらを掴みあげていた。

「もうすぐ朝ご飯出来るから…って、ヴェルハルト兄様!!なにやってるの?!」

 どうにか焦げることは免れたパンは、むしろこんがりときつね色に焼き上がっていて丁度いいくらいだった。そのパンをバスケットに入れて食卓へと運んできたは、ヴェルハルトがリシャルトの胸ぐらを掴みあげているのを見て、血相を変えて間に割って入ってくる。

「…!なんともなかったのか?兄さんに何もされなかったか?!」
 彼女が間に割って入ってくると、ヴェルハルトの意識は完全にのみに向けられる。
 の両肩に手を置いて、真剣な眼差しで訊ねるヴェルハルト。
 しかし、彼女には一体ヴェルハルトが何を言っているのか、まるでわかっていない。

「…ヴェルハルト兄様、それって何のこと???」

「……?本当に兄さんに何もされていないのか?」

「リシャルト兄様が私に何をするの?」
 訝しげに問い返されて、ヴェルハルトは答えに詰まる。そして彼は答える代わりに、の身体をかき抱く。

「ヴェルハルト兄様?」

「いや…。に何もなければ、それでいいんだ…。」

「そう?じゃあ二人とももうすぐ朝食が出来るから、ちゃんと支度して。リシャルト兄様はちゃんと身支度整えて、それからヴェルハルト兄様もちゃんと手を洗ってきてね。」
 納得はしないまでも、はそれ以上の追求をやめる。そして二人に食卓に着く前にするべきことをキッチリと事前に注意しておいてから、再び台所へと消えていった。

「…。」

「…とりあえず、の言う通りにしようか。
そうでないと、朝ご飯にありつけなくなりそうだ。」

「…そうだな。」

 しばらく沈黙していた兄弟だったが、ふと我に返って互いの顔を見合わせると。それぞれが自分のなすべき事を成しに、とりあえず居間を後にした。



*********************


 しばらくして、二人がそれぞれ支度を終えて食卓に着いた頃には、朝食全てが出揃っていた。焼きたてのロールパンと作りたてのスクランブルエッグがメインメニューか。その他サラダや果物も揃っていて、もういつでも食べ始められるようになっている。

「あ、そうそう。食べる前に二人に言っておきたいことがあるんだけど、いい?」
 がそう言いだしたのは、本当に食べる直前のことだった。

「なんだい、言いたい事というのは?」

 リシャルトがそう促すと、は少しだけ顔を赤らめながら
「うん、あのね…。リシャルト兄様、ヴェルハルト兄様、二人ともありがとう…。」
 そう言って満面の笑顔を浮かべた。


 私をあの時拾ってくれて。
 私を育ててくれて。
 私のこと、本当の家族だと思ってくれて。

 本当に、ありがとう…。






*後書き…
・アークのドリ主さんの境遇や、彼女の義兄弟であるリシャルトとヴェルハルトがに対してどんな態度をとっているのか、その辺りがわかるようにと思って書いた夢です。
ちなみにこれが初アーク夢です。なんだかやたらとリシャルト兄さんが出張ってますが、のちのち彼は出てこなくなってしまいますので、この時くらいは…。
にしても兄さん、さりげなく策士家です。そして本当に妹ののことを溺愛しているのですよ。
もはや家族愛を超えちゃってますから(笑)。ヴェルハルトの方もリシャルト兄さんと似たようなものですね。ただ兄さんほど積極的ではないみたいですが。
ふっふっふ、一応ほのぼのシスコン兄弟ものが書けたので満足気味です…。


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