「……もう朝か」
疲労困憊の身体に鞭打って、どうにか溜まっていた書類を処理し終えた冬獅郎は、辺りが白ずんできている事に気づいて筆を置いた。
ずっと机に向かってばかりいた為に固くなっていた筋肉をほぐすことも兼ねて、窓を覆う障子をゆっくりと開いてみれば、すでに窓の外は明るくなっている。どうやら昨日に続いて、本日も完徹してしまったようである。
机の周りを覆い尽くしていた書類の山は、完徹の成果もあって、すでに跡形もなく消えていた。それでも今日という新しい日が始まってしまった以上、今日は今日でまた書類があちこちから舞い込んでくるのは必至だ。
折角片づけた書類の山がそう遠くないうちに復活することを思い浮かべて、冬獅郎は知らぬうちに眉間へ大仰に皺を寄せて、深々と溜息を吐き出した。
【・・膝枕して欲しいな】
「…少しお休みになったらいかがですか? 」
自嘲気味に笑みを浮かべて窓の外を眺めていた冬獅郎に、声がかけられる。
振り向けば、湯飲みを乗せた盆を手にした一人の女性が穏やかな微笑を浮かべていた。
「か。まだいたのか」
てっきり残っていたのは自分だけと思っていた冬獅郎は、思いがけない人の姿を認めて、だいぶ重くなってきていた瞼を気力で無理矢理こじ開けた。
「ええ。隊長御自らが残業しているのに、ヒラ隊員の私がグーグー寝ていられるはずがないじゃないですか。それに私は、居酒屋で働いてたおかげで夜には強いんですよ」
驚愕の色を隠せない様子を露わにする冬獅郎の机の上に、は先ほど煎れてきた緑茶の入った湯飲みを置く。そしてすぐにその場を立ち去るでもなく、畳の上にゆっくりと腰を落ち着ける。
「残業お疲れ様でした、日番谷隊長」
その言葉と共に、彼女は満面の笑顔で上司をねぎらった。
常日頃、笑顔を絶やさないだが、たいていにおいてその笑みは作り物である。
それでも“居酒屋の若女将”という職業ゆえか、その笑みは周りの人間をリラックスさせるに十分な癒し効果を発揮するのだが、作り物は作り物。他人の心の機微に敏感な人間ならば、すぐにその笑みが彼女の本心とは別のものだと気づく事だろう。
その実、は“人見知り”である上、なかなか本心から他人を信用しようとはしない性癖の持ち主でもあった。それゆえに、本当に心からの笑顔を見せる相手というのは、極端に制限される。
制限されるのだが、その分彼女の本物の笑顔は、抜群の癒し効力を発揮する。
しかもその癒し効力が有効なのは、異性・同性・年代問わずというのだからスゴイ。
もっとも中には、別の意味で癒されている者もいるようで。
例に漏れず、冬獅郎もこの部類に入っている。
「あ、あぁ……」
飾り気一つないの笑顔に一瞬目を奪われーーーー、そのことに気づいた冬獅郎は、照れ隠しの為か。慌てて彼女から視線を外し、湯飲みに手を伸ばした。
「まだ本日分の仕事時間まで多少時間がありますし、一休みされたらいかがですか?
少しでも休んでおいた方が、疲労の度合いもだいぶ違いますし。
隊長がお望みなら、一曲歌でも披露しますけれど」
「何言ってんだ、お前だって徹夜で疲れてるだろうが。
俺の事ばかり気にしてないで、さっさと寝ろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てる冬獅郎の言葉に、はわずかに目を瞠る。
そんな相手の反応を見て、いささか言葉がきつかったかと内心焦る冬獅郎だが、そうではなかった。
もとより彼の不器用さを知っているだ。
彼の言葉が自分を慮ってのものであることなど、百も承知である。
「ご心配なく。私は本日、非番ですから。
それに仕事に疲れた人に少しでもささやかな癒しを与えるのが、私の仕事です」
だからは、手元に愛用の三線(蛇皮線)を喚び寄せて構えると、冬獅郎に向かって柔らかな微笑を浮かべる。
「…………それじゃあ、ファムレウタにしましょうか」
相手が何も言ってこないので、は三線の弦をバチで弾き始めるが。
バチを弾くの手を、冬獅郎が押さえ込んだ。
「隊長? 」
予想だにしなかった相手の行動に、は目を丸くする。
「歌はいい。それより………、」
「それより、何でしょう? 」
は三線を再び元の異空間へ戻すと、鮮やかな一対の緑柱石を覗き込む。
「……っ、………それより、お前には頼みたいことがある」
真っ直ぐに瞳を覗き込まれて、妙な気恥ずかしさにかられた冬獅郎は、不自然なまでに思いっきりから視線を逸らした。
「私が出来る事でしたら、なんなりと」
視線を逸らされたことには何も言わず、は相手に次の言葉を促すだけだ。
そして、しばしの沈黙の後。
「………………膝、貸してくれ」
耳まで真っ赤になりながらも、ようやく冬獅郎が言葉を絞り出す。
無論、その視線はからまるで違う、あさっての方を向いたままで。
「は? 」
意外な言葉に、は思わず間の抜けた声を漏らした。
「何度も言わせるなっ! だから、お前の膝を貸してくれって……」
顔を真っ赤にして叫ぶーーそれでも声量は抑え気味であるーー冬獅郎の身体が、グイと引っ張られた。
疲労の溜まっていたせいもあり、咄嗟に対応出来なかった彼はそのまま倒れ込むが……、倒れ込んだのは畳の上ではなかった。
「こんなものでよろしければ、どうぞ」
呆気にとられる冬獅郎をよそに、はニコニコと嬉しそうに笑顔を浮かべる。
身体中の血が頭に逆流したかのような感覚に襲われる冬獅郎だったが、叫ぼうとした言葉はそのまま発せられることなく、彼の中に埋没し、消えた。
柔らかな感触と、優しい香りと。
すぐそばに感じられる人肌のぬくもりに、無理矢理払ってきた眠気が戻ってくる。
あまりに心地よい環境に、そのまま身を委ねてしまいそうになるのをこらえて。
その碧の双眸で、相手の漆黒の瞳を真っ直ぐに見遣る。
「………悪い。一時間したら起こしてくれ」
そう言い置いて、冬獅郎は目を閉じた。
するとほどなく。
急速に身体を蝕む疲労と睡魔とに、完全に諸手を挙げて。
ようやく休息の時を得た冬獅郎は、眠りの世界へと入っていったのだった。
は冬獅郎の髪に触れながら、小さな声で呟く。
「……前に一度、言いませんでしたっけ?
私、日番谷隊長にならいつでも膝をお貸ししますよって………」
呟く声は、彼女が心を許す者に向ける声のなかでも格別に優しいもので。
膝の上で寝息を立てる少年へ向けられた漆黒の双眸には、慈愛と敬愛の眼差し以上にあたたかくも熱のこもった光が灯されていた。
*後書き…
・「ゆめまぼろしを彷徨う君」のヒロインで、ほのぼの冬獅郎夢。
偽非な日番谷隊長ですみません。まだまだ彼を書くには、鍛錬が足りませぬな(汗)。
(06.07.24 再up)